715冊目『大好きな韓国』(四方田犬彦 ポプラ社) | 図書礼賛!

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死ぬまでに1万冊の書評をめざす。たぶん、無理。

 

 

非常に愉快で、面白く、なおかつ日韓比較についても示唆に富む韓国本である。著者の四方田犬彦は、朴正煕体制の1979年に韓国に渡り、建国大学の客員教授として彼の地で一年間、過ごした。1979年といえば、朴正煕大統領が側近の部下に射殺されるという、前代未聞の事件があった年だ。その後もしばしば韓国への訪問経験がある著者には、現地での体験や見聞が数多くある。本書は、そんな著者による韓国体験の蓄積が土台となっている。「ウリ」(私たち)、「パリ」(早く)の韓国語を通して、韓国人の思考を描写してみせたり、また、食文化や広場、徴兵制や美容といった韓国人の日常からも韓国的な主題を見事に取り出してみせたりする。四方田の韓国社会の解像度は実にダイナミズムで鮮やかだ。本書は、近くて遠い隣人といわれる、韓国そして韓国人の姿について、私達に理解の橋渡しをしてくれる。

 

「恨(ハン)」という言葉は、韓国の思想を理解するのに欠かせない言葉であるが、これほどに誤解されているものはないだろう。日本では、「恨」という字から早合点して「恨みを忘れない韓国人」「絶対に許さない韓国人」という風に理解されている。そこに慰安婦問題や徴用工問題などで、法的に解決したはずの歴史的問題をたびたび蒸し返す韓国の態度を重ねたりする。しかし、「恨」とは、怨恨や復讐といった血なまぐささをまとった執心のことではなく、やっと夢や希望が叶う目前まで来たのに、はかなくも運命の悪戯によって、それが永久に葬り去られたことに対する深い悲哀のことを言うのである。四方田は、せっかく羽ばたいた蝶が、その瞬間に蜘蛛の巣にひっかかって生を閉じるようなものという比喩で説明しているが、この開花しない夢への無念を形容する言葉が、「恨」なのだ。

 

この「恨」の思想が、いつごろから出て来たものかは分からないが、常に悲劇の舞台であり続けてきた朝鮮半島の歴史と無縁ではないはずである。朝鮮半島は日本による植民地統治を36年も強いられ、解放後もまた冷戦の前線地として多くの争いが起こっている。南北は分断され、今はひとときの平和を享受しているが、国際法的にいまだ戦争中ということを考えれば、いつどういうきっかけで、朝鮮半島が動乱の時代となるかわからない。朝鮮半島に本当の意味で平和が訪れる日は来るのだろうか。もしくは、それは永遠に叶わぬ民族の悲劇として「恨」の対象となってしまうのだろうか。朝鮮半島で起った数々の歴史の悲哀を眺めれば、そうした土壌から「恨」という言葉が生まれたことも素直に理解できる。

 

だからこそというべきか、日本がこの「恨」という言葉を誤って理解しているのは、単純な誤解を超えて、韓国への皮相な理解を示しているとも言える。日本では、近年、嫌韓言説がネットを中心に溢れており、なかには「日韓断絶で構わない」といった虚勢としか思えない韓国無関心論を唱える人が、知識人にさえいる。一般人にまで浸透している「韓国から学ぶことはない」という、かつての宗主国のような態度を取り続ける日本の態度を私は非常に危惧しているが、彼らにとって自明なはずの日韓の圧倒的な優劣関係はすでにない。木宮正史の『日韓関係史』(605冊目)では、日韓の国力差がなくなり、対等な関係になったことが、近年の日韓関係の悪化の原因だとする。もちろん、ここにはすでに対等の地位にまで昇りつめてきた韓国の姿に対する日本人の焦りがある。今こそ日本人は無意識に染み込んでいる宗主国のメンタリティを脱し、等身大の韓国の姿を見つなければならない。なにも韓国のことを「大好きだ」と言ってみる必要はない。韓国の社会や歴史についてちょっと見聞を広げてみる。そこに意外な発見がある。そうした小さな気づきの蓄積にこそ、未来志向の日韓関係へと繋がっていくはずである。本書には、そんな小さな気づきがたくさん詰まっている。是非読んでみてほしい。