863冊目『可能なるアナキズム』(山田広昭 インスクリプト) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

本書は、マルセル・モースの思想を取り上げたものである。モースといえば、『贈与論』という著作が重要で、人類学の古典ともなっているが、本書はモースの『贈与論』の思想を中心に論じた本ではない。むしろ、社会主義者としてのモースに着目することで、モースの思想が権力なき共生社会の構想へとつながっていく、その思想のラディカルな可能性を論じたところに本書の最大の特徴がある。実はモースは、社会主義的な組合運動にも深く関わっていた。実際、社会主義系の雑誌にも多く寄稿している。しかし、そのことは、「一部の研究者を除けば、それに見合うだけの注目を浴びてはこなかったように思われる」(8頁)。モースの『贈与論』の意義は、レヴィ・ストロースの『野生の思考』と並んで、「未開」社会に潜む、もうひとつの思考形態、つまり西欧近代を相対化するようなもう一つの知の世界があることを発見したことにあるとされているが、しかし、それは表層的な見方だ。モースの『贈与論』は、社会主義的な文脈の中で理解してこそ、多くの思想的な財産を私たちにもたらしてくれる。『贈与論』には、近代社会が忘却したものを思い出させるテクストとしてではなく、未来社会の建設性のために読まれなくてはならない。

 

モースは、贈与という営みを通して、人類の根源的な生の条件を取り出そうとした。一体、贈与とは、人類にとってどのような意味を持つのだろうか。まず、次の奇妙な言葉の問題から考察を始めたい。ゲルマン語系の言語には、giftという言葉に「贈り物」という意味に加え、「毒」という意味まで持っている。「贈り物」と「毒」。この対立するかに見える意味の共存は、贈与という行為に深い哲学的主題があることを示唆している。モースは、贈与体系の三つの義務として、(1)贈り物をする義務、(2)それを受け取る義務、(3)それにお返しをする義務を挙げている。たしかに贈りものは受け取らなければならないし(2)、もらったらお返しをしないとこちらの気がすまない(3)。(1)の贈り物をする義務は、これは別に義務ではないのではないかという気がするが、これがむしろ根源的な義務であることは、後ほど述べよう。さて、贈与の際、注目すべき現象として、我々は、お返しをするとき、必ず何かを上乗せする形でお返しをすることだ。そうすれば、それをもらった方は、今度はさらにそれを上回るお返しをして・・・となり、この贈与行為が理論的には永遠と続くことになる。これを闘技的贈与という。贈り物はありがたいものであるの同時に、闘争に巻き込まれることも意味する。この対立項に、ギフトの両義性は重なる。

 

贈与は、非対称であることが最大のポイントである。同じものを贈り返さないことによって関係は継続する。逆に言えば、もらったものと全く同じものを、その日にうちにお返しするほど非礼なことはない。くまのぬいぐるみのプレゼントをもらったものが、その一時間後、まったく同じくまのぬいぐるみを購入してお返しをすることは、むしろ二人の関係に亀裂を生じさせる。贈与において、平等を志向をすることは、関係の解消を意味するのだ。卑近な例だが、数人で飲み会したとき、幹事が一円単位で割り勘を要求したときに感じる違和感は、ここにある。つまり、親睦を目的した飲み会の場で、徹底した会計の平等をもとめることは、この飲み会に次はない、という暗黙のメッセージとして機能してしまうのだ。人類の根源には、贈与がある。これはどの集団でも観察できる人類の下限であり、文化の共通項である。マルクスは、生産様式という下部構造が、思想やイデオロギーである上部構造のあり方を決定すると考えたが、モースは、マルクスよりももっとラディカルに社会のありようを見ていた。モースは、生産様式もまた贈与の体系を下敷きにして成立すると述べたのだ。つまり、贈与こそが、下部構造なのである。

 

近代は、平等と自由の時代である。ここまで述べたきたことを踏まえれば、この二つの理念がコインの裏表の存在であることが分かるだろう。近代は、人々を平等であると設定したことで、人と人の関係を解消し、自由な主体としての個人を誕生させた。つまり、近代は、贈与が象徴する互酬性の原理を忘却することで、平等な個人を前提としたイデオロギ-・法制度・文化を構築していったのである。近代的理念の平等への志向は、人間同士の関係性の切断と不可分な関係にある。しかし、モースは、人間同士の関係性が弱まる近代においても、贈与体系は人類社会にとって根源的な働きをしていると見ていた。以下の引用に、モースの思想がはっきり表れている。

モースが交換の実態の交際に向かったのは、近代西欧とは異なる原理が析出されるからではなく、交換の原理が近代においても人間社会の基礎をなす原理として存在し続けていることを明らかにするためだ。(155頁)

つまり、交換様式である贈与は、普遍主義的な論理なのである。ところで、モースは、実はネーションについての著作を執筆中だったらしい。このことは明らかに、モースが贈与の哲学を政治原理として捉えていたことを示している。一体、贈与とネーションにどのような関係があるのか。ここで、贈与という行為をもう少し大きな文脈で理解したい。贈与とは個人間で何かものを交換することであるが、地域外婚制のような集団間での交換もある。あるいは、世代間による交換もあるだろう。さらには、交換するものは何も物理的なものでなくてもいい。親から名前をつけてもらうのも贈与だし、先祖が築いたこの社会に住めることも贈与だと言える。さきほど、(1)贈り物をする義務は、はたして義務なのか、と述べたが、我々は誰しも必ず過去世代からの恩恵を受け取って生きていると考えれば、我々は全員がもうすでに債務者なのだ。そして、我々がお返しするのは、過去世代ではない。過去世代はもういないのだから。我々は受け取った贈与をさらに喜ばしいものにして、まだ見ぬ未来世代に送るのだ。原理的に負い目を持って生きること、これが人間的として生きる基礎だし、人と人を結びつける絆を築いていく。おそらく、モースは、この贈与関係のなかに人間にとって最も基礎的なコミュニズムの在りかを発見し、それを新しい政治原理として理論化しようとしていたはずだ。感染症パンデミック、ウクライナ戦争、地球温暖化、ポピュリズムといった現在進行形の問題によって、国民国家の限界がどんどん暴かれているなか、果たして、モースの贈与の哲学は、もう一度我々を共生へと導く、新しい政治原理の可能性となるのであろうか。その思想の遺産をどう活かせるかが、我々の課題である。ちなみに、2024年の東大国語の現代文は負債論であった(1)。まさに贈与は、現代社会の根源的なテーマなのだ。

 

tokyo_zenki_kokugo_bun_mon.pdf (yomiuri.co.jp)