876冊目『密航のち洗濯 ときどき作家』(宋恵媛 望月優大 柏書房) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

最近、無名の人の人生に興味を持つようになった。シベリア抑留体験者の菅季治(378冊目『語られざる真実』)や、浅原正基(62冊目『苦悩のなかをゆく』)らの人生は極めて興味深い。菅にしても浅原にしても、シベリア抑留についてそれなりに知っている人でない限り、まずその存在を知らないような人物であるが、時代に翻弄された彼らの人生を追うとき、偉人に勝るとも劣らない人生の妙味を感じる。言うまでもないことだが、この世に生きている一人一人には、固有の人生がある。すべてが順風満帆に行っているように見える成功者も、実は人知れぬ悲劇の体験者だったりする。人生は人それぞれで、それ以上でもそれ以下でもないが、少なくとも確実に言えることは、誰もが、その時代の制約を受けているということだろう。たとえば、現在の私たちであれば、国民国家や情報化社会を当然とする社会で暮らしている。そうした時代の波にうまく乗れる人はいいが、逆にそうした環境を窮屈で生きづらいと思う人もいるだろう。それでも、私たちは、その時代を生きねばならない。

 

本書で扱っているのは、きわめて小さな家族の物語である。そのうちの主人公のひとり、尹紫遠は在日朝鮮人である。朝鮮半島南部にある蔚山の江陽里に生まれ、その後、日本に渡った人物だ。尹紫遠は無名の作家である。私も本書を読むまで知らなかった。いくつか著作があるらしいが、文学史的にとりたてて注目すべき作家ではない。しかし、彼がいくら無名であろうと、厳しい時代を生き抜いてきた彼の精神の輝きは、唯一無二の価値がある。さきほど誰もが時代の制約を受けると述べたが、この時代を生きた朝鮮人ほど、激動する歴史の流れに自己の運命が浸食されていることを強く感じ取っていたものはいないだろう。とりわけ、一九五二年のサンフランシスコ講話条約に伴う国籍変更の問題は、在日朝鮮人の運命を決定的に変えたと言ってよい。それまで日本人だとされてきた彼らは、この時、突如、外国人となったのだ。このことが、在日朝鮮人の運命を大きく変えた。解放された故郷に帰る者、帰国事業に夢を見いだす者、そして日本に残る者。それぞれの人生が、それぞれの選択を通して別々の道を歩み始めた。

 

尹紫遠は、敗戦時は朝鮮半島にいたが、密航で日本に戻ってきた。しばらくして日本人女性の大津登志子と結婚している。個人的にはこの女性に大変興味を持った。大津家は、尹紫遠とは対照的に非常に恵まれた家庭だった。登志子の祖父は政治家で、父は大企業の専務取締役だった。「大日本帝国のヒエラルキーの中で、登志子の家族は最も上に、尹紫遠は最も下にいた」(186頁)。大津家では、朝鮮人と一緒になろうとする登志子の結婚に反対だったそうだが、それでも二人は結婚した。当時は朝鮮人の男性と結婚する場合、妻となるものも朝鮮人と規定された。つまり、尹紫遠との結婚によって登志子は外国人となったのである。朝鮮人の妻となった登志子は、実家からの支えもなく、尹紫遠とともに極貧暮らしをすることになった。むしろ、尹紫遠のために、登志子が裁縫の仕事でどうにか家計を支えていたという。三人の子供に恵まれたが、夫婦仲は時にのっぴきならない場合もあったそうで、登志子は、夫と別れるために長男を連れて、北朝鮮に行こうとしていたいという。当時は北朝鮮帰国事業が行われているときであった(695冊目『北朝鮮帰国事業の研究 冷戦下の「移民的帰還」と日朝・日韓関係』)。

 

歴史に残るような政治家や改革者は、彼らの言動を残す数多くの資料がある。そうした資料を読むことで、彼らの人生を追体験もできる。しかし、無名の人の人物には、その言動を書き留める人がいない。尹紫遠は、習慣として日記をつけていたから、生活状況や関心、趣味などを知ることができるが、ほとんど活字資料を残していない妻登志子のような人物は、分からないことがあまりにも多い。本書では、子供たちの証言から登志子の人生を浮かび上がらせようとしているが、いくら子供でも、親については分からないことが多い。登志子は満州時代に何をしていたのか。尹紫遠との極貧暮らしをどう感じていたのか。尹紫遠亡き後は何を考えていたのか、そういったことは今となっては闇の中だ。だから、私たちは、想像力を持たねばならない。私が無名の人たちの人生に興味を惹かれるのは、自分の想像力を試されているような気がするからだ。そして、またその想像力は、かつて同じ境遇にあった、そして一文字もその痕跡を留めることもなかった無数の人々がいたことに思い及ぶだろう。本書の口絵には、山口県先崎湾から眺めた海の写真が載っている。その海の向こうは朝鮮半島だ。あまりにも広大なこの海を見つめながら、この海はどれだけの人々の物語を乗せてきたのだろうと思った。