自分を貫くなという極論 | 『真理と道理・人と神』

『真理と道理・人と神』

あの世とこの世のことから人の心や魂や家系の先祖、そこからの道理と常識の大切さを書いています
また先祖や神からの気付きや言いたいこと乗せてます

なぜ自分を貫いたらいかんのかと言う答えに対して、わたしは極端に言うなれば


ある利用者が好きで大事にしよる職員がおったとして、片方でその利用者がいやな人がおったとしても


その態度や口ぶりを、その大事にしよる職員の前で利用者へ出すことは
職員と利用者二人に対して冷たくした事になるけんね。


まあ、働きよって、利用者様へ好き嫌いはもって接せられんがぜ
平等におるのが、お客様への職員のやることやけん。


なぜ自分を貫いたらいかんのかという問いに、私は人を害することがあるけん、やられんろうと、人としての常識で答えるけど


残念ながらもう一つの言い方がある。


結局ね、自分を貫く行為は人との距離がきちんと取れん人のやることでね。


仕事とかの役目に対して貫く信念があるなら、事業の向上となるならやらないかん。


やけど、プライベートで誰にも彼にも自分の曲げれん事を貫くやつは、関わった人から結局は「人との距離の取り方ができてないね」と、言われるがよ


今の社会はね、そういうもんなが。
悪気はなくても、地元や友達とかに接する態度で、仕事場でわきまえんとおったり、これが自分やからと上の人に日常の態度で接したり、宗教も持ちかけてみたり


宗教に入ってもらうのはええけど、入ってくれたけんと、何か同類にでもなったようにそこから余計な親しみを持ったり、せんでええことに親切でやったり、宗教という組織に入っておるもんには一部度が過ぎる特徴がある。
 


親切や思いやりがええと思うて接しておることが、余計な自分の面までみせて、ちょっとねえと言われるところまでくる。


人が、親友や友達、まあ親に頼る事で解決することを、同じ信者がでしゃばる必要はない。


宗教は宗教だけの付き合い
仕事は仕事
プライベートはそれはそれ


いくらその人が可哀想にと思うても、その人が先に頼るのは親であり身内であり、友人であり友達であるという順番なが。


そこへ、なんでもしてやればええというもんでもない
求められたらしたらええ
でも求めてこんならほおっておけばええ


そういう事がわからんと、親切にならん場面やちある。


やけん宗教はそれをとばかしてもかまんと思う勘違いがあるけん、気を付けないかん


人のテリトリーも守ってやらないかん。


やけん親切だけが全てやなくて、見守るということも宗教にはあるはずで。

宗教が助けてくれると私生活までおぶさる馬鹿はおらんで。
 
 

あとね、私はお祓いは『自分でやらないかん』と本心に言われた
やけんうちらは今年を終わるのを待つしかない。
人がすごいすごいいうもんも、なんちゃー凄いと思わんに、気分を害せられんと思うて気は使うしねえ。


自分の外の神様に助けられた事は一度もないで
やのに中の神様は外を助けるがやけんねえ。


普通とうちは逆ながちや。