875冊目『自由論』(ミル 岩波文庫) | 図書礼賛!

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二〇二〇年から始まったコロナ・パンデミックでは、多くの自由が制限された。政府は、ステイホーム、お家で過ごそうといったスローガンを連発し、人々の外出行動の自粛を求めた。飲食店は時短営業を強いられたり、地域の行事は中止されたり、と非常に息苦しい日々が続いた。学校に通う子供たちは、修学旅行、体育祭といった貴重な青春の思い出となるべき時間を無惨にも奪われた。もちろん、こうした自由の制限がある程度やむをえないとされたのは、パンデミックに対する感染対策だったからである。現在でも、コロナウイルスは決して消えてなくなったわけではないが(ゼロコロナは可能だと言った医者は、はたして今何を思うのだろうか)、弱毒化したということもあり、人々はマスクをしなくなり、社会は完全に日常に回帰した。ニュース番組でも、コロナの報道は全くなくなり、代わりに、大谷翔平の打撃成績と、大谷の妻の話で盛り上がっている。日本人は完全にコロナのことを忘れたようだ。もちろん、パンデミックが終焉したことは喜ばしいことだが、この三年間の感染対策についてはきっちり総括すべきだろう。実際、一部の人たちからは、三年間にも及ぶ感染対策は過剰だった、これは個人の自由を奪う医療支配だという声も上がっている。フーコー的な生権力の文脈で考えれば、この感染対策は、間違いなく、従順な身体を管理するための統治戦略だと言わざるをえない。しかしながら、私が非常に不思議で仕方ないことは、平時を取り戻した現在においても、パンデミックにおける自由の問題について、倫理的にも哲学的にも深く議論がなされているようにはとても見えないことである。これはアカデミニズムの怠慢ではないだろか。

 

パンデミックにおける自由とは何なのか。ミルの『自由論』を紐解きながら、パンデミックと自由の関係を考えてみたい。ミルの『自由論』は、一八五九年に公刊された。哲学史上、重要なこの著作は、難解な用語もなく、特別な予備知識も必要としないが、自由という主題を、きわめて根本的なところから原理的に議論している。ミルが『自由論』で多くのページを割いて擁護しているのは、意見の自由である。意見の多様性こそ、人間社会の最も重要な構成原理である。ミルが『自由論』を書いた背景には、当時イギリス国内で徐々に姿を現してきた多数派の専制への警戒があった。政治とは、詰まるところ、統治者と被統治者との関係性である。統治者は被統治者をたやすく弾圧できるため、被統治者は自由を守るために統治者と闘う必要がある。その結果、多くの国では被統治者が主人公の民主主義という政治原理が勝ち取られることになるのだが、民主主義社会においても、自由の脅威は存在する。それが多数派の専制である。多数派が数の暴力にとって少数派を沈黙させることは、現代社会でもたびたび見られる光景である。ミルは、そんな多数派の専制が、自由の脅威になると考えたために必死で意見の自由を擁護したのである(1)。ミルは次のような理由で意見の自由を擁護する。多数派が常に正しいとは限らないこと、どんな意見にもそこにわずかでも真実らしさがあること、反対意見があるからこそ自分の信じる意見を根拠を持って理解できるということ等々である(119ー120頁)。おそらく、原理的には、ミルのこの主張に反対するものはいないだろう。しかし、パンデミックでは、ミルのこの自由原則が、ことごとく踏みにじられてきたように感じるのだ。

 

パンデミックにおいて、その効果の点から最も論争的な主題になったのは、ワクチンとマスクだろう。現在のところ、ワクチンとマスクのおかげで、日本は、コロナパンデミックをうまく乗り切ることが出来たとされている。一方で、実際はワクチンはほとんど効き目がなかったし、マスクも感染防止には役立たなかったという意見もある。無論、専門家ではない私にどちらが正しかったのかという判定などできるはずもない。ただ個人的には、効果抜群のはずのワクチンがここにきて接種率が格段に下がってきていること、そして感染の波の周期がマスクの着用と無関係なことから、後者の意見に説得力を感じるのだが、これは私が結局ワクチンを最後まで打たなかったこと、そしてマスク着用がストレスで身体に変調をきたしたという個人的なバイアスから出てくる見方かもしれない。ただ、それはともかく、私がきわめて不健全だったと思うのは、こうした論争的な主題がほぼ両者の意見を闘わせることなく、ワクチン・マスク派が事実上の勝利を収めたことである。その最大の要因は、政府もまたワクチン接種とマスク着用を推奨する立場であり、いわば、ワクチン・マスク派は権威のお墨付きをもらっていたことに尽きる。よって、政府という巨大組織に守られている以上、ワクチン・マスク派はそもそも反対派とは議論する必要すらない。政府もWHOもそう言っていると唱えればいいだけだ。しかし、科学的真理は民主主義で決まるわけではない。ミルの視点から、このワクチン・マスク論争を眺めたとき、これは多数派の専制と呼べるものになるのではないか。ワクチンに少しでも懐疑的なことを述べるとすぐにデマ認定され、ユーチューブという巨大なプラットフォームでは、ワクチンに疑問を呈する投稿は即バンされる。ここには、反対意見にわずかに潜んでいる真実を掴み取ろうという姿勢の欠片もない。あるのは、ただ殲滅の欲望である。これが、私がこのパンデミック禍でミルの思想が踏みにじられたと感じる理由である。ちなみみに、私は、このパンデミックにおいて、あまりにも熟語が足りないのではないかとかつて警鐘を鳴らしたことがある(609冊目『2021年の論点100 』)。

 

もちろん、真実は真実なのであって、虚偽やデマは徹底的に粉砕すべきではないかという意見もある。実際、パンデミックにおいて、一部の医者が真実を伝える使命感からさまざまな情報発信を行っていた。しかし、ここでやはり考えなければならないのは、真実とは何かという問題である。「ある意見が有用かどうかは、それ自体が意見の問題であ」ると、ミルは言っているように(54頁)、科学的真実は不変で固定的なものだと思われているが、実は、科学とは常に「今作られつつあるもの」という、妥当性の更新でしかない(518冊目『専門知と公共性』)。そうである以上、安易に真理を認定することは反科学的な振る舞いとすら言える。そもそも、パンデミックにおいては、ワクチンやマスクに関する「真実」が争われたのであって、ワクチンやマスクの有効性を確信している医者もいれば、それらを否定的に捉える医者もいるというのが現状だ。だからこそ、お互いの相互応答、ならびに徹底した自己批判を行うべきであって、断じて相手を真理の敵として糾弾することではない。だが、パンデミックにおいて圧倒的に多かったのは後者だ。これに関しては、ワクチン・マスクに対して肯定派も否定派も同類だ。私はこの熟議がなかった点において、日本のコロナ対策は完敗だったのではないかと考えている。さて、熟議が重要なのは当然であるとしても、議論をしている間に、ウイルスが活動を中止してくれるわけではないというのも事実である。特にコロナウイルスは未知のウイルスだったから、敵の特性もよく分からない中で対策を講じなければならないという難しさがあった。今回は、コロナ感染対策をめぐって防疫の観点から自民党政権が批判されたが、正直、今回のパンデミックにおいては、どの政権が対処しても結果は同じであったろう。そもそもウイルスを人為的にコントロースできるほど、人間は偉くも賢くもない。今回のコロナウイルスは、初期の段階から感染力の強いウイルスであることが知られており、さらに潜伏期間の長い無症状感染であることから、とにかく感染者は徹底的に隔離されなければならず、そして、感染・非感染問わず、社会の成員は、感染対策としてマスクをすることが望ましいとされた。日本のマスク着用は、一部の諸外国と違って、法的義務が課されたわけではなく、未着用でも罰則はない。ただ、パンデミックという例外状態の中で、冷静さを保つのは難しい。マスク警察が蔓延り、飲食店も企業も従業員にマスクをすることを義務づけ、ほぼ社会の成員全てがマスクをするというマスク社会が出来上がった。

 

ここで考えてみたいのは、パンデミックにおいて、マスクをするしないのは自由なのかという問題である。先ほども述べたように、パンデミックの時期は、事実上のマスク強制社会だった。飲食店に入るにも、会社で仕事をするにも、マスクをしないという選択肢は与えられていなかった。はたして、これはマスク多数派による専制なのだろうか。この自由の制限はどこまで正当化できるのだろうか。ミルの危害原理をヒントにこの問題を考えてみよう。当然ながら個々が集う社会で、それぞれが思い思いの自由を行使すれば、混乱が起こる。個人の自由も大事だが、同時に社会の秩序も大事である。ミルは、自由と秩序の均衡が求められる問題に対して、次のように回答している。

社会が強制や統制というやり方で個人を扱うときに、用いる手段が法的処罰という形での物理的な力であれ、世論という形での精神的な強制であれ、その扱いを無条件で決めることのできる原理として、一つの非常に単純な原理を主張することである。その原理とは、誰の行為の自由に対してであれ、個人あるいは集団として干渉する場合、その唯一正当な目的は自己防衛だということである。文明社会のどの成員に対してであれ、本人の意向に反して権力を行使しても正当でありうるのは、他の人々への危害を防止するという目的の場合だけである(27頁)。

「危害原理」と呼ばれるこの考えは、端的に言えば、自由は、他人に危害を加えない範囲で保証されるというものだ。この考えは、抽象的には誰もが納得するものだが、何を危害と考えるのかは明確な基準を示すのが難しい。暴力や恫喝によって他人をコントロースすることは明らかに危害だと言える。では、ウイルスは危害だと言えるだろうか。もちろん、ウイルスもまた人々の健康に害をもたらす点では、危害だと言える。そう考えれば、人々にマスクを強制することを正当化できるかもしれない。したがって、自由の侵害にもならない。はたして、ミルはこの問題についてどう考えるのだろうか。残念ながら、ミルの『自由論』では、パンデミックにおける自由は主題になっていない。だが、ミルの次の記述は参考になる。

好みの多様性をまったく認めないところは(修道院のような施設は別として)どこにもない。ボートを嗅いだり、煙草を吸ったり、音楽を演奏したり、チェスやトランプをしたり、勉強したりといったことに関しては、好きでも嫌いでも、誰からもとがめられることはない(153頁)。

ミルはこれらを全て自由の行為とし認められるべきものとして列挙しているが、私が考えて込んでしまったのは、「煙草を吸ったり」の箇所である。無論、ミルの時代には、煙草の副流煙が周囲の人々の健康にリスクをもたらすことは広く知られていなかっただろうし、この記述自体は、公衆の場で喫煙することを想定しているのかも分からないのだが、これまで述べてきたウイルスとの相似形の問題がここには見いだせる。私は直感的に、煙草の副流煙は危害原理だと感じた。暴力や恫喝が危害原理なのは、そこに他人をコントロールしようという意思があるからである。副流煙もまた他人の健康をリスクに晒すことが知られているのに、公衆の場で喫煙することは、人々に危害を加えることを分かった上での意思的な行為であり、この場合、罰則は正当化される。一方で、ウイルスには、人間の意思で制御に置けないものである。むろん咳エチケット等の配慮が不必要であると言いたいわけではない。マスクもすることも時に有効であろう。しかし、人から人へと感染するウイルスの生存戦略は、人間にはもうどうすることもできない。ある程度、どうにもならない宿命として受け入れるべきものである。逆に言えば、ウイルスをコントロースできるものと考え、「誰それが感染させた」という犯人探しをする社会が、はたして健全かと考えてみればいい。私には、そちらの方がウイルスよりもはるかに怖い社会に思える。実際、パンデミック禍では、店頭で販売されているマスクの奪い合い、電車でマスクを着用していない相手を罵倒するなど、常軌を逸する不穏な諍いがたびたび起こった。先ほども述べたように、マスクが感染防止対策として効果があるのかははっきり分かっていない。ただパンデミックにおいて、マスク派は明らかに多数派だったし、数の暴力によって、マスク未着用の人の自由を抑圧した。色々な理由でマスクを着けない、着けられない人がいる。息苦しさを感じたり、知覚過敏症だったり、ヒステリー球(私はこれに苦しんだ)を発症させたり、といった様々な理由だ。パンデミックの混乱は、そんな少数派への想像力を萎縮させてしまう。私は、パンデミックにおいてマスクを推奨するのは正しいと思っている。ただ、それが少数派への抑圧であってはならない。マスクをつけらない人々が、この期間どれだけ苦しい思いをしてきたか。このパンデミックで、一部の人々の自由が不当に抑されたことを忘れてはならない。

 

1 「今では政治に関する思索において、『多数者の専制』は、社会が警戒しなくてはならない弊害の一つに含められるのがふつうである」(17頁)。