理屈ではしまいがつかん | 『真理と道理・人と神』

『真理と道理・人と神』

あの世とこの世のことから人の心や魂や家系の先祖、そこからの道理と常識の大切さを書いています
また先祖や神からの気付きや言いたいこと乗せてます

ある人のブログで
経験をしっかり積んだ人は、理屈で追い付かない経験値を得る
つまりそれが直感力です、という事を書いていた


まことにそうやと思う


いろんな経験をしよってしまくりよったら、どうしても理屈では埋められん現象が起こって、その不可思議な事にもある一定の法則があることに気付いてくる
それはもはや脳の計算が追い付くようなものではないけど


権力と金と地位、これが揃うのも計算をしての行動やったとして巧みに手にしても、それを手にさせる程妨害をなさんかったのも運
そして、運一つで人間の努力とは虚しく全てがたった一筋の斬り込みで飛び散るのも


またそれである。



やけんどうにもならん出来事もあると悟る者は、努力で力まんなる。
努力をせんなるがやなくて、努力をしても成らんかったものは、それはそれと諦めて見送る事ができるがよね。



喘息の時期が始まったなあ。



ただ、その見送る事も、生死さえも含まれる為に、悟ったからと生きる上でダメージがなくなるというもんでもない。


努力して子が授からんかったもんが、力むのをやめたら授かったり
幸福な日常が災害で崩壊したり


生死さえもまたぐもんながよね


祝い事ならかまんけど、生死が必然であるこの世はそうもいかん。


直感力ってもんが冴えだしたら、なんとなく危険は避け、波に乗り、自分オリジナルの運に等しい安全領域に自然とおるもんながよ


人それぞれ家系の運が違うけんいろんな人生があるけどよ


けど、直感ってもんはいろんなもんに揉まれて足掻いてボロクソになってこそ、自分の自由になることは本当はないんだな、ということをなんとなく気付く事ながよね


やけんもうダメやと思うたら助けられ、このまんまやれる!と思うたら落とされ、もう終わりやと悟れば救われる


そこに自分の力でどうにかなることなど一つもないと、本当の意味で知るがよ


やけん天に、神様に任せておけばええという、他力本願ができた
そして、他力本願だけではなく、他力本願に行き着くまでに自力で成す自力本願。
まあ、その運すら自分のものやけん守護も含めた上でトータル、自分で成したというなら他力も自力本願ながやろうね。


できたら自他力本願がええ。
横の軸と縦の軸で、回転が始まるのが人の運やけんね〔➕〕

ああ、卍か。

卍とはね、気の回転方向の事ながよね
右回転は夜の世に、左の回転は昼の世になるよ
そんなことを数年前教えられたか。


銀河も渦を巻いちょるろう
気の流れの方向性よ
鳴門海峡の渦もね



人生とはやりにやりきって、ボロクソになって、天に助けられたらええ
やけん元不良が改心した時というのは、本当に強いもんながよね。


ただ、昔の不良は自分の葛藤と世に馴染まんが為にところ構わず自分の内面に苦しんで荒れたけど
今みたいに社会では普通にして裏でストレス解消の時だけに荒れるのは違うがよね


宗教の流行る時代、仏滅もいう真理も教えも消える時代、それは交互にやってきよる
文明が発達する時代、減退する時代、それは宇宙の流れに影響されよらえ。


宇宙って物凄い関係ないようやけど、宇宙の中に生存しよる以上全然関係ない事はない


人の動きや社会の動き、全体的な世界の動きは、宇宙の動きでもある


人と先祖と神と宇宙は連結性があって切り離せるもんではない。



ってことを、宗教やスピリチュアルは言いたいがやろうけど、その前に神様崇めよ!ってくるけん妙な神的な存在が邪魔して、先入観に偏見と視野を狭める。


正しい情報はいっぱいあるがやけどよ
妙にわからん神様信じてもっと道はあるのに狭めた道をこれが合っていると苦しいものを信じる為の寄りかせにするのか
自分の人生をまっとうに生きれるために、情報すら使うのかっていうのは
結構差が出るもんながよね。
仕方ない人生か自分が選んだ人生か。


究極なる枠に当てはめるような事をしたら、その枠は本人の人生の責任をとれるのかと問いたい


枠に意思はないけんね。


真理も高低柔軟性をもって変化すればええがよ


ピンからキリまで言えるがやけん



真理は7億あるがやけんね。