533冊目『失われた近代を求めてⅠ 言文一致体の誕生』(橋本治 朝日新聞出版社) | 図書礼賛!

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 言文一致運動とは、話し言葉と書き言葉との乖離を埋めるため、書き言葉を話し言葉に合わせようという明治二十年代の文学運動である。つまり、文章を話し言葉で書こうということなのだが、この説明はちょっと誤解を生む。言文一致とは、柄谷行人が言うように、新たな文の創出なのだ(『日本近代文学の起源』)。その実践例として、二葉亭四迷が「だ」調、山田美妙が「です」調、尾崎紅葉が「である」調を試みている。

 

 教科書や参考書ではほとんど無視されているが、実は、二葉亭四迷に先駆ける存在として、落語の三遊亭円朝がいる。円朝の独特の息の巧みな口演は、聴衆に妖気漂う戦慄を走らせたようで、たいそう人気があったそうだ(1)。円朝の落語は、当時においても活字化されているから、二葉亭の言文一致よりも話し言葉を文章にした文体が誕生していたことになる。近刊の『日本近代文学史』(堀啓子 中公新書)も、円朝から二葉亭四迷への流れから言文一致体の説明をしている。

 

 さて、橋本治のこの本だが、正直だいぶひどいと思った。思いついた論点を好き勝手に書いているだけで、全体的に議論がぼけている。橋本には著作がめちゃくちゃあるわけだが、あまり入試問題で見かけない。これだけ雑な議論をしていていれば、そりゃそうだろうと思った。ただ、ちょっと面白いと思ったのは、当時の文壇の言説を検証しながら、二葉亭四迷の『浮雲』は言文一致とは認められていなかったのではないかという問題提起は結構鋭いと思った。

 

 安藤宏『近代小説の表現機構』(本ブログ、238冊目)では、二葉亭四迷の『浮雲』の表現面について次のような指摘をしている。第一編は、戯作調で語り手がしばしば顔を出すが、第二編では、語り手が作中の主人公の内面に憑依し、第三編で、全知的視点を獲得すると述べている(注2)。つまり、『浮雲』は言文一致の達成というよりは、言文一致の過渡期といったほうがよい作品である。そのことが、当時の文壇で『浮雲』が言文一致の作品としては認められなかった理由ではないだろうか。

 

(1)2009年早稲田大教育学部の現代文では、三遊亭円朝を論じた文章が出題された。

(2)2014年法政大の現代文は、まさにこの問題を論じた文章である。