884冊目『合理主義 東と西のロジック』(中村元 青土社) | 図書礼賛!

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近代の特徴に合理主義がある。宗教や迷信から脱し、対象を理知的に分析する近代の合理主義の精神が、科学革命や産業革命を生み出し、人類の文明の発展に大きく寄与したことに異論のある者はいまい。理性を人類の特権として崇めたデカルトが、近代哲学の父と言われる理由もここにある(870冊目『デカルト著作集Ⅰ』)。しかし、合理主義の「理」は大変抽象的な言葉である。理という言葉は、理性の他にも、理知、道理、理想といった多くの熟語を構成し、非常に多義的である。現代では、この合理主義という言葉は、数学的、物理的な論理体系という意味で使われることが一般的だが、それは合理主義のひとつの側面でしかない。著者は、仏教の理の観念を解説しながら、「理」を次のように区分けしている(35頁)。

正理 論理的必然性

理法 人間の取るべき理法

「正理」は、論理的な必然性を差し、数式や自然法則がこれに該当する。1+1が2なのは、経験を超えたアプリオリな事実である(1)。したがって、この正理は、「人間の主観的意欲によっては如何ともし難いものである」(35頁)。一方で、理法は、人間として取るべき道のことであり、道徳的な理のことを言う。したがって、理法は、人間の主観の問題であり、人間の存在根拠に関わる問題と言えよう。

 

一般的に、西洋の文脈で「理」と言えば、論理的必然性を意味する「正理」を意味し、東洋の文脈で「理」と言えば、道徳的な「理法」を意味する。さきほど述べたとおり、現状では合理主義という言葉は論理的な必然性のみを表す言葉となっているが、これは、近代化が、実質的には、西洋化以外の何ものでもなかったことを物語っている。実は、私はかつて、この問題について考えたことがある。近代的な論理と漢文的な論理の差異を考察したわけだが、その記事で私は次のように書いている。「我々が考えねばならないのは、近代主体と漢文脈主体がそれぞれ上位に掲げている「理性」と「道理」の方だろう。これらははたして同じものなのか。」567冊目『漢文スタイル』)。この時の問題提起に答えれば、近代的な論理は、まさしく西欧の正理であり、漢文的な論理は、東洋の理法ということになるだろう。ただ、問題なのは、両者は「はたして同じものなのか」ということだ。

 

論理的必然性と道徳は、はたして同じものなのか。これについては多く人が違うものだと答えるだろう。たとえば、科学は、論理的必然性を突き詰めていく営みだが、決して道徳の正解を決めることはできない。むしろ、道徳の問題は宗教の領域でよく語られたりする。近代という時代が、合理主義という言葉で、理性を特権的に扱ったとき、宗教は合理的根拠を欠く迷信だとされ、その権威が失墜したが(世俗化)、この時、道徳の権威もまた失墜したのであった。しかしながら、宗教が合理的根拠に欠くという見方は、西洋近代からのネガキャンだと見るべきだろう。宗教は決して、荒唐無稽な空想をばらまくものではない。宗教もまた、その存在根拠として論理を必要とするのだ。しかし、この論理は、論理的必然性ではない。人としてどう生きるべきかという問いに対する、理法としての論理である。そういう意味では、合理主義とは、論理的必然性と道徳的理法のバランスの上にある一つの知的態度のことを意味すると考えた方がよい。理性と道理は確かに違うものだが、どちらも合理主義を機能させる重要な要素なのだ。この両輪がよく機能してこそ、健全な合理主義の精神が生み出すあらゆる恩恵を私たちを享受できるというわけだ。

 

近年、科学に対する警戒が高まっている。核爆弾に始まり、環境破壊や専門家主義等。むしろ、私たちの生を窮屈にさせているのは科学ではないのか、という疑念が噴出している。人々は、科学を単に称賛する態度を止め、科学の社会的責任を問うようになった(539冊目『科学者の社会的責任』)。このような科学へ対する不信感が芽生えたのは、我々の生を豊かにする手段として論理的必然性だけを究めようとしたからではないだろうか。実際、ビッグデータによる統治も現実味を帯びているくらいに、我々は「生理」を極限まで押し進めてきた。しかし、ここには人がいかに生きるべきかという問いはない。実は、ハイデガーもこの問題いついて考えていた。ハイデガーは、思考に二つの領域を見いだした。「計算する思惟」と「省察する思惟」である(381冊目『原子力時代における哲学』)。計算する思惟は、数理的に処理する思考体系を意味し、先ほどの「理」の分類にしたがえば、「正理」にあたる。一方で、省察する思惟は、善悪を考える思考体系であり、これは「理法」に該当する。ハイデガーによれば、近代は、人々が省察する思惟から逃走し、計算する思惟によって一元的に支配されている時代である。近代科学の暴走が、計算する思惟の特権化にあるなら、私たちの課題は、省察する思惟をもう一度社会の中に取り戻すことだろう。

 

人は、計算する思惟だけでは生きていけない。なぜなら人はいかに生きるかというのは決しては数値化できないからである。著者は次のように述べる。

自然科学的思惟は、どこまでも客観的自然世界をその対象とするのであるから、その領域は限定されたものであり、人間に対して全面的支配を行うことはできない。それを以て人間の理法全般を規定することはできない。(145頁)。

ここで述べられているのは、あまりにも当たり前の結論である。しかし、全体主義やパンデミックでは、この常識が全く機能しなくなる。コロナ・パンデミックにおいて、マスク着用やワクチン接種の効果は、「科学的に証明されている」と何度も言われた。しかし、一部の学者からはマスクもワクチンもたいして効果はないと言う声も上がっている。私はこれらの真偽の科学的判定などできないが、どうにも不思議だったのは、こうした意見の対立が、ほとんど何の議論も深めることもなしにマスクもワクチンも「科学的に効果あり」とされたことだ。無論、これは国策だったからである。科学と国策が結託したとき、それは往々にしてプロパガンダと堕す。私は直感的に、この熟議を大切にしない拙速な真理判定にカルト的な匂いを感じた。そして、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』の世界観を思い起こさせた(649冊目『一九八四年』)。かりにマスクやワクチンが科学的に効果があると確実に証明されたとしても、それらを人々に強制できないことを言うまでもない。しかし、実際にはマスク警察やワクチンの同調圧力で、仕方なくマスクを着用したり、ワクチン接種に踏み切った人も少なくない。はたして、これらは人間の理法に基づいていたと言えるだろうか。パンデミックの渦中ならいざ知らず、パンデミック後においても、社会を病院にすることは正しかったのか、マスクやワクチンが同調圧力になってはいなかったのか、という議論がほとんど起こらないところに、まさに省察する思惟を忘れた現代社会の病理が現れている。

 

(1)しかし、これはウィトゲンシュタイン的に言えば、間違いである(122冊目『ウィトゲンシュタインはこう考えた』)。