2024年になった。この歳になると年越しに特段感慨はなく、事実ジムで過ごしたほどである。
かつてのこのブログがカバーしていたような、内省的な時間がルーティンとして取れないのが課題だ。あと勉強の時間。この時間がボロボロであり、いかに日々の生活に組み込むかが急務である。
コロナ禍ではあるが、1年8ヶ月ぶりに日本を離れて米国のとある島に休暇に来ている。
米国からの観光客が多い。かなり吹っ切れている様子で、子連れだろうが老夫婦だろうがどんなジャンルでも見かける。日本人はわずかしかいない。まあそんなことはどうでも良い。
男女の関係とはむつかしい、というかバランスを逸すると厄介であるということを呟きたい。
異性は根本的に異なり、それこそが互いを惹きつける源であり、同時に争いを生むものであるという立場に立った場合、その異なりが2人の関係にとってトータルで見てプラスにならないと良い関係は構築できないはずである。最初から明らかにプラスに振り切っているように見えても急にマイナスに突入したり、プラスとマイナスを行ったり来たりしているうちにプラスに安定するようなこともある。時間と環境が時間にさらされることで、結果がいかようにも変化する。これこそが結婚という公的イベントがギャンブルと言われる所以ではないか。つまり、変数のコントロール可能性が時間によって変化していくのだ。
いくら試行錯誤を重ねても良い関係が構築できなければ別れることになるし、しかしそのようなさっぱりとした判断は、公式な関係となってしまったときには断行しにくくなるものである。問題は、このような課題をどう取り扱うかである。僕は経営とは異なる目的を持つマネジメントの課題であると思うが、学校でも職場でも、MBAでもどこでも教えてくれない、全人類がさんざん繰り返しているはずなのに、感情が絡んですんなり解決できない問題である。
僕は退屈な関係ならば結婚する必要はないと思っている。かと言って、継続不可能なものを無理矢理決行する必要もない。本当にするべき価値のある結婚とはどんなものなのか、ゼロベースで考えてきた。「この人といると心が落ち着く」だったり、「平和な気持ちになる」というのも、その要素が強すぎると精神の腐敗に繋がるし、一方で毎日のように感情のぶつけ合いをしていても疲弊するだけだ。
僕なりに整理をすると、その関係に充実感と前進感があれば士気を失わずに、脱輪せずに、継続できるのではないかと思う。これらは計測できそうなものではなく、その時その時の感情のスナップショットが形成・醸成されて価値観となる。
人間と人間の距離を近づけると、このような人間関係の課題は濃くなってゆく。かといって薄い関係だけでは人間は充足しない。このチキンレースの中で僕らは生きている。
とても当たり前のことだし、今までもやってきたことではあるが、目先やその先の将来のことを予測してもっと勉強しなくてはいけない。経験することで仕事を覚えるというのは普通なこと。経験する前に準備をしておくことで、他より機会にありつけるし、結果がでる。もっともっと謙虚にならなくてはいけないし、勉強する内容に枯渇してしまったときは停滞のときだ。偉そうになってはいけない。
とてもとても久しぶりに自分の過去の記事をのぞき読んだ。こんなことをやっているのは、とっても順風満帆でない時ということなのだが、辛かったり、逃げ出したかったり、幸せでないというわけではない。ただ、明らかな勝利というものにまだ到達できていない中で、翻弄されているだけだ。緊張感のある仕事を行い、あらゆる方面で責任を背負い込み突きつけられ、これらに立ち向かうしかない日々。このような心境というのも、歳を取ったのだろうとしみじみ思う。
ものすごく簡単な計算をすると、最後の記事から5年経った。時の経過を感じる。5年前も決して暇ではなかったし、今より手を抜いていたわけではないけど、若さゆえの「まだ本番はこれから」的な心のゆとりというか、甘さというか、傲慢さというか、気楽さというか、そういうものが削り取られてきた5年間だったように思う。だから過去の自分の記事を読むと、ぬかるみを感じる。そのぬかるみに戻りたいと感じるわけではない。ただ懐かしく思い、今をもっと逞しく、密度高く、熱く生きるために、参考にしたいと思っているだけだ。
ただ、一つとても残念な実感を述べると、明らかに、僕の個人の人生が持つ時間というバリューがすり減ってきている。30代も終わりに近づき、時間やチャンスが無尽蔵にあるわけではないことに嫌でも自覚的になる。だからこそ真剣勝負であるが、この真剣勝負と向き合うしかないのだということを幼い頃に自覚し、さらにはその時にやるべきもしくはやりたいことに覚醒しているということは、紛れもない才能であったのだと感じる。幼い頃に、野球選手やサッカー選手に憧れ、年が経つとそのことを忘れてしまうが、この年になってまたその時の憧れが、敬意に変換されて戻ってくる。
若い時は、頭の良さや格好の良さ、センスの良さや器用さに嫉妬するものだが、この年になると、愚直さや素直さ、あきらめない心や、通底した深みや優しさなどの人間性に敬意を感じるものだ。僕の価値観が変化してきている。おそらく、長い時間をかけて物事や人間や社会を見ているので、その経験値を総合的に考慮した結論なのだと思う。
とても多忙だし例のパンデミック中ということもあり、あまり日々バリエーションを持たせることができない。毎日ハードに働いて飯食って酒飲んでジム行ってとほぼルーティンになっているが、そのルーティンだと見えない景色がある。感じれない温度がある。嗅げない匂いがある。聞こえない音がある。昔には決して戻れないし、価値観も逆戻りはできない。心を静寂にして、腹を落ち着かせ、頭を空っぽにして、何が僕にとって重要であるのか、そのことを肌身離さないようにしたい。そこそこ頑張って生きていて、なし崩し的に無為に時間が流れてしまうようなワビサビ感で満たされたプールにプカプカ浮きながら人生を生きたくはない。僕はそのようなループの中に、真の喜びがないことを知っている。そして、そのループの中にほとんどの大人が捕われていることも知っている。僕からすると、そこにあるのは、そこそこの充実感と至福感だ。
僕は、グローバルスケールでの圧倒的な達成感や勝利を求めている。それができなければ、僕の人生は負けだったと思うくらいに真剣だ。そのようなことをやる以上、難敵の出現や戦いの連続は避けられない。感性が鈍くなったり忙殺されていたり体力がなくなると、易きに流れがちだ。この文章をもって、絶対にそうはならないという決意としたい。
この半年で色々あったなあ。
人は尺取虫のように成長していくように思う。
ぐっとかがんで縮んで経験を、知見をためる。それか、思い切り伸張して、できる限りの出力をして目の前のオポチュニティを取りに行く。
僕はこの3年間、意識してずっと縮んでやってきた。だが、そろそろ、ぐっと伸ばす時期に来たのかもしれない。
もう「下積み」という段階に甘んじることはできない。役職も変わった。360度、よりプロとしての仕事のクオリティが要求される。
僕の仕事は定型ではない。本当に。上司や先達が答えを知っているわけではないのだ。イノベーションを創出してゆくということはそういうことだ。
僕はまだ多くのニセモノを蹴散らすだけのパワーがない。ニセモノとは少々刺激的な言い方だが、根が深くない表面をさっとさらっただけの小ずる賢い人たちを他に何と呼ぼう?
僕は彼らを退けるために、自分の貴重なエネルギーを費やしはしない。ふざけながらはぐらかして、うまくやっていくのだと思う。時代がさらに本質主義になった時に、その時代の審美眼に応えられるようなことに取り組んでいたいと思う。そしてそのような時代は僕が生きている間に、きっと来る。
内省的な文章は重要だ。僕の深層心理にたどり着く。業務ではそこまでたどり着かなくとも仕事はできてしまうし、疑問に思わず進めてしまいがちだ。自分の中身を吐き出し、今やっていることとフュージョンさせ、今の生き方を濃くしてゆく。
シンプルだ。
負けてはいけない。360度、条件を満たした解はある。
