7月15日(日)朝、トゥールの街を散歩したのち、8時半にトゥールを出発し、シュノンソー城に向かう。 















ワインの試飲場で試飲したのち、シャンボールに向かう。



シェノンソー城: Château de Chenonceau)は、フランスアンドル=エ=ロワール県ロワール渓谷内のシュノンソーにある城。シェール川の古い製粉所跡に建てられており、文献上に初めて登場したのは11世紀のことである。

シュノンソー城
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シェノンソー城

世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」に含まれる。




最初に建てられた邸宅は、1411年に持ち主のジャン・マルクが扇動罪に問われて、国王軍により火をかけられた。彼は1430年代に、その場所に城と水車を再建した。
その後、彼の多額の負債を返済するため、相続者のピエール・マルクは1513年シャルル8世侍従のトマ・ボイエに城を売却した。ボイエは城をいったん壊し、1515年から1521年にかけて新しい邸宅を建設した。仕事を時折見回ったのはその妻のカトリーヌ・ブリコネーで、彼女はフランソワ1世を含むフランスの貴人を2度城に招待した。結局城は、国庫への債務のためボイエの息子によってフランソワ1世に献上された。
フランソワ1世が1547年に死ぬと、アンリ2世は城を愛妾のディアーヌ・ド・ポワチエに贈った。
ディアーヌは城と川沿いの眺めを非常に愛した。彼女はアーチ型の橋を建設し、城を向こう岸と結んだ。庭園に花や野菜、果樹なども植えさせた。川岸に沿っているため氾濫に備えるため石のテラスで補強され、4つの三角形が配置された洗練された庭が作られた。ディアーヌは城主ではあったが所有権は王にあったため、長年の法的策略の結果、1555年にようやく城は彼女の資産となった。
しかしアンリ2世が1559年に死ぬと、その妻のカトリーヌ・ド・メディシスはディアーヌを城から追い出した。城はすでに王室の資産ではなかったので、カトリーヌもシュノンソー城を召し上げて終わりというわけにはいかず、ショーモン城と無理やり交換させたのであった。
1864年、パリ中のガス灯を設置して財産を築いたダニエル・ウィルソンというスコットランド人が、娘のために城を購入した。
 カトリーヌ王妃の伝統に従って手の込んだパーティーに彼女は財産を使い、その結果城は差し押さえられて1891年キューバの大富豪ホセ=エミリオ・テリーに売却された。ホセは1896年に城を同族のフランシスコ・テリーに売り、1913年にチョコレート業者のムニエ一族が城を購入、現在も所有している。
2012年9月、トリップアドバイザーの企画「バケットリスト」の「世界の名城25選」に選ばれた。



    モン サン ミッシェルから午後1時半頃ホテルに戻り、一休みしてバスでロワール渓谷に向かい、アンボワーズ城をロワール川の対岸から望んだ。

    1515年12月、王の客としてアンボワーズ城に招かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの裸像があった。

    夕食は洞窟レストランで摂る。

    今夜はアンボワーズからバスで約一時間のトゥールで宿泊する。
















  以下アンボワーズ城についてはウィキペディアより。

アンボワーズ城(Château d'Amboise)は、フランスロワール渓谷アンドル=エ=ロワール県アンボワーズにある城。シャルル7世ルイ11世シャルル8世フランソワ1世ヴァロワ朝の国王が過ごした。フランソワ1世がレオナルド・ダ・ヴィンチを呼び寄せたクロ・リュセはすぐ近くにある。

アンボワーズ城
AmboiseHofseite.jpg
アンボワーズ城

世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」に含まれる。

歴史編集

アンボワーズ城はロワール川を見渡す高台に建てられ、重要な浅瀬を統制した。この場所にはガロ・ローマンの時代から砦が築かれていたという。この役割は中世には橋に取って代わられた。11世紀に城が築かれた際には、悪名高いアンジュー伯フルク3世が要塞を石で再建した。

城は、時と共に拡張と改修を重ねていった。1431年、当時の城主ルイ・ダンボワーズが王太子ルイ(後のルイ11世)に対する陰謀の容疑で有罪判決を受けて処刑されると、1434年9月4日シャルル7世が城を差し押さえた。

いったん王家の手に渡ると、アンボワーズは歴代フランス王に愛されるようになった。シャルルは城の大改修を思い立ち、まず1492年にフレンチ・ゴシック後期の初めのフランボワイアン様式で、次いで1495年、2人のイタリア人建築家、ドメニコ・ダ・コルトナとフラ・ジョコンドを雇い入れた。彼らはメイソン(中世の熟練石工組合員)であり、フランス建築では最初のルネサンスの装飾モチーフを、アンボワーズに取り入れた。フランス人建築家3人の名前(コリン・ビアール、ギョーム・セノール、ルイ・アルマンガー)が記録に残されている。

アンボワーズ城とサン・ユベール教会堂

アンボワーズ城の庭には、フランスで初めてイタリア風レイアウトが採用された。これがフランス式庭園(幾何学的構成の庭園)の始まりである。シャルル8世の時代、イタリア人聖職者パセロ・ダ・メルゴグリアーノが庭の設計をしたことが記録されている。シャルルは上のテラスを広げて庭園を大きくし、格子とあずまやで囲んだ。ルイ12世はその周りにギャラリーを設けた。アンドルーエ・ド・サーソは、1576年出版の自著「フランスで最も優れた建築(Les plus excellens bastimens de France)」でギャラリーに触れている。20世紀になってから再現されたパルテア(装飾花壇)は、四角い芝生の周りに砂利と成形された立ち木が配置されたものである。



編集

    モン・サン=ミシェルMont Saint-Michel)は、フランス西海岸、サン・マロ湾上に浮かぶ小島、及びその上にそびえる修道院である。モンサンミシェルとも表記する。

    カトリックの巡礼地のひとつであり「西洋の驚異」と称され、1979年には「モン=サン=ミシェルとその湾」としてユネスコ世界遺産文化遺産)に登録され、1994年10月にはラムサール条約登録地となった。

    モン サン ミッシェルについてはフランス観光ガイド参照。

https://www.hankyu-travel.com/guide/france/montstmichel.php

















    7月13日(金)ルーアンを14時ころ出発し、1時間足らずでエトルタに着く。
    エトルタは、風雨にさらされてできた自然のアーチを含む断崖でよく知られる。これらの断崖と砂浜が、ギュスターヴ・クールベクロード・モネといった芸術家たちを魅了してきた。




 
   エトルタは1909年には、モーリス・ルブラン作のアルセーヌ・ルパン・シリーズの小説『奇巌城』の舞台となっている。街の中にはルブランの邸宅を改造した「モーリス・ルブラン博物館『ルパンの隠れ家』 le Clos Lupin, Musée de Maurice Leblanc」が公開されている。




ルパンについては次のElliEさんのブログが詳しい。



    エトルタを17時頃出発し、3時間半でモン・サン・ミッシェルについた。下は車窓からのモン・サン・ミッシェル。















    朝8時半に パリ シャルル ド ゴール エアポート近くのホテルを出発し、街を抜けてからはセーヌ川沿いに走り、2時間弱でルーアンに着いた。

    古くのルーアンはセーヌ川右岸のみであったが、現在は左岸とラクロワ島も市域に含まれている。市街の北側は丘陵が続いている。

    中世からの古都であり、大司教座が置かれた。ルーアン大聖堂ゴシック建築の代表として知られる。クロード・モネの中期の連作『ルーアン大聖堂』はこの聖堂を主題としたものである。ルーアン大聖堂にはノルマン人で初代ノルマンディー公になったロロの墓がある。また、百年戦争で捕虜となったジャンヌ・ダルクは、1431年にこの町で火刑に処されている。

ルーアンのノートルダム大聖堂については、「海外レンタカーの旅が好きな30代主婦」の旅行記が詳しいのでそちらを参照。







ジャンヌダルクが処刑された場所に立つ教会についても、

「海外レンタカーの旅が好きな30代主婦」の旅行記が詳しい。




ルーアンの街を散策した後、ルーアン美術館のレストランで昼食を摂った。











    早めの夏期休暇を取り「煌めくフランス8日間」なるJTB主催の安直なツアーで昨夜(12日)パリについた。
    羽田を14時に立ち、12時間半のフライトで、現地19時半の到着だが、夏時間で7時間の時差があるので日本時間だと深夜1時半だ。
    フランスにはスイス留学時を含め10回ほど来ているがパリ周辺が中心だった。今回のツアーは今まで来たことのない、「モンサンミッシェル」「ロワール川流域の古城巡り」「モネが晩年を過ごしたジベルニー」が入っているので選んだ。まさにOL好みの定番コースだが、これにお決まりのパリ・ベルサイユ・シャルトルが入っている。
    シャルトルのノートルダム大聖堂は40年ぶりで、パリ・シャルトル・ルーアンの3つのノートルダム大聖堂を見比べるのも楽しみだ。

    私は50年程前、スイス滞在中か、出発前に森有正のエッセーを読んだ記憶があり、調べてみると「霧の朝」「ひかりとノートル・ダム」「遥かなノートル・ダム」の3編で、これらはそれぞれ「展望」1966年2月号、1966年11月号、1967年2月号に初出している。

   1999年6月から10月にかけて「筑摩書房」の「ちくま学芸文庫」から「森有正 エッセー集成 1〜5」が順次発刊され、私はこれなら読めそうだと全巻購入したのだが、各巻の「解題」「解説」を読んで「あーそうだったんだ。」と納得しただけで、20年近く本棚に眠っていた。
 
    そんなわけで、飛行機のなかでは  「森有正 エッセー集成 3」で  「霧の朝」「ひかりとノートル・ダム」「遥かなノートル・ダム」「赤いノートル・ダム」「ある夏の日の感想」「パリの生活の一断面」「ルオーについて」「思索の源泉としての音楽」「滞日雑感」「黄昏のノートル・ダム」「遠ざかるノートル・ダム」を読んできた。
    留学前後に「霧の朝」「ひかりとノートル・ダム」「遥かなノートル・ダム」は読んでいるはずなのだが、前2編は哲学的部分が多かったためかふすあまり覚えていなかった。
    「遥かなノートル・ダム」に哲学的部分がないわけではないが、パリの雰囲気が生き生きと描写されてもおり、初めて欧州に留学に行く私に強烈な印象を与えたことは確かだ。
     この旅行の合間にこのシリーズを読むのもたのしみだ。
    通関を通り、バスで飛行場近くの「ベスト ウエスタン パリ シャルル ド ゴール エアポート」に向かって1泊。風呂に入り寝たのは結局22時で日本時間で朝5時近く。明日は朝8時半にルーアンに向けて出発。
    朝6時までぐっすり眠れたので一安心。
    




    今年は夏休みを7月に取り、12日から「煌めくフランス8日間」なるJTB主催の旅行に行く予定にしている。
    私は1967年5月、スイス・チューリッヒのスイス連邦工科大学に留学する為、横浜から当時のフランス郵船「ベトナム号」に乗り、35日間の船旅ののち6月半ばマルセイユに着き、すぐ列車でパリに向かい、パリで下車した。
    実は日本でスイス留学の為のビザが間に合わず、パリの日本大使館で受け取るべく手続きをして乗船したのだった。
    まっしぐらに大使館に行ってビザが届いているか尋ねると、無いという。
    不安な一夜を過ごし、翌日再び大使館に行ったら、見つかったという。
ホッとしてパリを観光した思い出が私の最初のヨーロッパ体験だったと言える。
    凱旋門とエッフェル塔を見て、遊覧船からノートル・ダムを見上げ、エッフェル塔に登って眼下を見下ろし、降りてから近くのカフェでのんびりお茶を飲んだ。通りを隔ててアンバリット(廃兵院と言う呼び名に驚いたが、軍事博物館になっている)が見えた。





    それから、パリに何回行ったか、数え切れないが、ノートル・ダムを見るたびに森有正の「遥かなノートル・ダム」を思い出す。
    1968年の春休みは、スイス連邦工科大学の中にあった「学生旅行クラブ」主催のフランスバス旅行に参加し、パリではノートル・ダム、ルーブル美術館、オペラ座、凱旋門のナポレオンのレリーフなどを見て凱旋門の展望台に登り、ベルサイユ宮殿も見学してきた。







    同年7月、婚約していた加代が到着し、ウィーンで迎えてからパリに足を伸ばし、新婚旅行とした。



    留学中だけで3回パリを訪れたことになる。
    森有正の単行本「遥かなノートル・ダム」が手元にあるが、この本は初版9刷で1969年4月刊だから、私が同年5月に帰国してから購入したものだ。


    私はスイス滞在中か、出発前に森有正のエッセーを読んだ記憶があり、調べてみると、単行本「遥かなノートル・ダム」のなかでも読んだ記憶が有るのは「霧の朝」「ひかりとノートル・ダム」「遥かなノートル・ダム」の3章だけで、これらはそれぞれ「展望」1966年2月号、1966年11月号、1967年2月号に初出している。
    私は学生時代、「朝日ジァーナル」と「世界」と「展望」を読んでいた記憶があり、たぶん「展望」で読んだのだと思う。
    留学時もこれらの週刊誌や月刊誌を父にスイスまで船便で送ってもらっていた記憶がある。
    なにせ大学で友達になったスイス、ドイツ、フランス、イタリア、イギリス、アメリカ人達と話すと、日本の文学・文化について聞かれ、自分がいかに日本の書物を読んでいなかったかに気付かされ、前述の雑誌のほか父に頼んで岩波文庫の古典をごっそり送ってもらったくらいだ。
    今もその時の岩波文庫が自宅の本棚にあるが、道元の「正法眼蔵」など綺麗なままで、結局読まなかった本も多いのだが。
    企業人として第4コーナーに入った十数年前から何巻にもなる古典を読む余裕が出来、まだ読んでいないゲーテの著作はドイツやイタリアに旅行し、ゲーテの足跡を辿りながら読み、セルバンデスの「ドン・キホーテ」はスペイン旅行の直前と最中に読み、という方法で読破して来たが、フランスについては残念ながら誰でも読むようなスタンダール「赤と黒」、ジッド「狭き門」、デュ・ガール「チボー家の人々」くらいしか記憶になく、身近に感じてフランスを代表する文豪は思い付かない。
    結局、スイス留学の前後に森有正の3編の「エッセー」を読み、私をパリに惹きつけてくれた事もあり、森有正に挑戦することにした。
    森有正は、1911年東京のキリスト教を信仰する家庭に生まれ、東京大学に学びデカルトとパスカルに強い関心をする抱き、研究者となった。
    1948年東大助教授になったのち、フランス政府給費留学生として1950年(私と同じ航路でマルセイユに着いたそうだ)パリに渡った。
    1,2年のつもりが、結局1年後、彼は日本に戻らないことに心を決めた。
    その後、フランス国立東洋言語文化研究所やかってのソルボンヌなどで、日本語や日本の文学と思想を講じた。
    深い哲学的省察に満ちたその「思想的エッセー」は、西洋思想を学ぶ者のみならず、自己に誠実であろうとするものに迎えられた。
    1962年にはフランス人の女性と再婚した。(1972年に離婚)
    晩年に哲学的なエッセーを多数執筆し注目を浴び、1968年に「遥かなノートル・ダム」で芸術選奨文部大臣賞を受賞し、それらにより夏休みなど日本に帰国し、講演・対談や国際基督教大学などで短期の集中講義なども行っている。
    後年、日本に永住帰国を決め、国際基督教大学に教職が内定していたが、血栓症がもととなり1976年10月18日、26年暮したパリで客死した。墓所は多摩霊園にある。

    様々な作品は彼の死後、1978年から82年にかけて、
『森有正全集 (全14巻・補巻1)』 筑摩書房、に結実した。
    • 第1巻 バビロンの流れのほとりにて/流れのほとりにて
    • 第2巻 城門のかたわらにて/砂漠に向かって
    • 第3巻 遥かなノートル・ダム
    • 第4巻 旅の空の下で
    • 第5巻 木々は光を浴びて
    • 第6巻 現代フランス思想の展望
    • 第7巻 近代精神とキリスト教
    • 第8巻 ドストエーフスキー覚書
    • 第9巻 デカルトの人間像ほか論考
    • 第10巻 パスカルの方法
    • 第11巻 パスカルにおける「愛」の構造
    • 第12巻 経験と思想 雑纂
    • 第13巻 日記I
    • 第14巻 日記II・アリアンヌへの手紙
    • 補巻  補遺(随想・書評ほか)
              
  
    1999年6月から10月にかけて「筑摩書房」の「ちくま学芸文庫」から「森有正 エッセー集成 1〜5」が順次発刊され、私はこれなら読めそうだと全巻購入したのだが、各巻の「解題」「解説」を読んで「あーそうだったんだ。」と納得しただけで、20年近く本棚に眠っていた。


  • 『森有正エッセー集成』(二宮正之編、全5巻)、ちくま学芸文庫
    • 1 バビロンの流れのほとりにて/流れのほとりにて/日記 1954年-57年
    • 2 城門のかたわらにて/砂漠に向かって/日記 1959年-60年
    • 3 遙かなノートルダム/黄昏のノートルダム/遠ざかるノートルダム/日記 1961年-68年
    • 4 旅の空の下で/リルケのレゾナンス/アリアンヌへの手紙/日記 1968年-69年
    • 5 木々は光を浴びて/故国の情感/三十年という歳月 ほか/日記 1970年-76年

    編者の二宮正之は、1938年東京生まれ、1965年、東京大学大学院博士課程中退。1965年〜68年パリ留学(私のチューリッヒ留学と67年〜68年まで偶然重なっている)。1969年から森有正と同様、フランス国立東洋言語文化研究所で教鞭をとる。
    いわば森有正の弟子と言っても良いかもしれない。1992年からスイス・ジュネーブ大学教授。
「集成」に収められている森有正日記はフランス語で書かれたものを二宮正之が訳したものだ。
    二宮正之には「私の中のシャルトル」ちくま学芸文庫 という著書があり、後半は森有正についての記述となっている。

 
   二宮正之は森有正の死にも立ち会っており、私にとっては彼の「私の中のシャルトル」と「森有正エッセー集成」の「解題」「解説」が森有正への最良の入門となった。
    いよいよ森有正に挑戦する。

    5月5日単独行動の後編。ゲーテ、ゼーゼンハイム(フランス語ではゼッセンハイム)の恋の顛末。
    ゲーテのストラスブールの下宿仲間に医学生のヴァイラントという青年がいた。アルザス生まれの彼はゲーテをアルザスの各地を巡る旅に誘った。
    ゲーテは1770年10月13日、ヴァイラントに連れられて彼の親戚のゼーゼンハイムのブリオン一家を訪れ、18歳のフリデリーケと運命的な出会いをした。
    ゲーテは、フランクフルトやライプツィヒでも実らぬ恋に落ちるだが、今度の恋はブリオン一家にも祝福され、有名な「野バラ」を作詞したりして最初は幸せだった。
    しかし、手折った後その野バラを捨ててしまったゲーテは生涯その罪の意識を忘れることはなく、最後に大作「ファウスト」の中で、グレートヒェンとして結実している。
     
    ゼーゼンハイムには、フリデリーケの父親が牧師を務めたプロテスタント教会・牧師館とゲーテがスケッチした納屋、フリデリーケが通った学校等があり、後に出来た町営の「ゲーテ記念堂」、レストラン兼旅籠「牡牛亭」には牡牛亭の祖先が開設した「ゲーテ記念館」、「フリデリーケの憩いの丘」などがある。
    
    ゼーゼンハイムはストラスブールから列車で片道30分の町なので、ホテルのスタッフに列車の時刻表を尋ねたら、今日はストライキで列車は間引き運転だというので、タクシーをチャーターすることにした。

    ベンツの新車を運転するモロッコ人の運転手は、自慢げに時速150km位で走る。お陰で20分くらいでゼーゼンハイムに着いた。
    
    以下に写真を羅列することでゼーゼンハイムの訪問記とする。

    帰り道はゲーテがよく立ち寄ったドゥルーゼンハイムを通ってもらった(高速道路を避ける為もあった)。


プロテスタント教会

フレデリーケの父親の牧師館

ゲーテがスケッチした納屋

フレデリーケが通った学校

ゲーテ記念堂

ゲーテ記念堂の中

ゲーテ記念堂の中の展示

レストラン兼 旅籠の牡牛亭「ゲーテ記念館」が付属

ゲーテ記念館の中

ゲーテ記念館の中

ゲーテ記念館の中

ゲーテ記念館の中

フレデリーケ憩いの丘

フレデリーケ憩いの丘について(上 仏語、下 独語)


    5月5日、私はツアーのコースから外れて単独行動をとることにした。
     私は2011年5月のゴールデンウィーク、2011年8月の夏休み、2012年4,5月のゴールデンウィーク、2012年8月の夏休みと、ゲーテの足跡を辿った旅行をくりかえしてきた。 
    その後しばらくゲーテの足跡を辿る旅から遠ざかったが、今年のゴールデンウィークの旅について、家内の所に届いた旅行社のパンフレットを見ていたら「ドイツ黒い森地方とアルザス・モーゼルの街を訪ねて」にドイツ・フランス国境のフランス側のストラスブールが入っているということで、この旅に決めた。
    ゲーテは1765年9月、16歳でライプツィヒ大学に学び、病を得、フランクフルトに帰ったのち、1770年4月、ストラスブールに向かい、翌1771年8月、法学得業士の学位を得て弁護士を開業する道が開けた。
    私はまだストラスブールに行っていないこともあり、再びゲーテの本を携えて旅をすることにした。
    2011年8月の「ゲーテの旅」の時読んだ全4部にわたる大著で、自伝文学の代表とも言われる「詩と真実」(潮出版社のゲーテ全集の第9卷と第10卷)の第九章から第十一章のストラスブールの項を旅行前に再び読んだ。
    ゲーテゆかりの土地の案内本としては、「ドイツ文化散歩(1) J・W・フォン・ゲーテ  ---旅路遥か、見果てぬ夢---」丸山暢謙 著( 栄光出版社) がある。
    この本には、ストラスブール時代のゲーテについて、ゼーゼンハイムのフリデリーケとの恋も含め詳しく書かれている。

    上記の本の中でゲーテはストラスブールに到着した時の喜びを次のように語っている。
「私は旅籠ツーム・ガイストで馬車を降りると直ちに、熱き思いを満たすため、憧れの大寺院へと道を急いだ」
    今ツーム・ガイストの場所には宿泊施設は無い。跡地の建物には簡単なレリーフがあり「この地には14世紀からツーム・ガイストという旅籠があり、1765年にはルソーが、1770年にはゲーテが宿泊した」とある。

    さて、ゲーテが熱き思いを抱いた大寺院(ノートルダムダム大聖堂)に行ってみると大勢の観光客だ。
    ゲーテは今で言う高所恐怖症だったようで、143mの塔の700段余りの螺旋階段を何回も登り降りし、恐怖と苦闘を克服したようだ。
    当時21歳のゲーテと張り合うわけではないが、私もその塔に挑戦した。さすがに息が切れた。内陣も素晴らしかった。

    ゲーテは大寺院の近くに1770年4月から71年8月まで下宿しているが、その建物は現存しており、赤壁に緑のブラインドの木組みの家の2階と3階の間にはゲーテのレリーフが掲げられている。ちなみにそれから130年後にはシュバイツァー博士が哲学博士論文執筆のためこの下宿に住まいを移している。

    ストラスブールは当時から有名な文化都市で、モーツァルトも訪れており、大寺院の近くにある聖トーマス教会でパイプオルガンの演奏をしており、時代は違うがシュバイツァー博士も同じパイプオルガンを弾いているそうで、教会の中には当時のパイプオルガンが展示しており、両側にモーツァルトの肖像画とシュバイツァー博士の写真が等身大で飾ってある。
     丁度その時、現在のパイプオルガンの演奏が始まった。

     ゼーゼンハイムのゲーテとフレデリーケの恋のお話は後編で。

















    5月4日朝シュトゥットガルトを発ち2時間余り、最初は高速道路を南下し、途中から西に向かってシュバルツヴァルト(黒い森、針葉樹林)を横切ってフライブルクに着いた。
    この街は500年に渡ってハプスブルク家の支配下にあり、明るい南方的な雰囲気が漂う。
     大学の街だそうだが、旧市街地には二つの中心があり、一つは1200年頃着工し、1513年に完成した、フレンチゴシックの大聖堂。日曜日以外には毎日市が立って賑わっている。
    もう一つは、旧市庁舎・ルネサンス様式の新市庁舎(両方を繋いで今も使われている)・聖マルティン教会に囲まれた市庁舎広場だ。
    
    昼食後、シュバルツヴァルトを北上し、ゲンゲンバッハという人口1万人くらいの小さな町に寄る。
    第2次世界大戦でも爆撃を受けなかったそうで、中世の修道院(今は大学)、木組みの家に囲まれた旧市街地が美しい。
    穴場観光地だ。

    夕方ライン川を越えてフランスのストラスブールに入る。