コロナ禍ではあるが、1年8ヶ月ぶりに日本を離れて米国のとある島に休暇に来ている。
米国からの観光客が多い。かなり吹っ切れている様子で、子連れだろうが老夫婦だろうがどんなジャンルでも見かける。日本人はわずかしかいない。まあそんなことはどうでも良い。
男女の関係とはむつかしい、というかバランスを逸すると厄介であるということを呟きたい。
異性は根本的に異なり、それこそが互いを惹きつける源であり、同時に争いを生むものであるという立場に立った場合、その異なりが2人の関係にとってトータルで見てプラスにならないと良い関係は構築できないはずである。最初から明らかにプラスに振り切っているように見えても急にマイナスに突入したり、プラスとマイナスを行ったり来たりしているうちにプラスに安定するようなこともある。時間と環境が時間にさらされることで、結果がいかようにも変化する。これこそが結婚という公的イベントがギャンブルと言われる所以ではないか。つまり、変数のコントロール可能性が時間によって変化していくのだ。
いくら試行錯誤を重ねても良い関係が構築できなければ別れることになるし、しかしそのようなさっぱりとした判断は、公式な関係となってしまったときには断行しにくくなるものである。問題は、このような課題をどう取り扱うかである。僕は経営とは異なる目的を持つマネジメントの課題であると思うが、学校でも職場でも、MBAでもどこでも教えてくれない、全人類がさんざん繰り返しているはずなのに、感情が絡んですんなり解決できない問題である。
僕は退屈な関係ならば結婚する必要はないと思っている。かと言って、継続不可能なものを無理矢理決行する必要もない。本当にするべき価値のある結婚とはどんなものなのか、ゼロベースで考えてきた。「この人といると心が落ち着く」だったり、「平和な気持ちになる」というのも、その要素が強すぎると精神の腐敗に繋がるし、一方で毎日のように感情のぶつけ合いをしていても疲弊するだけだ。
僕なりに整理をすると、その関係に充実感と前進感があれば士気を失わずに、脱輪せずに、継続できるのではないかと思う。これらは計測できそうなものではなく、その時その時の感情のスナップショットが形成・醸成されて価値観となる。
人間と人間の距離を近づけると、このような人間関係の課題は濃くなってゆく。かといって薄い関係だけでは人間は充足しない。このチキンレースの中で僕らは生きている。