841冊目『クォンタム・ファミリーズ』(東浩紀 新潮社) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

2009年に刊行された東浩紀の小説である。私は大学院生のときに一度読んだことがある。この小説は、量子脳科学計算機革命の世界を舞台としている。といっても何のことか分からないと思うし、私自身もよく分かっていないのだが、とにかくこの量子脳科学計算機革命によって、複数の並行世界において別の世界に住む住人同士が交信し、場合によって直に会うことができるというのが、この小説の舞台設定だ。ここでの複数世界というのは、もう一人の「僕」がいる世界である。人生とは偶然の積み重ねで、今の僕があるのは、それはただの偶然の結果でしかない。過去のある時点で、別の選択肢をしていたら、今の僕はなかったかもしれない。複数の並行世界に住む「僕」は、かつて選択されなかった「そうであったかもしれない」僕が生きている世界である。

 

この小説は、端的に言ってパラレル・ワールドを主題にしたSF小説ということになるのだが、やはり哲学者が書いた小説ということもあって、そこには深い哲学的主題が埋まっている。今一度、この小説のタイトル(『クウォンタム・ファミリーズ』)を確認すれば分かるように、この小説は、パラレル・ワールドの物語である同時に、家族の物語でもある。最近、東浩紀の新刊『訂正可能性の哲学』(ゲンロン)を読んだが、この本でも主題は家族である。『訂正可能性の哲学』が家族の哲学について書かれた本だとすれば、この小説は、その家族の哲学の実践だといえよう。そういう意味では、思想家としての東浩紀はずっと家族の問題について考えてきたのだと言える。家族には、どんな哲学的主題があるのだろうか。

 

『訂正可能性の哲学』では、家族について三つの特徴が引き出されてる。それらは「強制性」「偶然性」「拡張性」である。家族はそこにいったん産み落とされるとなかなか離れられないという意味で強制的だが、誰のもとに生まれるか分からないという意味では偶然的である。そして、家族はまだ見ぬ他者(赤子)を迎えることで、成員を拡張し、自己編成しながら、家族的なるものを成立させる(場合によってはペットですら、家族になる)。さて、そんな家族の特徴から考えたとき、並行世界に住む僕の家族を本当に家族だと思えるだろうか。しかも、その家族が、もしかしたら「生まれていたかもしれない」娘や息子だったら、その人を家族と思えるだろうか。

 

家族の領域は、哲学的にも注目を集めている。岡野八代『フェミニズムの政治学』(706冊目)では、家族が成員をケアするという関係のあり方に、自律的な主体を前提とした近代政治の矛盾を大きく編み直す契機を読み取っている。人は誰しも誰かにケアされて育ってきたはずだ。誰かにケアされていなければ、今の自分はない。ケアの倫理はこの依存の感覚を正義の原理とする。おそらく先ほど挙げた家族の三要件にひとつ付け加えるものがあるとすれば、この「依存」ということになるだろう。しかし、この小説の娘と息子と主人公の関係は、育てられるー育てるという依存関係を抜きにしたところで成り立っている。主人公が当初、並行世界の家族になかなか馴染めないのは、この依存が欠落したところで家族の絆を作らなければいけないからである。果たして、依存なき家族愛は可能なのか。SFの世界だから可能となるこの問いをしっかり考えることが重要なのではないか。