864冊目『ハジケテマザレ』(金原ひとみ 講談社) | 図書礼賛!

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金原ひとみの小説「ハジケテマザレ」は、アルバイト小説である。バイト仲間とは、実に不思議な仲間である。たとえば大学生にとって、多くの場合、アルバイトとは単にお小遣い稼ぎのためにするものだろう。一応、働く身である以上、責任は生じるが、社員ほど強い責任感を持たなくていいし、つまんない職場だったら、さっさと辞めればいい。まあトンヅラしても「バイトだから」で済んでしまう。楽でたくさん稼げること、それが最も良いアルバイトだ。そんな場所柄ゆえの軽さからか、バイト先という空間は、これまで特に文学的な機能をもたなかったように思う。小説「ハジケテマザレ」は、バイトという軽薄な空間の中で紡がれる人間関係の濃さを描いた希有な作品だ。

 

小説「ハジケテマザレ」を読んで興味深いのは、バイト仲間の紐帯を深めるのは、仕事のやりがいではないということである。ここは明らかにサラリーマンとは違う。主人公が勤めるイタリアンレストランは、実に個性的な人が集っている。勤務後に控え室で酒を飲んで騒ぐベテランの中年女性、学生起業家、コロナで海外留学が頓挫した女子大生、外国人留学生等々。特にベテラン中年女性がやりたい放題で、女子大生の彼氏の家に殴り込みに行ったり、店のものを私物化したり、店長の悪口言ったり、とにかくさんざんやらかす。しかし、こうした悪ふざけに加担することで、バイトの人々は、仲間になり、やがて家族になる。仕事のやりがいで結ばれた会社員は、何かのきっかけで退職したら関係が切断することがほとんどだが、破天荒をやらかしてきたバイト仲間の絆は永遠だ。

 

ところで、私にはバイト仲間がいない。大学生のとき、近所のバッティングセンターでバイトをしていたことがあったが、店番を一人でするだけなので、バイト仲間などできようもなかった。だから、バイト仲間と一緒に酒を飲んだり、さらには旅行までしたりする友人を見ては、その仲の良さに驚愕せざるをえず、羨望のまなざしを注いでいたものだ。人によっては、バイト先の仲間と二十年以上もの付き合いになる人もいるそうで、学校の友人よりもはるかにその関係は濃い。バイト仲間とは、ある意味、家族のようなものだろう。だから、こんな言葉も出てくる。「家族は離れたところでも家族だし、人は誰とでも家族になることができるんだよ」(201頁)

 

バイト仲間は家族になれるのか、という問いに対して、次のように答えることができる。バイトだからこそ、家族になれるのだ。それは一体、なぜなのか。さきほども述べたとおり、アルバイトと会社員は違う。おそらく、その違いは責任感の有無といったものではない。会社員になるとは、自分のこれまで学んできた知識や体験を活かし、キャリアアップをするという必然性の物語の必要だ。だから、同じような志の人間が集う。会社とは、非常に同質性の強い集団である。それは逆に言えば、同じ目的や哲学を持っていない人間を排除する場所であることも意味する(だからこそ、入社面接があるのだ)。ところが、バイトには、そんなものはない。ただ楽して稼ぎたいという軽薄で多様な人間が、たまたまそこに居合わせるだけの偶然性の場だ(もちろんバイトにも面接があるが、せいぜい最低限の常識を持ち合わせているかくらいの意味合いしかない)。バイトとは、偶然性が支配する場所である。しかし、いや、だからこそ、そこには家族が発生する(1)。私も、そんなバイト家族が欲しかった。

 

(1)「偶然だからこそ、家族だ」という理路に違和感を感じた人がいるかもしれないが、ここで想定しているのは東浩紀が『訂正可能性の哲学』で論じたような家族観のことである。詳しくは(841冊目『クォンタム・ファミリーズ』)。