こんにちは、岡田歩です。(自己紹介はこちら)
わたしの趣味はキックボクシングです。
それがね、最近、以前ほど、萌えない自分がいたんです。
なんだか全然上達しない気がするし
やってても、前ほどクリアな感じがしないんです。
なんでこんなこと一生懸命やってるんだろう...
なんて考えてしまうことさえ、ありました。
嫌だってわけじゃないんだけれど...
でも
以前ほど萌えない。
そんな感じが、数週間続いたとき、あっ!って思いました。
これって、覚醒体験に似てますわ!
わたし、2年前にふとしたきっかけで
ミット打ちを体験したんです。
そのときに、
もうありえないぐらい意識がぶわぁっと広がったの。
(そのときの体験はこれ
→『ガチで夢が現実化しました!夢みていたときよりもいい形で!』)
とってもいい感じの瞑想したときの数倍、広がった。
頭頂からエネルギーが突き抜けたのよ。
そして、視界が360度開けるような感じにもなった。
これに衝撃を受けて、キックにはまったんです。
キックボクシングをしていて、
こうした意識が広がるような体験をしたのは、
その後、2、3回あったかなかったです。
しかも、一回目ほどの強い体験は、あの日以来ありません。
わたしは、あのときと同じ感覚をまた味わいたいなと思っていて、
味わえないのは、何かがうまくいっていないからかもしれない...
いったいどうしたら、あれをまた体験できるのかな...
なんて心のどこかで考えていたりするんです。
さて、
いわゆる覚醒「体験」。
体でもない、思考でもない、感情でもない自己の真実を
実感する、はっきりとした覚醒体験をする人がいます。
でも、
自己の真実に目覚めるって、「体験」じゃないんです。
体験は、それを知る大切なきっかけや深まりへのスタート、
あるいは深まりの中で起きる何かではあります。
どんな体験にも、始まりがあって終わりがありますね。
覚醒体験も、同じです。
覚醒体験をしている時間は有限です。
一方、自己の真実には始まりも終わりもありません。
だから、覚醒体験=自己の真実
じゃないのよね。
それに、”いわゆる”それらしい体験がなくても
自己の真実に目覚める人もいるしね。
わたしは、十数年前、覚醒体験をした方がたくさん出現したリトリートに
数年間、定期的に参加していました。
そこでも、おそらく
「覚醒は体験ではなくて、深まりです。」
ということは、聞いてはいたけれど、
やっぱり体験したくて、たまりませんでした。
結局、わたしは、そこでは目覚めの体験はまったく起こらなくって
そのうちやめてしまったの。
その後、かなりたってから
イーライ・ジャクソンベア(『自由へのエニアグラム』の著者)のスクールに参加するようになり
覚醒は体験ではないということを、実感しています。
(確かに、体験も大切な要素にはなるけれど)
だから、わたしは、とうとうある体験をしたあとも、
あまり自分の体験にしがみつくことはなかったのね。
「あの感覚を失ってしまった。あれをまた感じたい」とは思わないのです。
そのトラップには、はまらなかった。
そのことを思い出しました。
わたしは、初めてミット打ちしたときの、
あの感覚、あの体験をキックボクシングに
求めていたんですね。
特定の体験を求めることは、苦しみを生みますね。
私の中では
あの突き抜け感=キックボクシングという定義になっていて
あの突き抜け感をまた得ようとする。
でも、得られない。
それは、苦しみです。
覚醒体験と、自己の真実への目覚めを混同して
体験を求めようとするのと似てるな、と気づいたんです。
それがたとえ素晴らしいものだとしても
始まりがあり終わりがある体験というものに
囚われると、苦しみを生むんだった。
と、はッとしたら、キックボクシングを普通にまた楽しめるようになったわ。
今日も、日が暮れたあと、気温マイナス1度の中をいそいそとジムに出かけて
キックのクラスでわちゃわちゃ遊んできました。
あの体験をもう一度!
というのを脇に置いて
そこで起こることをただ体験し、味わう。
そしたら、普通に楽しいし、できないことがあったら普通にちょっぴり残念で、
そして、やっぱり、なんだか楽しい。
何か特定の体験にしがみつくと
大切なこと、自然な生き生きとした流れ、ピュアな喜びからそれちゃうね。
好きなものも、嫌いになっちゃうところだった。
好きこそものの上手なれとはいいますが、まあまあへたくそです。
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