神を、知っている。という程度がいい | 『真理と道理・人と神』

『真理と道理・人と神』

あの世とこの世のことから人の心や魂や家系の先祖、そこからの道理と常識の大切さを書いています
また先祖や神からの気付きや言いたいこと乗せてます

どれ程真理や極地を知っていようとも



神をどれ程なにであるかを知っていようとも




生きる中で必要な丁度の感覚は


「神を知っている」


という頃合いが丁度いい。





私は神ですと言うたとして、それを自覚していたとして




そんなもの、因果で縛られた肉体を持ち生きる我らには何の意味ももたん。




屈辱か、大きな苦か、死ぬまでの辛抱を強く自覚するだけで終わってしまう




神と気づくのは、余りにも過酷であるわ(笑)

生きるに、重いのよお。








意識の八割は、家系の因果に乗っ取られてしまうのだから。





そのたびに、悟れていないとか、修行しなければとか、再度再度取り行う。




それは修行の一貫として割りきってそう取ることをするならかまんが。



幸せを手に入れようと、業の解消に励むのは、いささか真理より外れとる



幸せとは、苦を退けた先にあるのではなく、苦があってこそ現れるものだからなあ。








その点、本心側は呑気で悪意もないまま思考の現実を行う。



神とも意識をしておらんし、死んだ意識そのものであるとも思うてない。



自分が何者かなんぞとうでもええ程呑気で陽気であるわ





そうある姿が、創造主であり、そこに人をツクッタ愛情を入れればそれは仏となり。