風が吹けば飛ぶような、軽い雪が振り積もった朝が好き。
 ひとつひとつが光を反射し煌めく雪の結晶。木の枝を真っ白に染める粉雪が、太陽に溶かされて、はらはらと軽やかに舞い落ちる。
 澄んだ冷たい風が頬を撫で、照りつける日差しのあたたかさを肌で感じる。そんな冬の晴れ渡った朝が好きだった。
 周囲の景色を見ていま感じたことを、なんとなく話題に出してみる。
 隣を歩く男は、いまいちピンときていない顔で首を傾げた。
「や、わからんけど」
「もう、トワくんは情緒がないなぁ」
 もこもこの上着を身にまとったトワはマフラーを口元まで引き上げて、肩をすくめる。彼には理解し難かったらしい。
 モモはふくれっ面をしてみせる。共感を得られると思って話したわけではないが、想像以上にそっけない反応だったからだ。自分の好きなものを否定されたみたいで、わずかに胸がちくりとした。
 横目でモモを見たトワが、ふはっと白い息を漏らす。
「おもしろいカオ」
「そんな顔してない」
「してるしてる。眼鏡も曇ってるし」
 冬にマスクをしたまま眼鏡をかければ、レンズが曇ってしまうのも無理はない。仕方のないことなのだが、面と向かって笑われれば少しだけ恥ずかしさを覚えてしまう。
 ヤケクソになったモモは眼鏡を外し、手に持ったまま歩き続ける。どうせ白くぼやけた視界なら、かけていようがいまいが関係がなかった。
 それを見て、トワはまたくすくすと笑った。
 こうして他愛もないはなしをしながら、二人でバス停から事務所まで歩くのも日常になってきた。
 さくり、さくり、と昨日積もった雪を踏みしめて歩く。スノーブーツは重いが足が冷えにくくて良い。足の冷えが雪山ではかなり堪えるということも、ここに来てモモが初めて知ったことの一つだった。
「ふー……さむ」
「寒いの苦手なのに、よく北に来たよね」
「スノボはしたいし。……てか、それダジャレ?」
 最後の余計な一言は聞かなかったことにして、確かにと頷いた。はじめたばかりではあるが、スノボの楽しさはモモにも分かる。
 前々からやってみたかったスノボを、いざはじめる後押しになったのがトワの存在だった。初心者が一人ではじめるのはハードルが高いと諦めていたが、教えてくれる人がいるなら挑戦するハードルも下がるというもの。
 最初はリフトから降りるのでさえ転んでばかりだったが、慣れてしまえばなんてことはない。ただ板に足を乗せているだけで勝手に滑っていってくれる。
 斜面を滑り降りるのも、もちろん楽しい。まだまだたくさん転んでしまうが、うまくターンしてスピードに乗れた時の爽快感がたまらないのだ。
「そだ、昨日兄から連絡があってさー。向こうはやっと、毎日雪かきが必要なくらい降り始めたらしいよ」
「へぇ〜。雪山にいると感覚狂うよな」
「ね、こっちの積雪量えげつない」
 去年までのモモは積雪量なんてあまり気にしたことはなかった。雪かきは家の男たちがしてくれるし、量まで気にする必要がなかった。
 スキー場で働いている今では、毎日のように積雪量と風速を気にしている。雪がたくさん積もった日は雪かきが待っているし、風が強ければリフトが運休になる。職場に行く前に、確認してしまう癖がついていた。
「今日風強そうだけど、ゴンドラ運休する?」
「んや、ギリいけるっぽい。残念」
「休みたすぎるでしょ」
 笑いながらツッコミを入れる。
 基本的に働く気のないトワは、自分の配属場所の運休をいつも望んでいた。運休になれば仕事は休み。同僚たちが仕事をする中、悠々と滑って遊ぶことが出来る。
(まあ、わたしはべつに働くのがいやなわけではないけど)
 滑りに来た同僚が監視室に手を振ってくれるのがおもしろくて、そんなコミュニケーションが楽しかった。吹雪いている日の外仕事は凍えそうにもなるけど、室内はしっかり暖かいからそれほど苦にはならない。たまに社員やお客さんが、お菓子を差し入れしてくれるのも嬉しかった。
 考え事をしながら歩いていると、靴底が滑る感覚がして、ぐらりと体が傾く。
「うわわっ!」
「わっ、と。モモさんはおっちょこちょいなんだから、足元に気をつけて歩きなよ」
 足を滑らせたモモの腕を、すかさずトワが掴んで支えてくれた。どちらかと言えばひょろりとした体格のトワだが、ちゃんと男の人なのだと実感する力強さと安定感にモモはどきっとした。
「おっちょこちょいじゃないよ! でもありがと!」
「こちらこそ」
 わたわたと距離をとって、手に持って歩いていた眼鏡をかける。もしまた滑った時、両手が空いていた方がいいと考えたからだ。視界が白くもやがかかる。
(まだこういうの慣れないな……。お兄たちとは、やっぱり違うというか)
 歳の離れた兄にされるのとは、なにかが違った。ドキドキと心臓が高鳴るのがこわくて、きゅっと拳を握る。勘違いなんてしたくない。冬の冷たい風が火照った頬を一瞬で冷やして、思考までクリアにしてくれる気がした。
 彼のことが好きなわけじゃない。年下の男の人とこうして話すのが久しぶりで、ただまだ緊張するってだけ。ただそれだけだ、とモモは自分に言い聞かせた。
「大丈夫そ?」
「うん。トワくんのおかげで」
「感謝していいよ」
「感謝してる感謝してる」
 わざと恩着せがましくしてみせるトワに、適当な呆れ声を返す。
 トワはくろい瞳を一度見開いてから、ゆっくり細め、悪戯っぽく笑う。あまり笑わない印象だったけれど、けっこう笑うのだということは親しくなってから知った。
 そっと胸に手を当てて、一つ息を吸う。そして、モモはややぎこちない笑顔を返した。本人はいつも通り笑ったつもりで。
 目ざといトワはモモの違和感に気付き、何度かくちを開いては、閉じる。
「モモさ――」
「うん? あ、ちょっと待って。ここ滑りそう!」
 へっぴり腰になって、押し固められた雪のスロープを進もうとするモモ。
 トワはかけようとした言葉を失い、代わりにふ、と笑い声をこぼす。白い息が、言うはずだった言葉とともに大気にとけていった。

 遠慮がちなのに大胆すぎる。他人と関わるのが下手な二人の少し歪な関係は、まだ始まったばかり。


――
―――
初期の頃のトワモモ。
まだちゃんと向き合えていた頃の二人。

「いた……」
 朝起きたら、右耳がじんじんと痛んでいた。それが慣れないピアスのせいであることは明白で、奏夜は煩わしげに頭をかいた。
 耳を触ると、ピアスホールの近くにしこりが出来てしまっているのが分かる。鏡で見て確認すれば、耳たぶの裏側が内出血みたいになっていた。顔をしかめて、ため息をつく。
 今までピアスと縁がなかった奏夜には、対処法が検討もつかない。ピアスを外して治療をしたくても、自称神の謎の力によって強制的に取り付けられたそれは、彼女の意思で外すことは出来なかった。
「ソウヤ? どうしたんだ」
「ルーか」
 ぴょん、と奏夜の前に躍り出たのは灰色の子うさぎ。人語を喋るこの小動物にもだいぶ慣れ、今や日常の一部と化してきていた。
 奏夜は自然な手つきで子うさぎの頭に手を伸ばし、その艶やかな毛並みを堪能する。頬から顎の下までをもふもふと撫で回し、されるがままの彼は恍惚そうに目を細めた。
「ピアスのせいで耳が痛いんだけどさ、どうしたもんかなと思って」
「ふぅん、ちょっと見せてみろ」
 言うが早いか、ルーは器用に腕を伝って奏夜の肩に登り、耳を観察し始める。
 ふんふんという鼻息が至近距離で耳に当たるのがくすぐったい。我慢できずに顔を逸らしたら、「動くな」ともふもふの前足で首をペちりと叩かれた。
 じっとしていなければいけないのは理解している。でも、くすぐったさは奏夜の意思でどうにかなるものではなかった。
 もう少しの辛抱だ、と歯を食いしばってなんとか耐える。
「確かに炎症起こしてるな」
「っ、やっぱり。このまま治癒魔法かけてみても平気かな」
 耳元での囁き声に驚き、少し言葉を詰まらせる。過剰に反応してしまった自分を恥じて、奏夜は誤魔化すように目を泳がせ、耳を触った。
「やめとけやめとけ。おまえ、まだ魔力のコントロールど下手だろ。必要以上に治癒したらピアス埋まるぞ」
「うわこわ……」
「俺が治してやろうか?」
 こてんと愛らしく首を傾げて、顔を覗き込んでくる灰色の毛玉。
 治すって……子うさぎの姿をした彼にそんなことが可能なのだろうか、と奏夜は一瞬思い悩んで、でも彼になら可能なのかもしれない、とすぐに結論づける。
 ただの子うさぎだと本人は言うが、そのくせただの子うさぎには出来ないことを、いつでも当然のようにやってのける。隠し事があるのは明らかだった。
 世の中には知らなくていい事が山ほどあるが、何度も助けてくれる子うさぎの正体はそうではないといいな、と奏夜は以前から思っていた。
(いつかは正体を明かしてくれるのかな)
 宝石みたいな薄紫色の瞳をじっと見つめる。ただの愛らしい子うさぎの姿に、懐かしいはずの誰かの面影が揺らいで、数秒。
「ソウヤ? おーい」
 ルーの言葉にハッとして、かぶりを振る。
「えっと……それって、痛くない方法?」
「痛くない痛くない」
 だから任せておけ、と子うさぎは自信ありげに胸を叩く。可愛らしい仕草に少し和んだ。


 どうやら、治すにはただ治癒魔法をかけるだけではだめらしい。下手に治癒魔法をかけたら悪化させてしまう、とかなんとか。
 本当かなぁと半信半疑なまま、奏夜は言われたとおりに椅子へ腰掛けた。
「これでよし、と」
「え? え、ちょっと待って。なんで目隠しが必要なわけ?」
「そこが一番大事。痛いことはしないから安心しろって」
 目隠しが必要だなんて、聞いていない。
 急に怖くなってきて、こんな事までしなければいけないのなら、治療しなくてもいいかなと思い始めてきた。日常生活に支障があるってほどの痛みでもないわけだし。
 しかしそんな奏夜の思いとは裏腹に、治療する準備はすぐに整ってしまい、焦る。
「あ、あの、やっぱり治療しなくても――ぅわッ!?」
 生暖かく湿った柔らかいものが耳のふちを掠めて、思わず変な声が出た。じわじわと羞恥心が首をもたげ、顔に熱が集まるのが分かる。
(今の、何!?)
「治療なんだから、変な反応すんなよ」
 声の近さに全身が粟立って、強張る。いつもよりも低い声がダイレクトに鼓膜を震わせ、体の奥のほうまで響いているような気がして、心臓が早鐘を打った。
 そして言葉の意味を遅れて理解し、さらに羞恥に苛まれた。これは治療だと必死に自分へと言い聞かせて、平静を保とうと試みる。
(これは治療、これは治療、これは治療……って、やっぱり恥ずかしいんだけど!)
 視界が真っ暗なせいで、他の感覚が余計に研ぎ澄まされてしまう。ちょっとした衣擦れの音さえ、異様に気になってしまうほどだった。
「せ、せめて目隠しだけでも取っていい?」
「絶対だめだ。今取ったら大変なことになる」
 大変なことって何? と尋ねるが、しっかりスルーされた。
 むっとした奏夜は、ルーの言葉を無視して目隠しを取ろうと手を伸ばす。
 突如、ふっと耳に息を吹きかけられて、ビクンと体が硬直した。その隙を逃すような相手ではない。手際よく椅子の後ろに腕を回され、奏夜は拘束されてしまった。
「だめだって言ったろ。わるい子だな」
「やめて……僕に乱暴する気でしょう? エロ同人みたいに!」
「しねーよ。治療だっつってんだろ!」
 容赦なくスパンと頭を叩かれる。恥ずかしさを紛らわせるためのネタ台詞だったのだが、真面目に返されてしまえばスベったも同義である。恥の上塗りにしかならない。 
 ようやく抵抗が無意味だと悟り、腹をくくって身を任せる。
 そもそも、こうなっているのは今も鈍く痛み続ける耳の治療のため。いくら恥ずかしいからといって、暴れ続けるのはあまりに往生際が悪いというもの。
「ごめん、ちゃんと我慢するから続けて」
「おう。じゃ、再開するぞ」
 |躊躇《ためら》いがちに、そっと気配が近づく。
 感覚が敏感になっている今は、短く息を吸う音でも肩を揺らしてしまう。
 湿った柔らかいもの――舌先がゆっくりと耳朶を這う。もどかしさで声が出そうになり、唇を噛んだ。
「ッ……! ッ、ん。はぁ」
 なんとか変な声が出ないよう堪えるが、結局吐息が漏れてしまって恥ずかしい思いをした。どくんどくんと心臓の音がうるさい。
 与えられる刺激から逃れようとして、意図せずとも顔が反対側に傾いていく。
「こーら、ソウヤ」
 がし、と頭と頬を大きな手に掴まれて引き戻される。
 |蕩《とろ》けかけた頭では、その違和感には気づけなかった。
「あっ、ごめ……は、んッ。こ、これ、ほんとにち、りょ……?」
「治療だって。おまえ、そうとう耳弱いんだなぁ」
 改めてはっきり言葉にされて、体がかあっと燃え上がるような感覚を覚えた。
 自分の口から漏れてしまう吐息も、声も、全部が恥ずかしい。耳に与えられ続ける刺激を心地よく感じ始めていることも信じられなかった。
 ピアスごと耳朶を食まれ、唾液をたっぷり絡めて|舐《ねぶ》られる。ちゅ、ちゅう、と吸い上げる音に混じる水音が、恥ずかしさに拍車をかけていた。
(こ、これは、治療。……治療)
 念仏のように心の中で治療と治療と唱え続ける。さらに素数を数えて落ち着こうとして、早々に分からなくなって断念した。
「ン、ふ……ぅん、んっ」
「なぁ。声、我慢出来ねーの?」
「ッ! 我慢、してるだろうが!」
 キレ気味の奏夜に、ルーは「ああそう」とそっけない呆れ声を返し、治療に戻る。囁くようなその声にさえ、奏夜の体は敏感に反応してしまっていた。
 顔も耳も、首元までも真っ赤に染めて、びく、びく、と打ち震えるさまはどうしようもなく劣情と嗜虐心を煽る。自分がそんな風になっているとは思いもしない奏夜は、鼻に抜ける声と吐息を必死で我慢しようとして、何度も失敗していた。
 内腿に力が入る。どんどん変な気分になっていくのが怖くて、信じられなくて、たまらなく恥ずかしい。
「る、ルー、ぁ、もっ……」
「あと少し我慢して。できるな?」
 安心感を与える優しい声色で囁かれ、息が詰まる。甘い響きに、脳が蕩けていく。
(あれ……? ルーのこえ、ってこんな、だっけ……)
 いつもと同じような、でも違うような。思えば目隠しされたあたりから、いつもと違ったような気もして。
 しかしそんなことをのんびり考えている余裕など今はあるはずもなく、ただ、ずるずると心地よさに流されていく。奏夜は思考を放棄した。
 耳から首筋を舐る舌も、頬に添えられた手の熱も、ゆるゆると頭を撫でる大きな手のひらも、何かがおかしいはずなのに、今はもう、なにもかもがどうでも良かった。

「はい終わり!」
「あ……」
 終わりは突然だった。
 余韻も残さず、パッと気配が離れたかと思えば、するりと目隠しと腕の拘束が外される。眩さに目がチカチカした。
 呆然とする奏夜。椅子の背もたれから肩に飛び乗ってきた子うさぎが、奏夜の赤らんだ頬にすりすりと頭を擦り付ける。
「大丈夫か?」
「う、うん」
 そろりと耳たぶに手を当てる。さっきまであったしこりは消え、すっかり痛みもなくなっていた。あれだけ舐られていたはずなのに、その痕跡はどこにもなくて、まるで何もなかったみたいにいつも通り。
 ルーの態度もいつもと変わらない。
 先ほどまでの出来事を、熱を、引きずってしまっているのは自分だけ。そう考えると無性に恥ずかしいし、馬鹿馬鹿しくなってくる。
(あれは治療だったんだから、こんなに気にしてる方がおかしいのかも……)
 鮮明に刻み付けられた熱を頭の片隅に追いやって、深呼吸を何度か繰り返す。しばらくそうして、ひとまずいつも通りに過ごせそうなくらいには回復してきた。
 与えられた刺激で敏感になった感覚はいまだ戻らず、完全に元通りというわけではないが、気持ちを切り替えることには成功していた。
 ふわふわした毛が首元で動くのがくすぐったくなってきて、子うさぎをそっと膝に下ろせば、彼は頭を手に擦りつけてじゃれてくる。その懸命な様子に、奏夜は思わず笑みをこぼした。
「んふふ、くすぐったい」
「……るかった」
「ん?」
「いや、なんでもねえ。それより腹へった、飯にしようぜ」
 膝の上からぼてっと飛び降り、さっさと部屋を出ていってしまう。
 ルーがなんて言ったのかは少し気になったが、本人に言うつもりがないなら気にしていても仕方がない。
 すぐに諦めて身支度を整えようと立ち上がった時、部屋の扉が力強く叩かれた。こんな風にノックをする人には心当たりがあった。
 奏夜が入室を許可すると、ばん! と大きな音を立てて扉が開け放たれた。
「ソウヤ様! おはようございます! 朝のご挨拶に伺いましたら、ソウヤ様のお部屋の前をうろちょろしている不届きな小動物を捕らえました。丸々と太っておりますので、食べごろかと!」
 嬉々としてルーの首根っこを掴んだルーシィが、とてもいい笑顔でやってきた。
(ルーシィ、ルーのこと食べる気だったんだ……これも食物連鎖か……)
 でも確かに普通の子うさぎよりはぷくぷくしてて食い出がありそう……とまで考えて、いやいやと奏夜は首を振った。冷静に考えて、喋るうさぎを食べるなんて無理。
「おはよ、ルーシィ。ルーは食用じゃないからな」
「そうだぞ! 図体だけの火吹きトカゲがよー! 早く離せ!」
「なんだと!? 貴様、真紅龍である私を愚弄する気か!? ソウヤ様、この薄汚い鼠を始末する許可を!」
 まあまあ、とルーシィを宥めながら、絞め殺されそうな子うさぎを救出する。どうやらこの哀れな小動物は、部屋を出てすぐに捕まってしまったらしい。
 種族を超えて対等に言い合いをするふたりを眺めて、奏夜は呆れながらもホッとしていた。騒がしいくらいが今はちょうどよかった。
 ルーシィが朝食を用意してくれていたので、部屋で食べる流れになった。
 安心したことによって空腹を感じ始めていた奏夜にとって、ありがたい申し出だった。本当に気が利いて役に立つ、出来の良い使い魔である。暴走しがちなところを除けば。
 白パンと目玉焼きとトマトスープに、果物。シンプルな食事は寝起きの胃にも優しい。
 美味しそうな匂いにつられて鍋を覗きこんだルーが、はずみで水の入ったコップを蹴った。あっと思った時にはすでに遅く、テーブルのそばで屈んでいた奏夜めがけて水が降り注いだあとだった。しまいには、コップが頭にコツンと落下する。
「つめた! いてっ」
「ソウヤ様!? そ、早急にタオルと替えのお召し物を用意致します! 鼠畜生、貴様は丸焼きにしてやるからそこで大人しくしていろ!」
 ルーシィの獰猛な光を宿す瞳に睨み付けられたルーは、バツが悪そうに顔を逸らした。一応悪いことをした自覚はあるようだった。
 何が起こったのかいまいち把握しきれていない奏夜は、されるがままに仕切りの奥へ連れて行かれ、あれよあれよと服を脱がされそうになる。
「待って待って、服は魔法で乾かせるから! 大丈夫だから!」
「では私の炎で!」
「いやそれはあまりにも火力が強すぎるな!?」
 暴走状態のルーシィをなんとかなだめて、黒焦げになることだけは回避する。その代わりに、タオルで頭を拭く役割を任せることにはなってしまったが。
 自分で出来ることを、わざわざ他人にやってもらうのはなんだかソワソワして落ち着かない。貴族とかには向いてないなと奏夜は思った。
 手持ち無沙汰なまま髪が乾くのを待っていると、ルーシィが何かに気付いたような声をあげた。
「ソウヤ様、首の後ろの痣はどうなさったのですか?」
「あざ?」
「ええ。痣というか、鬱血した痕のような……」
 鬱血した痕。そんなものが首の後ろに出来る心当たりなんてない。
(いや、待って……)
 よくよく思い返してみると、一度は封印したついさっきの記憶の中、“治療”の最後あたりで首のほうまで口付けられていたような気がしてくる。生暖かく柔らかいものが、ぬるりと首筋を這う感触までまざまざと思い出してしまい、ぞくりと肌が粟立った。
 思考を放棄していたあの時は何も思わなかったけど、今思えば、耳の治療で首筋まで口付ける必要性は全くない。
(それじゃあ、首の鬱血痕って、もしかして……)
 ただのキスマーク、ってことなんじゃ――とそこまで考えついて、そんなものをつけられた恥ずかしさとそんなものを見られてしまった恥ずかしさとで顔から火が出そうな奏夜は、しばらく頭を抱えて悶えることになってしまったのだった。
 
 キスマークという未知への衝撃が大きすぎて、奏夜はそこに潜む違和感にまでは辿り着けなかった。
 うさぎの姿で一体どうやって鬱血痕なんて残せるというのだろう。
 気付いてほしいけれど気付いてほしくない、そんな二律背反な男の感情が、あの痕に込められていただなんて、奏夜は知る由もなかった。


――
―――
耳が弱すぎる奏夜と、自我を出し始める子うさぎ(堕天使)
もっとイチャイチャさせたいのですけれどね……。


##地精霊の祝福
 探し物はここにあるのに、別の場所ばかりを探しているような気がしていた。
 
 ──消滅。それは守護精霊にとって当然の摂理であり、定められた結末。一個体が足掻いたところで、それを覆すことなど出来るはずがない。そのはずだった。
 しかし何の因果か、ワタシは辿り着いてしまった。
 ワタシという個が存在し続けられる方法に。風とは違う。記憶を引き継ぐようなやり方ではなく、ワタシがワタシであり続けることが可能なやり方で。
 世界を廻す歯車にすぎない矮小な存在が、運命を変えることは神々に叛く行為に他ならない。ワタシが成したのは、そういう事象だった。
 それを承知で、自分勝手な|願《ネガイ》に手を伸ばした。
 己が国を他の地精霊に託すのではなく、ワタシ自身が見守り続けてゆきたいという願。それは消滅の恐怖からの逃避でもあった。
 かつてノーム守護国は滅亡の危機に陥った。現在は持ち直したものの、一度思い知った消滅の恐怖は今なお心を蝕む。それは守護精霊としてあるまじき不要な感情。
 あの時からワタシに守護精霊たる資格はすでになく、ただその座に醜くしがみつくだけの愚かな存在へと成り下がっていたのだろう。
 土の棺に横たわる|自分《圏》の姿を見下ろす。泥人形のように生気のない顔、ひび割れ崩れかけた手足。祝福を授ける側とは到底思えない有様を見て、嘲笑気味に唇を歪ませた。
「おーいノーム。あたしが会いにきてやったぞ!」
『……そのような気軽さで聖域に入ってくるのは、アナタくらいなものですよ』
「褒め言葉として受け取っておこうかね」
 大声を上げながら訪ねてきたのは、我が国の指導者であるノーム騎士団の女団長。恐れも礼儀も知らぬ、大胆不敵な人族の女性だ。人族の少ないこの国で、持ち前の胆力と豪運を遺憾無く発揮しのし上がった傑物。
 そして聖域にずかずかと入り込み、ワタシの本体を見つけ出した唯一の存在でもある。
 生命力に満ちた彼女には、この墓場じみた地下洞窟の陰鬱さは似つかわしくなくて、思わず目を細めた。
「守護精霊サマは、今日もジメジメしてんなぁ。ちゃあんと外に出て日に当たっているのか?」
『日の光など、ノームであるワタシには不要なのですがねぇ』
「そういう屁理屈は今求めてないんだわ」
 彼女はやれやれと首を振る。これだから陰気な奴は、などとぶつぶつ文句を垂れて、ぞんざいな仕草で地べたに座り込む。
 守護精霊相手でも、清々しいほどに対等な態度が好ましい。ワタシのことを視える者とは過去に何人か出会ったが、こんな人物は初めてだった。
「よぉし、ノーム。あたしがその根性を叩き直してやろう!」
『必要ありません。待ちなさい、なんですその笑みは!』
 腕まくりをしてやる気満々といった様子の彼女を見て、思わず顔が引き攣った。

 ワタシの国──彼女らの命の煌めきは、暗闇に目が慣れすぎたワタシでは直視できないほど強く、眩い。
 それらの輝きが最期を迎える時まで、ずっと見守り続けてゆこう。変わることのない祈りの言葉と、ともに。


##炎精霊の祝福 弐
 振り返ることはできなかった。
 大好きだったあのひとのチカラが、うずくまるオレへと流れ込んでくるのを感じて、振り払うように首を振った。
 憧れだったけど、目標だったけど、大切なひとを犠牲にしなければいけないのなら、手を伸ばしたりはしなかった。
 守護精霊の寿命は四百年近くあるはずなのに、二百年あまりで役目を終えるなんて、あまりに早すぎる。かの地精霊は五百年以上も存在し続けているというのに、どうして。
『泣くでない、坊。誇り高きサラマンダーの名を継ぐ者が、そうメソメソするな』
 背後にいたはずの彼が急に目の前へ現れ、かぱっと威嚇するように口を広げた。魔力のほとんどを失って消えかけている姿が、ぼやけた視界に映った。
 あんなに大きい存在だったのに、今はこんなにも弱々しく、小さい。
 込み上げる嗚咽を抑えきれず、泣くなと言われたばかりなのに自然と涙が溢れ出す。手のひらに爪を立て、歯を食いしばり、力の限り拳を握った。
「オレは、オレはこんなのを望んでたわけじゃないッス。なんで……ッ」
『随分前から予兆はあったのだ。坊の選択如何の問題ではない』
 反論を許さない調子で無情に告げられる。その声はどこまでも落ち着いていて、往生際悪く喚き散らすオレを咎めているようだった。
 頭ではすでに分かっている。たとえオレが手を伸ばさなくとも、別の誰かがその器に選ばれていたことを。
 彼が遠からず消滅する事実に変わりはないし、未熟なオレに出来ることなど何もない。
 無力さで俯いた拍子に、ぺたりと小さな前足がオレの鼻に触れた。鋭い熱さを感じ、反射的に顔を上げる。
 視界に映る火蜥蜴の姿。息を飲んだ。もう尻尾の先が完全に消え失せていた。
 驚くオレの声を遮って、彼は話し出す。
『儂はこの国が好きだ。賢人も愚人も、動植物も皆等しく愛おしい。まあ、炎を冠するせいか、少しばかり血気盛んなものが多いがな』
 そう言い、爬虫類の姿で器用に喉を鳴らした。
 ああ、後ろ足まで消えてきている。何か言いたかったのに、喉が詰まって声が出ない。もどかしさに唇を噛んだ。
 そんなオレをジッと見上げ、火蜥蜴はゆっくり瞬きをした。
『……次代の〝サラマンダー〟よ。この代替わりが、我が国に安寧を齎すものになることを祈っておる。あとは、頼んだぞ』
 その言葉を最後に、彼の体がぼうと燃え上がる。オレは呆然と座り込んだまま。
 うねるように勢いを増す業火の中から、よく見なれた褐色の腕が伸びてきて、オレの頭を乱暴に撫で回す。大きくて豪快な、慣れ親しんだ温もりに鼻の奥がツンとした。
 名残惜しそうに頭を離れた手が、昔みたいに額を小突き、再び炎に飲み込まれていく。
「首長……!」
 思わず伸ばした手は届かず、空を切った。炎はさらに勢いを増し、火の粉が舞う。
 オレは乱暴に目を擦り、先代の最期の勇姿を焼きつけるために、瞬きも忘れて見つめ続けた。
 
 オレを選び、託してくれた先代の為に、彼が愛したこの国を守護していく覚悟を。
 いつかこの国を愛せるように、オレの国だと胸を張って言えるようにと、願って。

──
───
守護精霊たちによる掌編の第二弾。今回は地精霊と新たな炎精霊のお話。
最年長のノームと最年少のサラマンダーでした。



 さっき置いたばかりのスマホを、また手に取った。
 トーク画面を開いて、数時間前に送信したメッセージを眺めてはため息をつく。既読はついているのに、返信がこない。
 反応に困る内容だっただろうか。文面とにらめっこしてみても、自分では何が問題なのか分からなかった。
 もう一度メッセージを送ってみようか、いやいや、しつこい女だと思われるのは嫌だ。葛藤しながら、アプリを閉じた。
 イヤホンから彼が好きだと言っていた曲が流れてきて、二人過ごした思い出がよみがえる。車を走らせながら取り留めもない話をした帰り道、眠い目を擦りながら語らった深夜。つい流されてしまった夜のことも。
 きらきらと光を反射する真っ黒な瞳と、柔らかく落ち着いた声。年相応な笑顔。今でもはっきりと脳裏に浮かんでしまうから、深呼吸をひとつして、曲を変えた。
「恋、ではない」
 自分に言い聞かせるように呟く。
 そう、これは恋じゃない。ただ急激に距離が近づいて絆されてしまったから、ばかなわたしの脳みそが勘違いしているだけ。それだけ。
 そもそも向こうにそんな気はなくて、欲を埋めるためだけの馴れ合いだっただろうし、わたし一人が盛り上がるのはお門違いなわけで。
「……あぁ、もう」
 ぐしゃぐしゃと髪をかき乱して頭を抱えた。
 初めての感情に振り回されるのは、もううんざり。自分が自分じゃなくなってしまったみたいで心がざわつく。
 会わなくなったらましになるかと思ったのに、全然そんなことはなかった。
 本当にわたしはばかだ。何度自分に言い訳してみても、確かな予感が強まっていくというのに。まだ、認める勇気がない。
 ソファの上で体育座りをして、膝に頬を押し当てた。
 『純粋すぎて危なっかしいから、少し痛い目を見た方がいいと思う』と以前彼に言われたことを思い出す。
 わたしより年下なのに大人びていて、やけに説得力のある言葉だった。
 その通りに、今わたしは痛い目をみている。他人から見れば大した事ではないかもしれないけれど、わたしにとっては痛い目に他ならない。
 絆されて流されて、なあなあに関係を続けた罰。友だちとしての距離感でいられたら、こうはならなかっただろうか。
 
 不意にピロン、と通知の音。
 反射的にスマホを手に取って、画面を確かめる。表示されている名前を見た途端、ドクンと心臓が跳ねた。自然と口元が緩む。
 たったこれだけの事で浮き足立ってしまう自分に気付いて、顔をしかめた。

 こんな感情、知りたくなかったなぁ。


──
───
恋心を認めたくない人の話でした。
負けた気がするからね……



※この物語はフィクションです。

 学校に行ったら、上履きにイタズラされていることはざらだった。
 虫や画びょうが入れられているくらいならまだマシなほう。悪い時には隠されたり、油性ペンで落書きされてたりもする。探すのも洗うのも手間だからほどほどにして欲しい。
 教室に向かう途中の廊下では足を引っかけられ、階段でもわざとぶつかられる。でも、それらは僕が転んで嗤われる程度で済むから楽だった。
 気配を消して教室に入り、落書きで悲惨なことになっている自分の机に足を運ぶ。
 黒や赤の油性ペンでデカデカと書かれた『バカ』『死ね』『学校来んな』『気持ち悪いんだよ』など数々の暴言と、小学校低学年みたいな下品な絵。
 この落書き、いつからあるやつだっけ。
 担任はいい加減気付いているだろうに、何もしようとはしない。見て見ぬふりだ。せめて机を取り替えるくらいはしてくれてもいいと思う。
 椅子の上、机の中に画びょうやカッターの刃がないことを確認して席に着けば、後ろから何度も椅子を蹴られた。何が楽しいのか、ゲラゲラと笑う声。
 僕は無心でやり過ごす。
 しばらくしてチャイムが鳴り、生え際が後退を始めている担任が入ってきた。
 僕の席を一瞥し、出席してることに安堵してからはわざとらしい程こちらを見なくなる。授業の時でさえ、僕のことはほとんどいないみたいに扱う人だった。
 何がなんでもいじめの相談を受けたくないんだろうな。もとからするつもりもないけど。

 この教室内に、僕の味方は誰一人いなかった。ただの一人も。
 それでも僕は、何も気にならなかった。
 いや、厳密には違う。ものをダメにされたら怒りを覚えるし、暗いところに閉じ込められるのは怖いし、殴られれば痛い。暴言を吐かれたり、無視されたりするのも嫌な気持ちになる。
 だけど、それだけ。ご飯を食べてゲームして寝てしまえば、たいていの事はただの過去になる。
 どうして僕がこんな目に、と苛立ちを覚えることはあっても、精神を病んだりとか死にたいだとか、そんな風に思いつめることはなかった。
 たぶん、僕のそういうところが一段と彼らの気に障るんだろう。僕は|普通じゃない《・・・・・・》らしいから。
 漫画やアニメの中では、いじめられっ子っていうのはもっとこう、弱々しくて大人しくて従順そうな感じだし。
 少なくとも、落書きまみれの机をわざわざ先生たちから隠して授業を受けたりしないだろうし、びしょ濡れのジャージで平然と体育の授業を受けたりもしないし、消しカスやホコリの入れられた給食を黙々と食べたりもしないんだと思う。

 昼休み、校舎裏に呼び出された。大人しく指定の場所に向かえば、不意に後ろから突き飛ばされた。
 間髪入れず、別の生徒にお腹を蹴られて息が詰まる。 
 罵声を浴びせながら、ストレス発散とばかりに何度も暴力を振るうクラスメイトたち。アザになっても目立たないところをいつも重点的に狙われた。
 せっかくの休み時間なんだから、集団でリンチするより別のことをすればいいのにと考えながら耐え抜く。
 昼休みも終わる頃、ようやく解放されるのがお決まりのパターンだった。
 突き飛ばされた時に運悪く捻ったらしい右足をかばいながら教室のある二階まで戻り、予鈴までトイレで過ごす。
 個室でやっと一息ついていたら、女子たちの甲高い笑い声と共に、頭上から物凄い量の水が降り注いだ。
 毎度毎度、よく飽きもせずにいじめる準備をするもんだなぁといっそ感心してしまう。
「あははっ、やめてあげなよぉ。カワイソーじゃん」
「さすがに泣いちゃうんじゃなーい?」
「え〜? じゃあ|椛《もみじ》ぃ、優しいアタシが拭いたげるから出てきなよ~」
「やっだ、あんたそれ雑巾じゃん! きゃはは!」
 ひとしきり騒いだクラスメイトたちは、僕の反応が芳しくないことに激高し、悪態をついてトイレを出ていった。
 ポケットに入れていたハンカチで顔や髪を拭い、水びたしになった床をモップで綺麗にする。
 捻った右足がズキズキと痛んだ。

 今日は水難の日だった。
 下校する時にはホースから出た水が直撃したし、そのあとには校門近くの水たまりに突き飛ばされもした。
 夕立に降られたみたいに全身びしょ濡れなうえ、下半身やリュックは泥まみれ。「ドブネズミみたい」と嗤われた。
 こんな姿を桜に見られて面倒事になる前に、そそくさと逃げ帰る。
 冷たい風が吹きつけて、ぶるりと身震いをした。
「奏夜! 今日も派手にやられてんな~」
「|音依路《ねいろ》伯父さん」
「おう。今日もうち寄ってくだろ?」
「……うん」
 人気の少ない小道に入ったところで、伯父が待っていた。僕を心配して迎えにきてくれたのかもしれない。
 彼は僕がいじめられていることを知っている唯一の味方。両親や桜にバレないよう協力もしてくれている。汚されたジャージや制服を洗濯をさせてくれたり、破かれた教科書代を代わりに支払ってくれたり……とにかくものすごくお世話になっていた。
 僕は僕に出来る限りの対価として、伯父の家の家事全般を手伝わせてもらっている。
「とりあえず、ほら。そんままじゃ風邪引くからこれ着とけ」
「うん」
「帰ったら洗濯だなぁ。あ、俺は出来ねーからおまえ自分でやれよ?」
「うん。音依路さんの洗濯物もついでに洗うよ」
 助かる、と言って伯父は笑った。

 伯父の家で服を着替えて、一通りの家事を済ませる。
 そして新作のゲームで遊ばせてもらう頃には、今日受けた仕打ちなんてどうでも良くなっていた。
 殴られたところも捻った足首もまだ痛いけど、耐えられないほどではない。湿布も貼ったし。
 そんな話を伯父にすると「おまえは強い子だなぁ」と頭を撫でられた。
「……僕が強かったら、そもそもこんなことされてないよ」
「そいつらにはおまえの強さが見えてないんだろ」
「うーん?」
 伯父はたまによく分からないことを言う。ばかな僕にも分かるように噛み砕いて話してほしい。
 首を捻る僕に、伯父はコントローラーを置いて向き合った。真剣な表情をしている。
「でもな、奏夜。おまえは確かに強いけど、それでも人間いつかは限界が来る。そん時は迷わず逃げろ。で、誰かを頼れ」
「うん……」
 改めて言われるまでもなく、僕はもうすでに両親や桜たちから逃げて、音依路さんを頼ってしまっている。そんな僕が強いわけがない。むしろ弱いくらいだ。
 とりあえずで生返事をした僕の頭をわしゃわしゃと撫で回し、「まあ、今はまだ分からなくてもいいか」と呟くと、伯父はあっさりゲームを再開した。
 僕はゲームの内容に気を取られ、今の話をすぐに頭の片隅へと追いやってしまった。

 月日が流れて高校生になっても、いじめが終わることは無かった。
 すぐバレるような派手な行為は減ったけど、より狡猾にズル賢く陥れようとしてくる。
 クラスラインでハブられ、SNSでは無意味に素顔や名前が晒された。
 でも僕は相も変わらず、それら全てがどうでもよくて。そんなことよりも、ソシャゲで推しのイベントをどれだけ走れるかということの方がよっぽど重要だった。
「たしかにこんなのは普通のいじめられっ子、では無いわなぁ」
 スマホでソシャゲのイベントを走りながら、そう自嘲的に独りごちた。



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自分に向けられる悪意や害意への興味をあっさりなくしてしまう奏夜の異常性のお話でした。

これは「強くならなきゃ」と奏夜なりに考えた結果であり、記憶を失う前のソウヤの考え方でもあります。そしてそこに輪をかけてゲームや漫画などで現実逃避をして、自分に起こる出来事を全部他人事のように処理しているから、こんな感じなんですね。

彼女の考える「強さ」とは目立つことなく、いじめられもしない〝凡〟であること。
精神は折れないし、なんでもひとりで解決してしまうスーパーヒーローみたいな力を「強さ」だと思ってるので、一生そんな強さを手に入れることはないんですよね……。