ぽたり、ぽたりと少女の顔面に落ちる雫。
透明な『ソレ』を、彼女は拭いもしなかった。
大きく見開かれた両の瞳に移るのは、男の姿。
顔色の悪いその男は、随分と歪んだ顔をしている。
その男の瞳からは、新たな雫が落ち、彼女の頬を濡らす。
「っう………。」
「つ、つるがさ……ん……?」
「ううう……。」
獣のような唸り声。
自分で出した声だというのに、聴いたことがない音だった。
低く、掠れた、つぶれたような声。
唸りながら、俺は彼女の左胸の肋骨の下にある…心臓の上に、右手をのせる。
ビクリ、と身体を跳ねさせた少女。
薄い皮と骨を隔てて、ドクドクと手の平に伝わる、生命の脈動。
滲んで歪んだ、色あせた世界だというのに、彼女は美しかった。
獣のように唸る男に押し倒され、圧し掛かられて。
驚いた表情はしていても、そこに怯えは一切ない。
―――幸せな、1日になるはずだった……―――
それなのに、絶望に叩き落されて。
それでも、叩き落した人物にしか縋る先はないからと、逃れられないように押し倒し、体重をかけて動けないようにしている。
―――こんな男を、誰が愛してくれるのか……―――
俺を好きだといった、彼女こそが本当は呪われているのだろう。
「のろいでも………」
「え………?」
「いいから………」
口からこぼれ出る言葉は、掠れてほとんど音にならなかった。
まるで覚えたての言語を話すように、拙く響く日本語。
その言葉を、聞き逃さないようにと、大きな茶色の瞳が俺の唇を見ている。
「いっしょに、いて………」
あぁ……情けない………。
でも、これが本心。
俺の抱えるこの想いが、『恋』や『愛』ではなくても。
彼女の言うところの、『呪い』であったとしても。
「きみがいないと、」
その『感情』は、『鶴賀蓮』として生きていこうと決めた『俺』を一度破壊してしまった。
そして再生した『鶴賀蓮』と『クオン』にとって何より中心に置いたモノは、『最上キョーコ』なのだ。
俺の核ともいえるその存在を奪われたら、きっと俺は……
「いきて、いけない……」
死んでしまう。
それは、呪いのような言葉。
まごうことなき真実ではあるけれど、そんな強烈な思慕を向けられる相手にとっては、強力な枷ともいえる。
……いや、俺はすでに、彼女に枷をはめている……
俺は、瞬きすら忘れて俺の唇を見つめ続ける最上さんの瞳を見ながら、左手で彼女の右腕をつかむ。
まだ肌寒い季節。
長袖のセーターで隠されていた腕に、左手を絡める。
そこには、固い金属が、彼女の細い腕にまるで手かせのように嵌められている。
俺が彼女に贈った、誕生日プレゼント。
「どこにも、いかないで……」
口から出るのはか細い懇願。
それなのに。
右手で俺が贈った手かせをなぞり。左手で彼女の命の源をなでる。
自由と命を押さえつけた行動は、もはや脅しに他ならない。
俺の気持ちを。俺の想いを否定するのならば。無いものにするというのならば。
―――君の自由を奪って、命すらも俺に縛りつけて。……ここから、逃れられなくしてしまえばいい…―――
いつだって、君へ向ける想いは紙一重。
俺を犯罪者に…君を閉じ込め、俺以外の誰とも接触させることなく、一生俺だけしかいない状況にしてしまうのも。
俺を幸福な人間に…君を愛し、君や俺の周りにいる人たちとともに笑い、幸せな家庭を築き上げる日々を送るのも。
君の選択次第なのだ。
そして今。
確実に、前者のものが選ばれる状況にある。
苦しい。
彼女を不幸にする選択しか選べない自分に、反吐がでる。
それなのに………。
嬉しいのだ。
彼女を閉じ込められる選択が。
他の誰の目にも触れさせず、彼女に与えられる全ての変化が俺だけのものであることが。
恐らくそんな生活は長くは続かない。
異変はすぐに気づかれる。
俺はもう、芸能人として…いや、人として、生きていくことはできないだろう。
それでも。
数日…いや、数時間。一瞬でも。
最上さんの世界が『俺』一色に染まる時がくるのならば。
それでいいと、思えてしまった。
「ここにいて………」
それほどの想いを寄せているのに、口からこぼれ出るのは、相変わらずの懇願に近い響きがある。
一体、俺はどうしたいのか…言動がバラバラな自分を、どうすべきかと途方に暮れかけた時。
「え?いますよ?」
当然のごとくあっさりと。
俺の『願い』をかなえる言葉が、愛しい少女の唇から紡がれた。