「いた……」
朝起きたら、右耳がじんじんと痛んでいた。それが慣れないピアスのせいであることは明白で、奏夜は煩わしげに頭をかいた。
耳を触ると、ピアスホールの近くにしこりが出来てしまっているのが分かる。鏡で見て確認すれば、耳たぶの裏側が内出血みたいになっていた。顔をしかめて、ため息をつく。
今までピアスと縁がなかった奏夜には、対処法が検討もつかない。ピアスを外して治療をしたくても、自称神の謎の力によって強制的に取り付けられたそれは、彼女の意思で外すことは出来なかった。
「ソウヤ? どうしたんだ」
「ルーか」
ぴょん、と奏夜の前に躍り出たのは灰色の子うさぎ。人語を喋るこの小動物にもだいぶ慣れ、今や日常の一部と化してきていた。
奏夜は自然な手つきで子うさぎの頭に手を伸ばし、その艶やかな毛並みを堪能する。頬から顎の下までをもふもふと撫で回し、されるがままの彼は恍惚そうに目を細めた。
「ピアスのせいで耳が痛いんだけどさ、どうしたもんかなと思って」
「ふぅん、ちょっと見せてみろ」
言うが早いか、ルーは器用に腕を伝って奏夜の肩に登り、耳を観察し始める。
ふんふんという鼻息が至近距離で耳に当たるのがくすぐったい。我慢できずに顔を逸らしたら、「動くな」ともふもふの前足で首をペちりと叩かれた。
じっとしていなければいけないのは理解している。でも、くすぐったさは奏夜の意思でどうにかなるものではなかった。
もう少しの辛抱だ、と歯を食いしばってなんとか耐える。
「確かに炎症起こしてるな」
「っ、やっぱり。このまま治癒魔法かけてみても平気かな」
耳元での囁き声に驚き、少し言葉を詰まらせる。過剰に反応してしまった自分を恥じて、奏夜は誤魔化すように目を泳がせ、耳を触った。
「やめとけやめとけ。おまえ、まだ魔力のコントロールど下手だろ。必要以上に治癒したらピアス埋まるぞ」
「うわこわ……」
「俺が治してやろうか?」
こてんと愛らしく首を傾げて、顔を覗き込んでくる灰色の毛玉。
治すって……子うさぎの姿をした彼にそんなことが可能なのだろうか、と奏夜は一瞬思い悩んで、でも彼になら可能なのかもしれない、とすぐに結論づける。
ただの子うさぎだと本人は言うが、そのくせただの子うさぎには出来ないことを、いつでも当然のようにやってのける。隠し事があるのは明らかだった。
世の中には知らなくていい事が山ほどあるが、何度も助けてくれる子うさぎの正体はそうではないといいな、と奏夜は以前から思っていた。
(いつかは正体を明かしてくれるのかな)
宝石みたいな薄紫色の瞳をじっと見つめる。ただの愛らしい子うさぎの姿に、懐かしいはずの誰かの面影が揺らいで、数秒。
「ソウヤ? おーい」
ルーの言葉にハッとして、かぶりを振る。
「えっと……それって、痛くない方法?」
「痛くない痛くない」
だから任せておけ、と子うさぎは自信ありげに胸を叩く。可愛らしい仕草に少し和んだ。
どうやら、治すにはただ治癒魔法をかけるだけではだめらしい。下手に治癒魔法をかけたら悪化させてしまう、とかなんとか。
本当かなぁと半信半疑なまま、奏夜は言われたとおりに椅子へ腰掛けた。
「これでよし、と」
「え? え、ちょっと待って。なんで目隠しが必要なわけ?」
「そこが一番大事。痛いことはしないから安心しろって」
目隠しが必要だなんて、聞いていない。
急に怖くなってきて、こんな事までしなければいけないのなら、治療しなくてもいいかなと思い始めてきた。日常生活に支障があるってほどの痛みでもないわけだし。
しかしそんな奏夜の思いとは裏腹に、治療する準備はすぐに整ってしまい、焦る。
「あ、あの、やっぱり治療しなくても――ぅわッ!?」
生暖かく湿った柔らかいものが耳のふちを掠めて、思わず変な声が出た。じわじわと羞恥心が首をもたげ、顔に熱が集まるのが分かる。
(今の、何!?)
「治療なんだから、変な反応すんなよ」
声の近さに全身が粟立って、強張る。いつもよりも低い声がダイレクトに鼓膜を震わせ、体の奥のほうまで響いているような気がして、心臓が早鐘を打った。
そして言葉の意味を遅れて理解し、さらに羞恥に苛まれた。これは治療だと必死に自分へと言い聞かせて、平静を保とうと試みる。
(これは治療、これは治療、これは治療……って、やっぱり恥ずかしいんだけど!)
視界が真っ暗なせいで、他の感覚が余計に研ぎ澄まされてしまう。ちょっとした衣擦れの音さえ、異様に気になってしまうほどだった。
「せ、せめて目隠しだけでも取っていい?」
「絶対だめだ。今取ったら大変なことになる」
大変なことって何? と尋ねるが、しっかりスルーされた。
むっとした奏夜は、ルーの言葉を無視して目隠しを取ろうと手を伸ばす。
突如、ふっと耳に息を吹きかけられて、ビクンと体が硬直した。その隙を逃すような相手ではない。手際よく椅子の後ろに腕を回され、奏夜は拘束されてしまった。
「だめだって言ったろ。わるい子だな」
「やめて……僕に乱暴する気でしょう? エロ同人みたいに!」
「しねーよ。治療だっつってんだろ!」
容赦なくスパンと頭を叩かれる。恥ずかしさを紛らわせるためのネタ台詞だったのだが、真面目に返されてしまえばスベったも同義である。恥の上塗りにしかならない。
ようやく抵抗が無意味だと悟り、腹をくくって身を任せる。
そもそも、こうなっているのは今も鈍く痛み続ける耳の治療のため。いくら恥ずかしいからといって、暴れ続けるのはあまりに往生際が悪いというもの。
「ごめん、ちゃんと我慢するから続けて」
「おう。じゃ、再開するぞ」
|躊躇《ためら》いがちに、そっと気配が近づく。
感覚が敏感になっている今は、短く息を吸う音でも肩を揺らしてしまう。
湿った柔らかいもの――舌先がゆっくりと耳朶を這う。もどかしさで声が出そうになり、唇を噛んだ。
「ッ……! ッ、ん。はぁ」
なんとか変な声が出ないよう堪えるが、結局吐息が漏れてしまって恥ずかしい思いをした。どくんどくんと心臓の音がうるさい。
与えられる刺激から逃れようとして、意図せずとも顔が反対側に傾いていく。
「こーら、ソウヤ」
がし、と頭と頬を大きな手に掴まれて引き戻される。
|蕩《とろ》けかけた頭では、その違和感には気づけなかった。
「あっ、ごめ……は、んッ。こ、これ、ほんとにち、りょ……?」
「治療だって。おまえ、そうとう耳弱いんだなぁ」
改めてはっきり言葉にされて、体がかあっと燃え上がるような感覚を覚えた。
自分の口から漏れてしまう吐息も、声も、全部が恥ずかしい。耳に与えられ続ける刺激を心地よく感じ始めていることも信じられなかった。
ピアスごと耳朶を食まれ、唾液をたっぷり絡めて|舐《ねぶ》られる。ちゅ、ちゅう、と吸い上げる音に混じる水音が、恥ずかしさに拍車をかけていた。
(こ、これは、治療。……治療)
念仏のように心の中で治療と治療と唱え続ける。さらに素数を数えて落ち着こうとして、早々に分からなくなって断念した。
「ン、ふ……ぅん、んっ」
「なぁ。声、我慢出来ねーの?」
「ッ! 我慢、してるだろうが!」
キレ気味の奏夜に、ルーは「ああそう」とそっけない呆れ声を返し、治療に戻る。囁くようなその声にさえ、奏夜の体は敏感に反応してしまっていた。
顔も耳も、首元までも真っ赤に染めて、びく、びく、と打ち震えるさまはどうしようもなく劣情と嗜虐心を煽る。自分がそんな風になっているとは思いもしない奏夜は、鼻に抜ける声と吐息を必死で我慢しようとして、何度も失敗していた。
内腿に力が入る。どんどん変な気分になっていくのが怖くて、信じられなくて、たまらなく恥ずかしい。
「る、ルー、ぁ、もっ……」
「あと少し我慢して。できるな?」
安心感を与える優しい声色で囁かれ、息が詰まる。甘い響きに、脳が蕩けていく。
(あれ……? ルーのこえ、ってこんな、だっけ……)
いつもと同じような、でも違うような。思えば目隠しされたあたりから、いつもと違ったような気もして。
しかしそんなことをのんびり考えている余裕など今はあるはずもなく、ただ、ずるずると心地よさに流されていく。奏夜は思考を放棄した。
耳から首筋を舐る舌も、頬に添えられた手の熱も、ゆるゆると頭を撫でる大きな手のひらも、何かがおかしいはずなのに、今はもう、なにもかもがどうでも良かった。
「はい終わり!」
「あ……」
終わりは突然だった。
余韻も残さず、パッと気配が離れたかと思えば、するりと目隠しと腕の拘束が外される。眩さに目がチカチカした。
呆然とする奏夜。椅子の背もたれから肩に飛び乗ってきた子うさぎが、奏夜の赤らんだ頬にすりすりと頭を擦り付ける。
「大丈夫か?」
「う、うん」
そろりと耳たぶに手を当てる。さっきまであったしこりは消え、すっかり痛みもなくなっていた。あれだけ舐られていたはずなのに、その痕跡はどこにもなくて、まるで何もなかったみたいにいつも通り。
ルーの態度もいつもと変わらない。
先ほどまでの出来事を、熱を、引きずってしまっているのは自分だけ。そう考えると無性に恥ずかしいし、馬鹿馬鹿しくなってくる。
(あれは治療だったんだから、こんなに気にしてる方がおかしいのかも……)
鮮明に刻み付けられた熱を頭の片隅に追いやって、深呼吸を何度か繰り返す。しばらくそうして、ひとまずいつも通りに過ごせそうなくらいには回復してきた。
与えられた刺激で敏感になった感覚はいまだ戻らず、完全に元通りというわけではないが、気持ちを切り替えることには成功していた。
ふわふわした毛が首元で動くのがくすぐったくなってきて、子うさぎをそっと膝に下ろせば、彼は頭を手に擦りつけてじゃれてくる。その懸命な様子に、奏夜は思わず笑みをこぼした。
「んふふ、くすぐったい」
「……るかった」
「ん?」
「いや、なんでもねえ。それより腹へった、飯にしようぜ」
膝の上からぼてっと飛び降り、さっさと部屋を出ていってしまう。
ルーがなんて言ったのかは少し気になったが、本人に言うつもりがないなら気にしていても仕方がない。
すぐに諦めて身支度を整えようと立ち上がった時、部屋の扉が力強く叩かれた。こんな風にノックをする人には心当たりがあった。
奏夜が入室を許可すると、ばん! と大きな音を立てて扉が開け放たれた。
「ソウヤ様! おはようございます! 朝のご挨拶に伺いましたら、ソウヤ様のお部屋の前をうろちょろしている不届きな小動物を捕らえました。丸々と太っておりますので、食べごろかと!」
嬉々としてルーの首根っこを掴んだルーシィが、とてもいい笑顔でやってきた。
(ルーシィ、ルーのこと食べる気だったんだ……これも食物連鎖か……)
でも確かに普通の子うさぎよりはぷくぷくしてて食い出がありそう……とまで考えて、いやいやと奏夜は首を振った。冷静に考えて、喋るうさぎを食べるなんて無理。
「おはよ、ルーシィ。ルーは食用じゃないからな」
「そうだぞ! 図体だけの火吹きトカゲがよー! 早く離せ!」
「なんだと!? 貴様、真紅龍である私を愚弄する気か!? ソウヤ様、この薄汚い鼠を始末する許可を!」
まあまあ、とルーシィを宥めながら、絞め殺されそうな子うさぎを救出する。どうやらこの哀れな小動物は、部屋を出てすぐに捕まってしまったらしい。
種族を超えて対等に言い合いをするふたりを眺めて、奏夜は呆れながらもホッとしていた。騒がしいくらいが今はちょうどよかった。
ルーシィが朝食を用意してくれていたので、部屋で食べる流れになった。
安心したことによって空腹を感じ始めていた奏夜にとって、ありがたい申し出だった。本当に気が利いて役に立つ、出来の良い使い魔である。暴走しがちなところを除けば。
白パンと目玉焼きとトマトスープに、果物。シンプルな食事は寝起きの胃にも優しい。
美味しそうな匂いにつられて鍋を覗きこんだルーが、はずみで水の入ったコップを蹴った。あっと思った時にはすでに遅く、テーブルのそばで屈んでいた奏夜めがけて水が降り注いだあとだった。しまいには、コップが頭にコツンと落下する。
「つめた! いてっ」
「ソウヤ様!? そ、早急にタオルと替えのお召し物を用意致します! 鼠畜生、貴様は丸焼きにしてやるからそこで大人しくしていろ!」
ルーシィの獰猛な光を宿す瞳に睨み付けられたルーは、バツが悪そうに顔を逸らした。一応悪いことをした自覚はあるようだった。
何が起こったのかいまいち把握しきれていない奏夜は、されるがままに仕切りの奥へ連れて行かれ、あれよあれよと服を脱がされそうになる。
「待って待って、服は魔法で乾かせるから! 大丈夫だから!」
「では私の炎で!」
「いやそれはあまりにも火力が強すぎるな!?」
暴走状態のルーシィをなんとかなだめて、黒焦げになることだけは回避する。その代わりに、タオルで頭を拭く役割を任せることにはなってしまったが。
自分で出来ることを、わざわざ他人にやってもらうのはなんだかソワソワして落ち着かない。貴族とかには向いてないなと奏夜は思った。
手持ち無沙汰なまま髪が乾くのを待っていると、ルーシィが何かに気付いたような声をあげた。
「ソウヤ様、首の後ろの痣はどうなさったのですか?」
「あざ?」
「ええ。痣というか、鬱血した痕のような……」
鬱血した痕。そんなものが首の後ろに出来る心当たりなんてない。
(いや、待って……)
よくよく思い返してみると、一度は封印したついさっきの記憶の中、“治療”の最後あたりで首のほうまで口付けられていたような気がしてくる。生暖かく柔らかいものが、ぬるりと首筋を這う感触までまざまざと思い出してしまい、ぞくりと肌が粟立った。
思考を放棄していたあの時は何も思わなかったけど、今思えば、耳の治療で首筋まで口付ける必要性は全くない。
(それじゃあ、首の鬱血痕って、もしかして……)
ただのキスマーク、ってことなんじゃ――とそこまで考えついて、そんなものをつけられた恥ずかしさとそんなものを見られてしまった恥ずかしさとで顔から火が出そうな奏夜は、しばらく頭を抱えて悶えることになってしまったのだった。
キスマークという未知への衝撃が大きすぎて、奏夜はそこに潜む違和感にまでは辿り着けなかった。
うさぎの姿で一体どうやって鬱血痕なんて残せるというのだろう。
気付いてほしいけれど気付いてほしくない、そんな二律背反な男の感情が、あの痕に込められていただなんて、奏夜は知る由もなかった。
――
―――
耳が弱すぎる奏夜と、自我を出し始める子うさぎ(堕天使)
もっとイチャイチャさせたいのですけれどね……。