昨日 8月3日(金)15時から、内閣府沖縄総合事務局 経済産業部の受託事業で、昨年から開催されている「沖縄スポーツ産業クラスター推進協議会」の第3回運営会議が那覇市で行われ、平成29年度事業報告と、平成30年度事業計画が協議され、名称を「沖縄スポーツ・ヘルスケア産業クラスター推進協議会」とする事などが決定された。
    この運営会議の後、私が「日本のスポーツ、健康産業の未来と沖縄の可能性」というタイトルで基調講演を依頼され、昨年からこの運営会議の委員に就任している高崎専務と一緒に沖縄に来ている。
    そのあとの懇親会では事務局職員の素人離れした演奏も披露された。
    この会議に先立ち、本年11月に沖縄県北中城村のイオンモールの隣にオープンする「スポーツクラブ  ルネサンス  沖縄ライカム24」の開業事務所を訪問し、丸山支配人以下のスタッフを激励してきた。













    今日から3日間、東京ビッグサイトで今年10周年を迎えた「SPORTEC 2018」が開催されている。第1回は60社の出展で始まったのが今年は900社だそうだ。
    9時半から福永 実行委員長、馳 前文科大臣、鈴木 スポーツ庁長官達49人!でテープカットをし、10時半から鈴木長官、原田早稲田大学教授と私の3人が、12時半まで基調講演。
    13時から「第6回スポーツ振興賞」表彰式。スポーツ振興大賞は「昭和新山国際雪合戦」、私が担当するスポーツ健康産業団体連合会会長賞は、26回目を迎えた「おきなわマラソン」。
    表彰された7団体の発表がまだ続いているので、展示会場は朝、通りながら見ただけで16時頃からゆっくり見ようと思っている。

















    7月18日(水)フランスの旅最終日、昨日のブログを書いてからタクシーでサクレ・クール寺院に向かった。
    快晴で若い観光客でいっぱいだった。以前に比べ、お洒落なアジア人が多くなった。昨日のムーランルージュもそうだったが、豊かになった事がわかる。
    10年程前に似顔絵を描いてもらった、画家が多くいる広場に行くと、その時の老画家はもういなかった。
    私は気に入っていて、このブログの写真にも使っているのだが、浮き沈みは大きいのだろう。
    13時半の集合に遅れるといけないので、大通りに出て、ケバブ屋さんで簡単に食べて戻った。
    今、バスでシャルル ド ゴール空港につき、くつろいでいる。
    かけ足の一週間だった。




















    7月17日(火)日中の観光を終え、一旦ホテルに帰り、一休みしてからムーランルージュに出かけた。
    ディナー付きのコースだが、案内された席は最前列。正にかぶり付きだ。食事もショーも素晴らしかった。
    10年くらい前にも来た事があるが、食事もショーもかなりグレードアップしている。
    食事にも歌手の演奏付きで2時間程時間を掛け、ショーも1時間半ほどあり、19時から22時半まで3時間半の長丁場だった。
    写真禁止だったので、ショーの様子はパンフレットから。














    7月17日(火)パリ2日目、ホテルから朝歩いてムーランルージュに行き、夜の席を予約した。
    地下鉄でオペラ座に行き、5年前に泊まった辺りを散歩し、韓国料理店で冷麺を食べひと息をついた。
    買い物の後、思い立ってエッフェル塔のふもとの川岸からセーヌ川クルーズに乗った。
    典型的なお登り観光コースだが、手っ取り早くて疲れが少ない。



















    本日最後の観光はノートルダム大聖堂だ。
5年ぶりくらいの対面だ。ちょうどミサの最中だった。

    パリには、1967年〜1969年のスイス留学中の3回を含み、今まで10回くらい来ているが、そのたびノートルダム大聖堂は訪れている。
    私は50年程前、スイス滞在中か、出発前に森有正のエッセーを読んだ記憶があり、調べてみると「霧の朝」「ひかりとノートル・ダム」「遥かなノートル・ダム」の3編で、これらはそれぞれ「展望」1966年2月号、1966年11月号、1967年2月号に初出している。
   1999年6月から10月にかけて「筑摩書房」の「ちくま学芸文庫」から「森有正 エッセー集成 1〜5」が順次発刊され、私はこれなら読めそうだと全巻購入したのだが、各巻の「解題」「解説」を読んで「あーそうだったんだ。」と納得しただけで、20年近く本棚に眠っていた。
 
    そんなわけで、飛行機のなかでは  「森有正 エッセー集成 3」で  「霧の朝」「ひかりとノートル・ダム」「遥かなノートル・ダム」「赤いノートル・ダム」「ある夏の日の感想」「パリの生活の一断面」「ルオーについて」「思索の源泉としての音楽」「滞日雑感」「黄昏のノートル・ダム」「遠ざかるノートル・ダム」を読んできた。
    留学前後に「霧の朝」「ひかりとノートル・ダム」「遥かなノートル・ダム」は読んでいるはずなのだが、前2編は哲学的部分が多かった為かあまり覚えていなかった。
    「遥かなノートル・ダム」に哲学的部分がないわけではないが、パリの雰囲気が生き生きと描写されてもおり、初めて欧州に留学に行く私に強烈な印象を与えたことは確かだ。
     この旅行の合間にこのシリーズを読むのもたのしみだ。





















    7月16日(月)11時頃ジベルニーを立ち、パリに向かう。まず、シャイヨー宮側からエッフェル塔を望み撮影をし、ルーブル美術館に向かい、近くのレストランで昼食を摂ってから美術館に入る。
    すごい混雑に驚く。「ダヴィンチ・コード」ブームの頃から混み始めたような気がするが、世界中豊かな人が増えたのだろう。
    在仏の日本人ガイドの案内で2時間程の超特急見学だった。特に「モナリザ」の部屋は満員電車なみだ。

















    7月16日(月)朝8時半、シャルトルを立ちジベルニーに向かう。
















JTBのブログによると、

   ジベルニー「モネの家」の「モネの庭園」は、大きく2つに分かれます。

一つは「ノルマンディーの農園」という名の「クロ・ノルマン」。モネの家のエントランス前に、のびやかに造られた庭で、春から秋まで季節の花々が色とりどりに咲き乱れています。美しいバラのアーチ門が見られるのもここです。

この庭は一見、無造作に花が咲いているようでいて、実は緻密に設計されています。 モネの世界観が100年余りたった今でも受け継がれ、モネの絵画の中にいるような心地よさに浸ることができます。

一方、日本風庭園として知られる「ウォーター・ガーデン」は、その名の通り、セーヌ川の水を引き込んで造られた池を中心に、柳やカエデなど背の高い木々が濃い影を落とす「水の庭」です。クロ・ノルマンとはまったく異なる景色を見せるこのエリアでは、緑に囲まれる心地よさを実感できます。

木々の間から見えるのは、モネがこだわって造らせたという太鼓橋「ル・ポン・ジャポネ(日本橋)」、そして池の水面で静かに花を咲かせる睡蓮…この庭の美しさを、モネは何百枚もキャンパスに表現しましたが、この風景を前にするとその気持ちがよくわかります。風がそよぎ、葉がこすれる音、水の流れる音を聞きながら池のほとりに立っていると、刻一刻と移りゆく庭園の様子を何時間でも眺められそうです。
この素晴らしい池の風景を見た後すっかりモネの虜になり、オランジュリー美術館やマルモッタン美術館にあるモネのコレクションを見に行く方もたくさんいます。

    7月15日(日)15時頃シャルトルに着き、ホテルチェックインの後、ノートルダム大聖堂を観に行く。

    11世紀建立されたノートル・ダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Chartres)は、建てられた当初はロマネスク様式を基調とした初期ゴシック様式の聖堂でした。1194年に発生した大火事で聖堂の大部分が焼失。今日では地下の礼拝堂(全長220メートルの国内最大規模のクリプト)と塔、聖堂西側のファサードのみが初期ゴシック様式を残しています。

    火災後、1194年から1220年までの短期間で聖堂の再建が行われ、今日私たちが目にする大聖堂は、ロマネスク様式とゴシック様式が共存した独特な造りになっています。

    見どころは、聖堂西側ファサードにある「王の扉口」と呼ばれる彫刻群。これらはロマネスク彫刻の傑作と言われ、ユダヤの王や旧約聖書の預言者たちを表現しています。また12・13世紀のステンドグラスが当時のままで残っており、ブールジュのノートル・ダム大聖堂と並んで、フランスきっての集大成をなしています。特に、南面の「美しき絵ガラスの聖母(Notre-Dame de la Belle-Verrière)」は1180年に作られた非常に有名な作品で、キリストを抱く聖母マリアの姿、天使ガブリエルの受胎告知や、聖母マリアの訪問を表現しています。

    これらステンドグラスに見られる輝くような青色は 「シャルトルの青(bleu de Chartres)」 と呼ばれ、世界的に知られています。シャルトルのノートル・ダム大聖堂は1979年にユネスコ世界遺産に登録されています。

    大聖堂を観に行ったら、W杯が始まり街中ガラガラ。後半戦をホテルのテレビで観戦。

    フランスおめでとう!

    クロアチアも素晴らしかった!

フランス中(特にパリ!)大騒ぎです。明日パリに入りますが、明日でよかった。


















    7月15日(日)シュノンソー城見学の後、昼食を摂り、シャンボール城に向かう。

この城は入場無しで外観のみの観光。

後半の写真はウィキペディアより。

この後、シャルトルに向かう。

















シャンボール城
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シャンボール城

世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」に含まれる。シャンボール城は1981年から2000年まで単独で世界遺産に登録されていた。

建築編集

シャンボール城は、古典的なイタリアの構造に伝統的なフランス中世の様式を取り入れた、フレンチ・ルネサンス様式が特異な城である。ロワール渓谷最大の威容を誇るが、元はフランソワ1世の狩猟小屋を始まりとした城であり、彼の主な居城はブロワ城アンボワーズ城であった。

シャンボール城の設計はドメニコ・ダ・コルトナによるものだったが、1519年から1547年にかけての建設の間にかなりの変更が加えられた。レオナルド・ダ・ヴィンチはフランソワ王の客人であり、アンボワーズ城近くのクロ・リュッセに住居を与えられた。ダ・ヴィンチはシャンボール城の設計に関与していたと考えられている。城の完成が近づくとフランソワ王は、自分の富と権力の巨大な象徴として、宿敵カール5世をシャンボールに招待して見せびらかした。

設計図

シャンボール城は中央の本丸と4つの巨大なから成る。本丸は大きな塔2基とともに、大きな前壁を形作る。 さらに大きな塔2基の土台が後部にあるが、これらはそれ以上建設を進められることもなく、壁と同じ高さのままである。 城には部屋が440、暖炉が365、階段が74ある[1]ヴォールト建築の直線の廊下が4本、交差して十字を形作っている。

二重らせんの階段

建築上の見所の1つに、二重らせんの階段が挙げられる[2]。2つの階段を使えば、相手に出会うことなく3階まで昇り降りができるのである。広々としたすばらしい階段はシャンボール城見学のハイライトとなっており、城の最上部から照らし出されている。階段を設計したのはレオナルド・ダ・ヴィンチだという説もあるが、これは確かではない。この種の構造を有する近代以前の建造物は世界的にも珍しい(栄螺堂#会津さざえ堂)。

城の特徴としてはまた、128mものファサード、彫刻された800以上もの柱、精巧に飾られた屋根が挙げられる。シャンボール城の建設を命じたとき、フランソワ1世はコンスタンティノープルの地平線に現れる屋波をイメージしたのである。

華麗に装飾された屋根

城の周りには、52.5平方km(13,000エーカー)の森林公園が広がり、31km(20マイル)の壁で囲まれた禁猟区にはアカシカが生息している。

シャンボール城には、敵からの防御を意図した構造物は何もない。壁や塔、の一部は華麗に装飾され、当時としても時代錯誤なほどであった。建築の基本には、開き窓、外廊下、屋上の広大なオープンスペースなど、イタリア・ルネサンス様式を取り入れているが、これは寒冷な中央フランスには不適当であった。