877冊目『J・S・ミル』(関口正司 中公新書) | 図書礼賛!

図書礼賛!

死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

本書は、J・S・ミルの著作を通して、その思想の軌跡を辿りながら、ミルの一生を描いたものである。ミルは自らが自伝を著していることもあって、ミルの思想の系譜を辿ることは難しくない。ミルといえば、『自由論』(875冊目)が代表的な著作として有名だが、ミルの生涯を辿ってみることで、『自由論』もさらに深く理解することができる。ミルは幼少期から、類い稀な才能の持ち主であった。わずか三歳にしてギリシャ語の学習を始め、十二歳で論理学や経済学を学び、学者であった父の論文の校正の手伝いをしていたそうだ。ミルは学校での正規の教育を受けず、父親から指導を受け、そして書物を中心に知識を増やしていった。そして十三歳の時には、経済学の勉強を始め、十四歳になると、一年間のフランス滞在を経て、フランス語を身につけた。ミルは自伝で、このフランスに滞在した経験を「視野を広げ、イギリスだけの視点で眺めるという誤りを脱することができた」と振り返っており、多様性を擁護するミルの『自由論』の思想の端緒が、ここに見てとれる。帰国後は、法律の勉強をし、その二年後の十七歳の時に、東インド会社に就職した。このようにミルの経歴を振り返ってみると、まさに英才教育を受けたエリートのキャリアを歩んだと言えるだろう。

 

ミルの『自由論』をよりよく理解する上で、トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』は無視することはできない。ミルは、二九歳のとき、トクヴィルのこの著作から強い影響を受け、書評まで担当した。その五年後に『アメリカのデモクラシー』第二巻が出たときも書評を発表している。では、ミルは、トクヴィルの著作のどの部分に感銘を受けたのだろうか。ミルが注目したのは、中央集権化による専制を逃れるために地方自治に意義を見いだすアメリカ社会の特性だった。つまり、それぞれの地域の共同体が、権力に忖度せず、好き勝手に色々な活動をすることが、全体主義に陥らない民主主義の持続を可能にするというわけだ。批評家の東浩紀も、トクヴィルのこの部分に注目して、健全な民主主義が成立するためには、「喧騒」が必要だとした(844冊目『訂正可能性の哲学』845冊目『訂正する力』)。ミルが、『自由論』で、なぜあれほど意見の多様性を強調したのかには、トクヴィルから受けた思想の影響が色濃く表れている。「人間の知性の現状では、意見の多様性を通じてしか真理のあらゆる側面が公平に扱われる可能性はない」(『自由論』岩波文庫、109頁)。ちなみに、ミルとトクヴィルは、ミルの書評をきっかけに書簡のやりとりを行い、長年にわたって交流した。

 

前回、私はミルの『自由論』の内容を紹介しながら、そこで展開されている自由の哲学が、コロナ・パンデミックの時期には機能していなかったと論じた。ワクチンやマスクをめぐる安易な分断、熟議の軽視、レッテル貼り等。これらは自由の脅威でありながら、「正義」の名の下に感染対策として正当化された。ミルの『自由論』では、パンデミックにおける自由についての記述はないため、ミルが感染対策と自由の問題についてどのように考えるのかは分からないが、『自由論』で述べていることに従えば、今回の感染対策が、ミルの意向に沿わないことであろうことは容易に推測がつく。私が、今回の感染対策の最大の失敗だと思っているのは熟議の軽視である。パンデミックという緊急事態で、ある程度人々の自由を奪う感染対策は正当な処置ではある。しかし、だからこそ、その実施には十分な科学的根拠と、その効果の検証が要請される。しかし、それについての熟議はほとんどなく、批判をする人や慎重な判断を行う人を周縁に追いやって、その正しさを「証明」しようとしたのが今回の感染対策ではなかったか。ミルは、反対意見を抹殺することで自らの意見を通そうとする考えは、結局、自らの意見がどういう根拠によって支えられ、どのように良い意見であるのかを知らないことに直結すると述べ、どんなに間違った反対意見でも、必ずそれは意見として表明されなければならないし、その意見が存在するだけで十分に意味があると述べた。そういう意味では、今回のパンデミックのコロナ対策において、「専門家の意見を聞け」「自分の直感を信じるな」といった言葉が平気で言われたことは、異常であったといえよう。

 

それにしても、専門家主義の弊害は福島第一原発事故の時にさんざん言われたのに、もう忘れてしまったのだろうか。あらゆる判断を全て専門家に丸投げしてしまうことは、結局自分で何も考えず、ただ権威に従うだけの思考停止の人間を生み出してしまう。自分の頭でしっかり考えること、それが自由を守ることではないだろうか。ミルもまた、自分で考えることの重要性を説いている。

自分の知性がどんな結論を導き出すにせよ、自分の知性に従っていくのが、思想家としての第一の義務である。このことがわからない人は、偉大な思想家ではありえない。正しい意見であっても、自分自身で考えようとせず、そのため、ただ信奉しているだけの人の意見に比べれば、きちんと研究し準備した上で自分自身で考えた人の誤った意見の方が、真理に対する寄与は大きい。(『自由論』岩波文庫、78頁)

ミルにとって、自由とは何より道徳の問題であった。ミルは社会制度や政策を論じる時でも、常にそれが、人々の道徳心にどう影響するかを考えていた。たとえば、ミルは選挙人の中に高い知性を持った層に複数の投票権を与えるべきだという、選挙の平等を堂々と覆すような主張をしているが、これは「無知と知性を同等に扱わないという制度の精神が国民に影響を与える」(209頁)ものだと考えていたからである。ミルは、社会制度の構築は、その公正な運用と費用対効果だけでなく、人々の道徳心の向上と結びついていなければならなかった。この視点から日本の感染対策を振り返ってとき、決定的に欠けていたのは、道徳的な配慮ではなかっただろうか。さきほどの熟議が足りないという問題と重なるが、パンデミック時期において、「自分で考える」という当たり前のことが否定的に語られた。それどころか、医者や専門家が「リスクよりベネフィット」という、個人が考えるべき領域に平然と踏み込んできた。おそらく、これはミルにとっては道徳的に許されないものであるはずである。ミルはこう言っている。

人は誰でも、何の相談もなく自分の運命を左右する無制限の権力を他人からふるわれるときには、自分で気づいていようといまいと、人格を貶められているのである(207頁)

おそらく反ワクチン・反マスクの人々が台頭する理由はこれである。彼らは決して科学的リテラシーがないから、反対を叫んでいるのではない。自分で考えることを放棄するように迫り、なおかつ、熟議もないまま人々の運命に介入してくれる権力に対して、「人格を貶められている」と感じているのだ。自由とは、人格の問題である。日本のコロナ対策は、この視点は完全に欠けていた。