縄文期は争い少なめだった? 暴力死亡率1%台 岡山大教授ら人骨分析

山陽新聞デジタル 3月30日(水)23時40分配信

 縄文人の社会は争いが少なく平穏だった―。岡山大大学院社会文化科学研究科の松本直子教授(認知考古学)、山口大国際総合科学部の中尾央助教(科学哲学)らの研究グループが、全国の縄文遺跡で出土した人骨を調べ、暴力による死亡率を分析。欧米などのデータと比べ5分の1以下の「1%台」と算出し、英国の科学雑誌に30日発表した。

 発掘調査報告書で、出土人骨の状態が確認できる国内242の遺跡から、成人の人骨1275体のデータを収集。13遺跡の23体に何らかの武器で攻撃を受けた痕跡があり、割合は1・8%だった。子どもも含めると0・9%まで下がる。岡山県内では津雲貝塚(笠岡市、国史跡)など5遺跡の113体のうち、船元貝塚(倉敷市)の1体だけ、胸部に石鏃(せきぞく)が刺さっていた。

 欧米やアフリカでは、縄文期と同じ狩猟採集時代の遺跡から大量虐殺を示す人骨が発掘されるなど、暴力での死亡率が十数%を占める研究データがある。テロや紛争が頻発する世相と絡めて、人類学や哲学の分野で「戦争は人間の本能」との考えが広がりつつあるという。

 今回の結果を、松本教授は「縄文期の日本列島は、狩猟採集できる食糧がまんべんなく分布し、人口密度も低いことから集団間の摩擦が少なかった」と分析。さらに「人類が必ずしも暴力的な本能を持ってはいないことも示す。戦争の原因を人の本能に求める風潮に再考を迫る一歩になる」としている。

※これは面白い研究だと思います。

※月刊誌「ニューモラル」(平成28年4月号)より引用。


■無財の七施


”自分は忙しいんだ”


”自分はこうだと思うのに・・・・・”


そんなふうに思い込み、自分のことで

頭をいっぱいにしていると、周囲に気を

配ることはなかなかできないものです。


しかし、人間は「誰ともかかわり合う

ことなく一人で生きる」ということはで

きません。普通に暮らしていても、多く

の人と接するものでしょうし、そもそも

私たちの生活は、直接顔を合わせること

のない人も含めて、さまざまな人の働き

のうえに成り立っています。そこでお互

いに気持ちよく暮らしていくためには、

温かい思いやりの心が不可欠でしょう。


思いやりの心とは、自分自身の心がけ

一つで、いつでも、どこでも、誰にでも

発揮できるものです。


その手がかりとして、『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』と

いう仏教の経典の中に、「無財の七施(むざいのしちせ)」と

いう教えがあります。ここには、財産が

なくても他人に施しを与えることができ

る七つの方法が示されています。


一、眼施(がんせ)

好ましいまなざしをもって他人を見

ること。


二、和顔悦色施(わげんえつじきせ)

にこやかな和らいだ顔を他人に示す

こと。


三、言辞施(ごんじせ)

他人に対して優しい言葉をかけること。


四、身施(しんせ)

他人に対して身をもって尊敬の態度

を示すこと。


五、心施(しんせ)

よい心をもって他人と和し、よいこ

とをしようと努めること。


六、床座施(しょうざせ)

他人のために座席を設けて座らせる

こと。


七、房舎施(ぼうしゃせ)

他人を家に迎え、泊まらせること。


(参考=中村元著『広説佛教語大辞典』東京書籍)


この教えに見るように、思いやりの心

を発揮する方法とは、必ずしも特別なこ

とだけではありません。人は日常のささ

やかな行いによって、周囲に喜びの種を

まいていくことができるのではないで

しょうか。


(引用終)


ニューモラルHP

http://book.moralogy.jp/?page_id=1219

2016.3.25 11:00

【現代を問う】国旗・国歌に背を向ける国立大…“あつものに懲りて膾を吹く”教育界、日本は確実に三流国家になる

高校の卒業式や入学式では国歌斉唱、国旗掲揚が当たり前の風景になりつつあるが…

岡山学芸館高・清秀中学園長 森靖喜

 本学園は『立派な日本人の育成』『ゼロ・トレランスの教育』を人間教育の基本として、学園改革を遂行してきた。マスコミや教育界からの批判もあったが、断固として方針を貫き通せたのは、独自性を守れる「私学」であったからこそである。現在、生徒のマナー、東大合格など大学への進学実績、県優勝など活発な部活動、文科省からSGH指定を受けたグローバル教育など、文武両道の教育は全国的に高い評価をいただいている。

 「立派な日本人」としての手本を示し、事なかれ主義を排し、ダメなものはダメとする「ゼロ・トレランス」「強制」をも含む教育理念・手法であり、日本人精神という価値観を根底に置く日本の伝統的・保守的教育観である。おかげで生徒、保護者の学園への信頼度、共感度は非常に高いものがある。

 現在、文科省は「教育再生」を掲げ、改革に取り組んでおり、岡山県でも学力向上や校内暴力、いじめ根絶、不登校対策と、さまざまな施策が取られている。道徳の時間の設定は良い方向であるが、施策の中で教員の数を増やせという声が大きい。しかし、間違った歴史・教育観を持つ先生を増員しても解決にならない。まずは教員の精神的な歴史・教育観の転換が必要である。

 現在、教育現場で主流である「子供の自由・権利」を尊重する「子供中心主義・進歩的」の教育観では問題解決には程遠いし、立派な日本人の育成はできない。「保守的・伝統的教育観」へ転換の転換がなければ成果は期待できない。ダメなことはダメと教えられない子供は不幸である。だが、日本の教育界は「保守的・伝統的教育」は軍国主義復活への道だという『あつものに懲りて膾(なます)を吹いている』のが実情である。

 平成23年、東京都立蒲田高校の校長が懲戒免職となり、神奈川県立神田高校の校長が停職処分を受けた。両校の校長は何をしたのか。入試で茶髪やピアス、服装・態度の乱れを理由に面接点を減じ、不合格とした行為を「都県民の信頼を失い、重大な責任がある」として、処分したのであった。荒れた学校・授業が成立しない学校を何とかしようとした校長が処分されたのである。生徒の自由・権利を限りなく認める「進歩的教育観」のなせる業で「ゼロ・トレランス」の教育は「懲戒免職」、これが現状なのだ。都教委は何を恐れたのか。これでは教育改革は不可能である。

 昨年の春、国立奈良教育大学が式典で国歌・国旗を実施しなかったことに関し、国会でも問題になった。共同通信のアンケート調査では国立大学全86校のうち、入学式で国旗の掲揚も、国歌斉唱も実施しているのは岡山大学など7大学だけと判明した。滋賀大学は「国立大学に課せられるのは、納税者に満足してもらえる教育研究の実績づくりであり、国の要請に従うことではない」とした。

 ここでも保守的・伝統的教育観は否定され、戦後独特の「国家」は「人民の敵」、それを象徴する国旗・国歌は「悪」という誤った歴史観・国家観が見て取れる。

 それに対し、下村博文文部科学大臣は昨年6月、国立大学に各大学の自主性は尊重するが、入学式や卒業式で国旗掲揚と国歌斉唱を実施するよう求めた。この春の式典での実態はまだ判明していないが、3月4日の産経新聞によると、国立岐阜大学の学長が卒業式・入学式で国歌斉唱をしない方針を示した。学長の見識を疑う。

 誰の批判を恐れて、頑張った校長を免職にし、国旗・国歌に背を向けるのか。

 東京都では卒業・入学式で国旗掲揚・国歌斉唱が実施されるようになったが、一部教職員が国歌斉唱では起立せず処分を受け、処分取り消しを求めて裁判になったことも記憶に新しい。

 あつもの(軍国主義)に懲りて膾を吹く教育(原発反対もそうだが)では、日本は確実に3流国家になるだろう。

   ◇

 【プロフィル】森靖喜(もり・やすき) 昭和16年、岡山市生まれ。明治大学大学院卒業後、43年から金山学園(現・岡山学芸館高校)の教諭、岡山市教育委員長などを歴任。現在は岡山県私学協会長、学校法人・森教育学園理事長、岡山学芸館高校・清秀中学校学園長、教育再生をすすめる全国連絡協議会世話人。専門は政治学。


森靖喜先生

※引用元

http://www.sankei.com/west/news/160325/wst1603250003-n4.html

江崎道朗(日本会議専任研究員)

地域社会で孤立する家族


 全国各地で高齢者が所在不明となっている問題で厚生労働省は八月二十七日、住民基本台帳の情報と受給者情報が一致せず、死亡している確率が高い八十五歳以上の年金受給者の所在を確認するサンプル調査を実施したところ、対象となった七百七十人のうち、すでに死亡している一人と、行方不明の可能性がある二十二人の計二十三人に年金が支給されていたと発表した。現在、生存確認を行っている八十五歳以上の年金受給者は約二万七千人。今回のサンプル調査に基づいて単純計算すると、死亡又は所在不明であるにもかかわらず年金を受給しているケースは、約八百人に上ることになる。

 ということは、自分の親が亡くなったか、行方不明であるにもかかわらず、生きていることにして年金を騙し取ってきた家族が少なくとも八百近く存在していることになる。これらの家族は、親が亡くなったとき葬儀をしなかったのか。苦労して育ててくれた親の葬儀もしないでどうして平気でいられるのだろうか。

 そもそもご近所は気付かなかったのだろうか。ある日突然、顔見知りのお年寄りの姿を見かけなくなっても不審に思わなかったのか。町内会が機能していれば、掲示板にどこそこの家の誰々が○月○日に逝去したという訃報が掲示され、近所の人々がその家に弔問に訪れるということになるのだが、いまやある日、突然、姿を見かけなくなっても誰も怪しまない社会となりつつある。家族が地域社会の中で孤立してしまっているのだ。

 三十年近く前から、都会で一人暮らしの人が誰からも看取られることなく死亡する孤独死が問題となっているが、いまや家族が同居していても、年金を騙し取るために葬儀もしてもらえず、近所の人にも気づいてもらえないのだ。

 なぜ親子の絆がかくもおかしくなったのか。なぜ家族は社会の中で孤立するようになったのか。専門家は、その原因として産業構造の変化や都市化など社会の変容や個人主義の普及といった価値観の変化などを指摘するが、GHQによる占領政策の影響を指摘する人がなぜか殆んどいないのは、実に奇妙だ。
 

神道指令によって否定された地域共同体


 いまから六十五年前の昭和二十年から約七年間、日本を占領したGHQは、「日本国が再び米国の脅威と…ならざることを確実にする」(米国務省「降伏後における米国の初期対日方針」)ため、徹底した日本弱体化政策を強制した。当時の米国政府は、日本を弱体化しない限り、米国主導のアジアの平和は維持できないと考えていたのだ。

 当時の米国は、日本の強さの秘密は天皇を中心とした強固な共同体にあり、その共同体を維持しているのが「国家神道」だと考えていた。だからこそGHQは占領開始直後の昭和二十年十二月十五日、国家神道・神社に対する政府の支援・弘布を禁じる「神道指令」を発したのである。

 この指令では、神道や神社に対する公的な財政支援、学校での神道に関する教育、役所や学校等での神棚設置、公務員の神道儀式の参加などが禁止された。

 神道指令を受けて文部省は十二月二十二日、文部次官通牒を発し、伊勢神宮遥拝、学校引率の神社参拝を禁止した。その趣旨は昭和二十二年三月に施行された教育基本法において引き継がれ、その後、学校教育において神道排除が続くことになった。

 問題は、神道指令の対象が学校教育だけではなかった、ということだ。神道指令は、神社を中心とした伝統的な地域共同体の破壊を目論んでいたのだ。

 GHQは昭和二十一年十一月六日、「神社や祭社其の他神道の諸活動を支持するために資金を集めたりお守りやお札を配ったりするために善隣組合(町内会、部落会、隣組)がひきつづき利用され」ているのは神道指令違反なので、直ちにこの事態を是正するよう日本政府に指示している。

 この指示を受けて日本政府は十日後の十一月十六日、地方長官宛に「町内会、隣組等による神道の後援及び支持の禁止について」と題する通牒を出し、おおよそ次の四つを指示した。

 ①神社や祭礼その他神道の諸活動を支持するために資金を集めたりお守りやお札(神宮大麻)を配ったりするために町内会、部落会、隣組等を利用することは神道指令違反なので、取り締まること。

 ②地元のさまざまな祝祭行事を行う場合は、いかなる場合でも神社の祭祀と切り離すこと。

 ③町内会等の有力な役職員が神社の総代や世話役に就任しないこと。

 ④氏子区域による氏子組織を改め、崇敬者だけによる組織に変革するよう勧奨すること。

 戦前までの地域共同体は言うまでもなく、その中心に神社があった。その年の豊作を祈る行事から、実りに感謝する秋祭りまで一年のサイクルを通じて、人々は、天地の恵みと神々への感謝という宗教的情操を自らの内に育み、氏神を中心として精神的結束を固めた。子供たちにとっても境内は絶好の遊び場であり、お祭は強烈な印象とともにその人生に刻まれることになった。

 政治的にもまた重要であった。地元の揉め事の解決からお祝い事まで地元のあらゆる問題は、神社で開催される寄り合いにおいて解決された。神社は精神的支柱であると共に、地元のさまざまな課題を解決する情報センター、行政拠点の役割も果していたのである。神道指令とその関連の通牒は、神社が果してきたこれら社会的機能を否定しようとしたのである。

 翌昭和二十二年一月二十八日には、文部省宗務課長から地方長官宛に「神道指令違反について」という通牒が出された。この通牒では、千葉で町内会長が回覧版や集会を通じてみこし製作の寄付金を集めたことが神道指令違反として地方検事局で起訴され、罰金刑を受けた事例を紹介し、「今後もこの種の違反は容赦なく摘発されるから、貴官において、貴管下の神社、及び下部行政機関に対し、一層の注意を喚起し違反のないよう十分に注意せられたい」と警告したのである。何しろ神社を支援したら逮捕されるのだ。地方自治体関係者も地元の有力者たちも震え上がったに違いない。

 公的機関、地域社会と神社との関係を徹底して断ち切ろうという神道指令の趣旨は、昭和二十二年五月三日に施行された日本国憲法にも次のように書き込まれた。

《第二十条 3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 第八十九条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない》

 そして、この神社・神道排除政策が、戦後日本の社会政策を大きく歪めていったのである。

戦後イデオロギーの拠点としての公民館


 神道指令によって神社と地域社会とを分離させ、地域共同体をまとめていく力を奪っていく一方で、神社に代わる地域共同体の中心として構想されたのが「公民館」であった。

 昭和二十一年七月五日、文部省は公民館の設置運営を奨励する通牒を出し、地域社会の相談ごとや集まりは今後(神社ではなく)公民館で行なうよう指示した。この指示は、昭和二十二年三月に制定された教育基本法第七条(社会教育)に、「国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない」という形で盛り込まれた。この条文の意味するところは「社会教育」を通じて、神社を中心とした地域共同体を、アメリカ流の民主主義イデオロギーを奉じた公民館を中心とした地域共同体へと変革しろ、ということであった。

 以後、全国各地で公民館は整備されていくのだが、敗戦後の財政難に苦しむ地方自治体に公民館を新築する費用を出せるはずがない。当然のことながら地元の人々の費用によって学校の教室や神社の社務所など現存する施設を整備し、公民館として転用するケースが多かった。

 恐らくGHQは、ことの展開に驚いたと思われる。せっかく神道指令によって行政と神社との関係を断ち切ったのに、神社の境内地に公民館が建てられては、その効果も半減だからである。

 そこで制定されたのが、社会教育法である。昭和二十四年六月に公布された社会教育法は全五十七条のうち二十二条を公民館のことに費やし、神社と公民館の関係を徹底的に切り離そうとした。具体的には、市町村の自治体が建設した「公民館」しか正規の公民館としては認知しない、としたのである。

 つまり、地元の町内会によって維持・運営されている、神社の社務所を転用した公民館を「公民館類似施設」(第四十二条)と規定し、公的な財政支援を一切禁止したのである(市町村が設置した「公民館」と区別するために「自治公民館」と呼ばれている)。

 さらに「市町村の設置する公民館は、特定の宗教を支持し、又は特定の教派、宗派若しくは教団を支援してはならない」(第二十三条)と規定することで、新築された公民館において、神社の祭礼の準備等を行うことも禁じたのである。神社・神道は、公的な集会所から徹底して排除されたのだ。

民法改正で否定された「家族をまとめる力」


 GHQが解体・排除しようとしたのは、地域共同体をまとめていく神社の力だけでなかった。

 昭和二十一年、GHQによって押し付けられた新憲法のもとで、政府は下位の法令の全面的見直しを迫られた。新憲法の原理に反する法令は廃止、または改変を余儀なくされたのだ。当然、民法、特に家制度をどうするかという問題が浮上した。

 昭和二十一年六月の時点では、政府は「新憲法ができても家の制度は廃止する必要はない」という方針を堅持していたが、臨時法制調査会で我妻栄・東京大学教授らが民法上の「家」制度を廃止することを強行に主張。これに屈して政府は、家制度廃止を目的とした民法改正を強いられた。

 昭和二十二年七月三十日、参議院司法委員会で鈴木義男司法大臣は、次のように提案した。

《現行民法の下では、戸主は家の統率者として、家族に対し、居所指定権、婚姻及び縁組の同意権、その他各種の権力を認められておりますが、これらはすでに述べました日本國憲法の基本原則と両立しないため、新らしい憲法の下では、これを認めることができません。そして、これらの権力を否定すれば、最早民法上の家の制度は、法律上はその存在の理由を失うのみならず、これを法の上に残すことは、却つて戸主の権力を廃止する趣旨を不明瞭にする虞れがあります。よつてこの法律では、戸主、家族その他家に関する規定はすべてこれを削除いたしました》

 家制度の否定とは、家族・親族をまとめていく力の否定であった。先祖代々受け継いできた「家」を、戸主の統率のもと家族が結束して次代に伝えていこうという家制度は、統率者不在のまま、夫婦・親子が共同生活を営む場へと変質させられたのである。

 しかも厄介なことに、この家制度の変質を助長、つまり戸主が家族をまとめていく力を否定する住宅政策が戦後、展開されたのである。

 建設省住宅局の調査によれば、戦時中、米軍の空襲によって焼失した家屋は実に二百十万戸にのぼり、海外からの引揚者分も含めると、終戦直後の日本では、約四百二十万戸の住宅が不足したという。

 政府は昭和二十年九月、戦災都市におけるバラック小屋や壕舎生活者の救済のため「罹災都市応急簡易住宅建設要綱」を定め、年内にとりあえず三十万戸の簡易住宅を建設しようとした。その後も、借地借家人の保護、住宅の建設資材の確保等、国民の住生活の安定を図る措置がとられたが、建築資材の不足、資金難等によって住宅建設は進まず、昭和二十七年の段階でも三百十六万戸の住宅が不足していた。

 そこで昭和二十五年五月、住宅金融公庫法を公布し、持ち家を建設する個人や法人に長期低利資金の融資を開始したが、社会党や労働組合は、労働者向けの低家賃住宅を大量に建設することを政府に強く要求した。住宅の建設はあくまで国民に対する融資を通じて国民主導で行うべきだとする当時の保守系議員の考え方に対して、社会党らは、政府が国民生活のすべてを面倒みるべきだとする社会主義的政策の実施を求めたのだ。その根拠となったのが、憲法第二十五条の「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」という条文であった。

 現実に劣悪な住宅環境に国民の多くが苦しんでおり、民間主導ではこの住宅不足を解決することは困難だった。そこで、あくまで低所得者向けの低家賃住宅を政府主導で建設することを目的として田中角栄衆議院議員らが公営住宅法を提出、昭和二十六年六月四日に成立した。その第一条は、憲法第二十五条に基づいて、次のように書かれている。

《第一条 この法律は、国及び地方公共団体が協力して、健康で文化的な生活を営むに足りる住宅を整備し、これを住宅に困窮する低額所得者に対して低廉な家賃で賃貸し、又は転貸することにより、国民生活の安定と社会福祉の増進に寄与することを目的とする》

 この法律に基づいて政府と地方自治体は連携して、家賃が安い代わりに狭い間取りの公営住宅を大量に建設していくことになった。その住宅政策に決定的な影響を与えたのが、当時京都大学助教授だった西山夘三が書いた『これからの住まい』と、女性初の建築家と呼ばれた浜口ミホの『日本住宅の封建制』だった。

意図的に助長された核家族化


 戦前から戦時中にかけて庶民の生活実態を徹底的に調査した西山夘三は、狭い住宅に住んでいる庶民たちが意図的・慣習的に住宅内で食事の場所と寝る場所を区分していることを発見し、「食寝分離」が近代的な住宅の必須条件であるという研究成果をまとめた。

 その研究成果に基づいて西山は、憲法施行直後の昭和二十二年九月に発刊した『これからの住まい』において、戦後の住宅難を解決するため、政府主導で「食寝分離」が可能となる「台所と部屋二つ」を基本とした耐火性のある高層集合住宅を大量に供給すべきと提案したのである。

 しかも、集合住宅を大量に建設するに際しては、《親の家族内に跡取りの息子夫婦が同居するというくらし方を再吟味》して、三世代同居を否定し、核家族化を促すべきだと訴えたのである。戦前からマルクス主義を信奉していた西山は、伝統的な家制度を敵視し、こう主張した。

《封建的な家長的家族形態は家生活の伝統をつたえる教育的効果と、個別的家事経済に於ける家事労働の一応の合理的協同組織を伝統的にもっていたことは否めない。併しその故に我々はそれを将来も固執すべきものであると主張したり、或はかういう方法で生活の型を確立して行こうと考えたならば、それは明に誤まっている。

 我々は年寄りの躾けよりもむしろそうしたものを自分自身でつくり出す能力のある自主性に富んだ子女をつくり出す生活と環境を整備し、一方煩わしい家事労働を社会化し簡易化しなければならない》

 つまり、三世代同居を否定し核家族化を促すことを通じて、祖父母から子供や孫へ、生活習慣や年中行事などの家風を継承できないようにしていく。そうすれば、祖父母の「封建的」な価値観に接する機会も少なくなり、子供たちは戦後民主主義イデオロギーに基づいて個人優先の人生観や生活スタイルを生み出していくようになる、と考えたのである。

 この西山の提案を引継いだのが、日本初の女性建築家といわれた浜口ミホであった。彼女は昭和二十四年二月、『日本住宅の封建制』の中で、こう批判した。
《「家」という観念を中心として、人間がその下で身をちぢめ、息をひそめて生きてきたのが、家父長制的な封建社会の生活であった。そしてその「家」の物体的表現が住宅であった。つまり住宅は住む人間自身のためというよりは「家」のためのものであった》

 浜口が問題にしたのは、伝統的な住宅が、「家」と「家」との付き合いのため、接客機能を重視してきたことだった。その代表例が座敷と床の間だ。「床の間追放論」という章の中で浜口は、こう指摘する。

《床の間のついた部屋は本来的に客間としての性格をもつ。室町、桃山時代ばかりではないが、封建時代の昔は、天皇は将軍家へ、将軍は臣下の家へといったように、より身分の高い者が、より低い者の家へしばしば「お成り」になった。そして「お成り」をいただいた方では、高貴の人を床の間のついた部屋でもてなすわけであるが、その際高貴な人は、その部屋が自分のものであるかのように、床の間をひかえた場所を占め、この家のあるじはその部屋へ、おずおずと伺候するといった礼式をとるのである。つまり床の間は、その部屋が客間であること、しかもそれがその家の人々よりも一段格の高い人のための客間であるということを示すのである》

 つまり、床の間のある座敷は、《社会の人間が、すべて身分格式の上下にしたがって、階段的に構成されていた封建社会》の産物に過ぎない。そして《すべての人間が平等に連なる明るい近代的な社会に向かいつつある》今日、思い切って床の間のある座敷を廃止し、接客本位だった「封建的な住宅」から、台所や居間・寝室など居住者の生活を重視する「近代的な住宅」へと、大きく住宅の原理を改革すべきだ――と、浜口は訴えたのである。

 浜口の追及は、玄関にも向けられた。

「玄関という名前をやめよう」という章の中で、《玄関には人間の出入という機能的な要素のほかに、封建社会的な身分関係を示そうとする格式的な要素が含まれてきた》と批判する。なぜならば、《武士の家には普通二個以上の玄関(出入口)があったことである。正玄関は来客および主人のためのもの、内玄関は家族のもの、さらに召使たちは勝手口(大戸)から出入りするように――人間の出入という意味としては全く同一のものでありながら――身分的・格式的関係からして幾つかの出入口として使い分けられたのである》

 もし《玄関が旧のままに玄関と呼ばれつずけ、その格式的・封建的性格を維持するならば、それは当然住宅の内部の間取における、例えば「座敷」といった封建的・形式的な要素と結合して、われわれの住宅を依然として救い難い封建的な泥沼にはめこんでおくのに大きな役割を果すであろう》

 よって封建制を排除するため、玄関という名前を廃止し、例えば出入口と呼ぶべきだと主張したのである。

公団住宅の背後に「封建的住宅」否定論


 このように、家制度を否定した占領政策・憲法に乗じて西山夘三や浜口ミホは、戦後の住宅政策の方向性を次のように提示した。

 ①住宅の供給は民間に任せるのではなく、政府の責任で実施する。

 ②公営住宅は、一戸建ての木造の家ではなく、火災に強いコンクリート製の中層集合住宅(団地)とする。

 ③間取りは統一し、核家族化を促進するため、2DKとする。

 ④床の間のある座敷に代表されるような接客機能を否定し、代わって居間や台所などを充実させるなど、居住者の利便性を第一義とする。この方向性に基づいて、台所で食事をとることができるダイニング・キッチンが提案された。

 ⑤接客を目的とする「玄関」という名称はやめ、単なる出入口とする。

 当時は占領下で、何しろ「戦前の日本はすべて悪だった」という時代だ。西山や浜口が唱えたこうした基本原則は圧倒的な日本否定の風潮の中で、当時の政府・建築家たちに強く支持され、《西山理論と浜口理論がバックボーンとなってやがて公団住宅の設計が実現する》(西川祐子・京都文教大学教授)のである。具体的には、東京大学の吉武泰水や鈴木成文らが食寝分離が可能な2DKを基本としたコンクリート製の中層集合住宅を設計、一九五一年に設計されたため、51C型と呼ばれた基本間取りは、昭和三十年に設立された日本住宅公団で採用されたのである(因みに浜口ミホは日本住宅公団から招聘され、公団住宅の設計に深く関与した)。

 全国各地で建設された公団住宅は、床の間も座敷もなく、三世代同居は難しい狭さであったが、ステンレス流し台、衛生的な水洗便所、浴室、シリンダー錠という最新設備を備えた欧米風の間取りは、若者たちの憧れのライフ・スタイルとなり、戦後の住宅の代表的間取りとして定着していった。

 日本住宅公団が昭和三十年から、公団が解散した昭和五十四年までに全国に建設した公団住宅は、実に百八万戸。それ以外にも、地方自治体が独自に県営住宅、市営住宅を大量に建設し、民間建設会社もまた人気のあった51C型を標準設計とするアパート、マンションを次々と建設していった。

 ステンレス流し台を備えた51C型住宅モデルが全国に普及していった経緯は、NHKの「プロジェクトX」という番組でも、サクセス・ストーリーとして取り上げられたほどだ。

主流となった「神棚・仏壇なき2DK」


 戦後の深刻な住宅難を解決していく上で公団住宅が果たした役割を評価しつつも、この51C型モデルこそが、戦後の家族のあり方を大きく変えてしまったことは否定できない。

 なぜならこの51C型は、西山や浜口が指摘したように、戦前からの価値観継承を断ち切るために三世代同居を否定し、強制的に核家族化を促す意図があったからであり、実際に核家族化が急速に進むことになった。親子の断絶、世代の断絶は、自然に生まれたのではない。意図的に作り出されたのだ(住宅公団は昭和四十七年になってようやく、三世代同居が可能となる複合家族用住宅の供給を始めた)。

 しかも公団住宅は、憲法の政教分離条項の適用を受け、神棚・仏壇の場所を確保しようとはしなかった。民間の一戸建て住宅であれば、大工さんと相談しながら、床の間のある座敷を設け、神棚をまつり、仏壇を整えるのが普通だった。同居する戦前派の親たちが、神棚・仏壇を要望したからだ。

 しかし戦後の神道排除教育を受け、祖父母とも同居していない若夫婦が、欧米風の2DKに、わざわざ神棚や仏壇を祀るはずもなかった。統率者としての立場を否定された親たちが、別居している若夫婦に神棚を祀るよう求めることも困難だった。神道指令と憲法の政教分離の影響で、隣近所の人々も、神棚を祀るよう勧めることは何となく憚られたし、町内会等を通じて地元の神社のお札を頒布することは神道指令で固く禁じられていた。かくして公団住宅に住む核家族を中心に、神棚・仏壇なき家庭が急速に増えていくことになったのだ。

 それまで一般的な家庭ならば、ことあるたびに神棚や仏壇に手を合わせ、神々とご先祖様に感謝するという生活習慣をもっていた。そしてご先祖様に日々手を合はせる親たちの後姿を見て、子供たちも自然と「自分の人生は、ご先祖様から預かつたものである。自分もご先祖様に恥じない立派な生き方をしなければ」という人生観を育んできた。

 こうした人生観は戦後教育の中で否定され、祖孫一体の永続生命体であった家族は、祖父母と切り離され、敬神崇祖の場も持たないまま、食べて寝るだけの単なる共同生活の場へと劣化してしまったのだ。

 かくして憲法によって家族に対する統率力を否定され、先祖崇拝という価値観も持たない親たちは、個人主義という利己主義を掲げる子供たちを前にして途方に暮れることになった。家庭から教育力が失われたと言われるが、それも無理はない。食べて寝るだけの生活空間に、子供たちの人生観を高める力があるはずがないからだ。

社会との接点を失わされた「核家族」


 家族をまとめる力を失った核家族は同時に、社会との接点も失っていった。

 実は公営住宅から消えたのは、神棚・仏壇だけではない。床の間や座敷、縁側といった接客機能も削られ、シリンダー錠で固く閉ざされることになった。祖父母から引き離され、先祖とのつながりを失った核家族は、接客機能を否定した公団住宅の中で、地域社会との接点を失い、社会の中で孤立していったのである。

 日本近代住宅史の専門家、内田青蔵・文化女子大学教授は、次のように指摘する。

《住まい――家族や生活――を維持するには、それなりの覚悟とプライドが必要と思う。家に人を招くことは、それなりに自分や家族の趣味はもちろん料理の腕やインテリアの知識の度合い、さらには、家族関係の親密さや教育観といった様々なものが知られてしまう。いや、さらけ出さなければならなくなる。

 当然ながら、そうしたことをさらけ出さなくてすむほうが人生、楽に決まっている。そのため、友人たちや地域の人々との関係を疎遠にして閉じてしまうと、家族の間にもそうした疎遠の溝ができたり、逆に、過剰に強い絆で結ばれてしまいお互い独立できない関係に至ってしまう危険性がある。

 そうした危険性を逃れるためには、やはり、自らの生活をさらけ出し、他の批判を受ける覚悟が必要なのだ。そのさらけ出す場が、接客の行為の場のように思う》(『「間取り」で楽しむ住宅読本』光文社新書)

 確かに高齢者行方不明問題にしても、家庭内での虐待にしても、接客を重視し、地域社会との関係が深い家庭であれば、恐らく起こらなかったはずだ。

 勝手口、縁側がなくなり、シリンダー錠による出入口だけになったことも、社会との接点を失わせることになった。川添登・日本生活学会理事長は昭和五十七年、『人間都市への復権』(ぎょうせい)の中で、こう指摘している。

《日本の住宅ぐらい出入口の多いところはない。玄関と縁側と勝手口、少なくとも三つある。しかもそこが単なる出入口じゃなくて、玄関でもって、上がらないで済むようなお客さんは、そこで接待する。縁側は、それこそ近所の人たちの広場です。(中略)それから勝手口というのは結構広い土間があって、御用聞きなどが来て、そこでコミュニケーションが行われる。対社会的なコミュニケーションの場がそれぞれ各戸にあったわけで、それがコミュニケーションの基礎になっていた》

 ところが、縁側や玄関などの多様な接客機能を否定した間取りの普及で、そうしたコミュニケーションが失われてしまった。

《それが現在のアパートになると、ドアが一つになって、御用聞きだって何だって全部そこで応待する。昔は玄関でつき合う人もいる、縁側でつき合う人もいるし、勝手口でつき合う人と、いろいろなつき合い方があったわけです。そういうものがいまは、全部遮断されているためにどういうことになったのかというと、呼び鈴があって、のぞき窓があって、インターホンがあって、かぎがある。そういうような装置に置きかえなくちゃならなかった。それで機能的には満足できるんだけれども、多様なつき合い方は失われた。

 それは、かなり建築家に責任があると思うんです。多様なつき合い方ができるようなアパートならアパートの設計をしていないということなんです》

 床の間や座敷、縁側、玄関といった接客機能を削った公団住宅は現在、UR都市再生機構に引継がれ、全国で千八百六団地・約七十七万戸の賃貸住宅を管理しているが、平成十八年度の一年間だけで実に五百十七人が孤独死をしている。

 二〇〇五年の世界価値観調査によれば、日本人の社会的孤立感は、OECD諸国の中で圧倒的に高い。「友人、同僚、その他宗教・スポーツ・文化グループと全く、或はめったに付き合わないと答えた比率」が、オランダ二%、米国三・一%、英国五%、フランス八・一%に対して、日本は十五・三%と、諸外国と比較しても日本人は社会の中で人づき合いが極めて悪く、社会的に孤立する傾向が強い。接客機能を否定した戦後の住宅モデルのつけが回ってきたと言えば、言い過ぎだろうか。

「神社なきニュータウン」の登場


 核家族の社会的な孤立をさらに助長したのが、政府(日本住宅公団)主導の街づくり計画だった。

 昭和三十年に発足した日本住宅公団は全国に高層集合住宅を建設すると同時に、大規模かつ計画的な宅地開発を進め、都市の郊外に大規模団地をつくっていく。その手始めが、昭和三十二年に千葉県柏市に完成した光が丘団地であった。

 約千戸の集合住宅が農地の中に突然生まれることになったため、付近には、鉄道の駅も小学校も医療施設もなかった。そこで住宅公団は、町としての機能を持たせるべく、公園、保育所、小学校、市役所出張所、郵便局、診療所、店舗、銀行といった施設を同時に整備していった。その後もこの方式で多摩平、桜堤、ひばりが丘、新所沢などで大規模団地(昭和三十八年以降は、ニュータウン)が相次いで誕生していったが、この街づくり計画でも大きな問題が生まれた。

 住宅公団が各地で作った大規模団地は、憲法の政教分離条項の制約があって、「神社なきニュータウン」となったからである。

 いくら施設を整えても、それで自然にコミュニティが形成されるわけがない。それでなくとも公団住宅は、地域社会との接点を断ち切るような間取りであり、家族は部屋にひきこもりがちなのだ。

 犯罪の増加、ゴミ処理などの近隣同士のトラブル、新旧住民の対立などの問題をどうすべきか。住民に任せるだけでなく、行政が積極的に取り組むべき政策課題として浮上する。

 そして自治省(現総務省)は昭和四十五年、「コミュニティ(近隣社会)に関する対策要綱」を定め、「このままでは、住民は近隣社会の関心を失い、孤立化し、地域的な連帯感に支えられた人間らしい近隣社会を営む基盤も失われる恐れがある」として、「基礎的な地域社会をつくるため、新しいコミュニティづくりに資するための施策を進める」よう各都道府県に通知を出した。

 この通知を受けて全国の地方自治体はなんと市民会館やコミュニティー・センターというハコモノの整備を始めたのである(田中角栄の『日本列島改造論』が発刊されたのが昭和四十七年だ)。住民が集まるハコモノをつくれば、地域的な連帯を生み出せるかも知れないという、根苦肉の策であった。

神社・お寺の可能性


 それから十二年後の昭和五十七年、全国の地方自治体の都市計画課、企画課などの協力を得て日本都市学会会長の磯村英一東洋大学学長らが『人間都市への復権』(ぎょうせい)という報告書を出した。そこには、実に興味深い発言が見られる。

 例えば、日本生活学会理事長で建築評論家の川添登氏は「人間都市――その基本的視点」という座談会の中でこう指摘する。

《地方の時代、文化の時代ということでさわがれていますが、では地域の人びとがみんなで楽しむ文化があるかというと、どこの都市も祭りしか思い浮かばなかった。(中略)ですから、祭りというのは、(中略)パブリックなものを一時的に演出したものとして、評価しなくちゃいけない。現在の場合でもお祭りを行うことによって初めて町会、特に商店街の団結などがあり得るわけですね》

 家族の孤立を防ぎ、地域共同体をまとめていく力はどうしたら生まれるのか、全国で試行錯誤が行なわれたが、結果的には、「お祭り」だけが地域の団結を生み出すことに成功していると述懐しているわけだ。

 また、加藤晃規・大阪大学環境工学科助手は「新しいひろば空間」という論考の中で、《そもそも神社は集会、コミュニケーションのうえで歴史上重要な役割を果たしてきている。中世の惣村では、寺社の境内地が宮座の集会場所であり、村の最高議決をおこなう権威ある場所であった。同時に年中行事化した祭礼などの神事の場所であり、それらの神事と結びついた各種芸能のとりおこなわれる場所として村民のレクリエーションの中心であった》として、神社の歴史的役割を振り返った上で、こう提案している。

《神社の境内地は、都市化の進むなかで積極的に樹林を残してきたとされる代表である。戦後は、憲法の改正に伴い、神社組織が宗教法人化したし、区画整理や神社周辺の市街化による境内地の形状変更がみられるものも多いが、それでも、もっとも変容の少ない都市空間として境内地は存続してきたといえる。(中略)そこで、こうした中小の神社境内地の景観を整備しながら、そこに新しい都市広場の機能を与えることができないであろうか》

 いかにして地域社会をまとめる力を回復していくか、という問題意識の中で、お祭や神社の機能に目を向けざるを得なくなったわけだ。

 意外なことに、そのような問題意識はいまや地方自治体関係者の間でも広く共有されつつある。

 千葉大学の広井良典教授は平成十九年五月、全国の市町村千八百三十四のうち無作為抽出した九百十七市町村に政令指定都市などを加えた計一千百十自治体に、地域コミュニティ政策についてアンケート調査を送付し、六百三自治体から回答を得た。その結果を、三菱総合研究所『自治体チャンネル』平成二十年七月号に公表している。

 「地域における拠点的な意味を持ち、人々が気軽に集まりそこでさまざまなコミュニケーションや交流が生まれる場所」として「特に重要な場所は何か」という質問に対して、一位「学校(小中学校)」、二位「福祉・医療関連施設」、三位「自然関係(公園、農園、川べりなど)、四位「商店街」となり、五位に「神社・お寺」が入っているのである。

 具体的数字を出すと、六百三自治体のうち、実に百もの自治体が神社・お寺を重視しているのだ。しかも、五万人未満の小規模の町村では、「神社・お寺」を重視する率が、大規模都市よりも更に高くなっている。因みに旧自治省がコミュニティの拠点として位置づけたコミュニティー・センターを重視すると回答した自治体は四十九で、神社・お寺の半数にも満たない。

 この調査結果を受けて広井教授はこう解説している。

《全国にあるお寺の数は約八万六千、神社の数は約八万一千であり、これは平均して中学校区(約一万)にそれぞれ八つずつという大変大きな数である。考えてみれば、祭りやさまざまな年中行事からもわかるように、昔の日本では、地域や共同体の中心に神社やお寺があった。(中略)こうしたコミュニティにおける拠点的な場所を再構築していくことは、コミュニティ再生の一つの重要な柱をなすと思われる》

 地域共同体をまとめていく神社の力(機能)は戦後、神道指令と憲法、そして住宅・都市政策によって否定され排除されてきたが、ようやく神道指令の呪縛は解けつつあるようだ。戦後も六十五年が経った。神道と神社・お寺の精神的社会的機能を再評価する中から、家族、教育、住宅、そして街づくりのあり方を抜本的に見直すべきだ。

 すでに学校教育レベルでは、抜本的な見直しが進んでいる。神道指令の影響を受けた教育基本法は平成十八年に改正され、新教育基本法第十五条は「宗教に関する一般的な教養…は、教育上重視されなければならない」と、より踏みこんだ表現に格上げされた。これによって単なる宗教「知識」教育に留まらず、各教科・道徳・特別活動を通じて神社・お寺見学も可とされ、神道や仏教について理解し身につける「教養」教育もできるようになっている。同様の見直しが家庭や住宅、街づくりにおいても進められていくことが、失われた家族の絆、地域の絆を回復していく上で極めて重要なのである。

えざき・みちお 昭和37(1962)年、東京都生まれ。九州大学文学部卒業。月刊誌「祖国と青年」編集長を経て平成9年から日本会議事務総局に勤務、現在政策研究を担当する専任研究員。共著に『日韓共鳴二千年史』『再審「南京大虐殺」』『世界がさばく東京裁判』(いずれも明成社)など。

今回は、日本の食文化について、小山和伸氏(神奈川大学経済学部教授)の著書『救国の戦略』より、一部を引用します。

■食文化に見る日本人の叡智

数年前O・157による食中毒が、児童を中心に蔓延して大騒ぎになったことがる。あの時、問題のO・157の繁殖を抑制する食品の研究が進められた。まだ記憶に新しいが、抑制効果に特効があったのは、緑茶とヨーグルトであった。この時、鮨屋であれほど大きな湯飲みで、濃いめの緑茶が出されることの意味がはっきりと分かった。そこには、魚の生食を好む日本人の叡智が脈々と息づいてゐたのである。

鮨の話が出たところで、生魚を常食する日本人の知恵について少し検討してみよう。刺身のつまとして必ず付いてくる大根、内臓を食べる秋刀魚に付き物の大根おろしだが、大根には魚類の食あたりの防止に特効のあることが知られてゐる。昔から下手な役者を「大根役者」などと言ふのも、大根を食べると生魚にあたらないことから、興行の当たらない役者をかう呼んだのだと言ふ。
その他、笹や柿の葉は生魚の腐敗を抑制すると共に、魚が鮮度を失ひ始めると魚肉に接触した笹や柿の葉が逸早く黒ずんで変色し、食するに適さないことを教へてくれる。さらに最近の研究によって、笹の葉には胃壁内の「ヘリコバクター・ピロリ菌」の除菌にも、抗生物質より遥かに優る特効的効果があることが明らかになった。ピロリ菌は、日本人の約五〇パーセントに感染しており、胃潰瘍や胃癌の原因とされてゐる。五〇パーセントもの感染を許した背景には、日本特有の植物である笹を用ゐた、日本古来の知恵が蔑ろにされてきた現実があるのではなからうか。

鮨の上には、繊細な透かし細工の施された笹の葉が載せられてゐる。現代科学を駆使した研究によって、単なる飾り物ではなかった笹の葉を通して、古来の叡智が透徹されゆくのと引き替へに、却って笹がビニールというふ化学物質で代用されるやうになってゐるのは、誠に文明の皮肉と言ふより他はない。斯くして、奈良に古代から伝はる柿の葉鮨や笹鮨の科学的合理性も、今あらためて明らかになりつつある。

刺身に付き物の、山葵(わさび)や生姜(しゃうが)の殺菌効果、また醤油の殺菌効果も既に知られてゐる。さらに、酢の防腐効果も周知のところである。酢には生魚の寄生虫を弱らせる働きもある。生きた寄生虫を酢に漬ける実験の結果、酢の中で魚の寄生虫は数時間経っても死ななかったといふ報告がある。しかしこの結果報告だけで、酢の効能を否定することはできない。むしろ、酢に漬けられた寄生虫が間もなく死んだとしたら、酢は毒性の強い食品ということになるであらう。そんな毒が人体に良いはずがない。酢は、醤油や山葵や緑茶、そして胃酸との総合的作用のうちに、寄生虫をやうやく殺すに違ひない。このやうやくと言ふところが肝腎である。ぎりぎり必要十分な殺菌効果によって、人体にダメージを与へることなく、害虫駆除をやり遂げてゐるからである。

さて、O・157の抑制に効果の高かったヨーグルトは、日本古来のものではないが、乳酸菌は伝統的な日本食にとって馴染みの深いものである。京都の鮒鮨(ふなずし)など熟鮨(なれずし)の類はその例だが、より一般的には糠(ぬか)漬けは乳酸菌の宝庫と言って良い。この乳酸菌活用の事実からも、古来日本の食文化の叡智を窺(うかが)ひ知ることができる。

以上のような諸々の素材がセットとなって、例えば刺身や鮨といった食文化が形成されてゐる。
(引用終わり)


長い歴史を持つ日本で、現代まで伝えられてきた伝統文化には、食文化一つをとってみても、このようにご先祖の深い叡智が込められています。ですから、伝統文化に学び、それを守ることで、私たちも守られるのです。

しかし、日本人は大東亜戦争 (太平洋戦争)での敗戦によるショックと、GHQの占領政策により、「一億層総懺悔」をやって、民族のこれまでの過去(歴史)を否定してしまいました。

それにより、それまで伝えられてきた伝統文化も、アメリカなど西欧に比べて劣等であり、非合理で不便なものと思い込むようになりました。

その結果、伝統文化が伝えられず、廃れてしまい、現在の日本の憂うべき状況を生み出したのではないでしょうか。

このことで特に影響を受けたのが、家庭での「子育て」です。

子育てとは、ご先祖からの授かりものである子供を、立派な日本人に育てることです。代々受け継がれてきた日本語、節句、お伽話、人との付き合い方など、日本の伝統文化を子供に伝えること、つまり継承してもらうことです。

ところが、過去を否定し、伝統文化も劣等なものとしてしまったら、子供に伝えるべきものがなくなってしまいます。それが為に現在の子育てはその目的を見失い、混乱してるように思います。

この状況が続けば、やがて日本文化は消滅してしまい、日本という国家は生命力を失い、終焉を迎えることになるのではなるのではと危惧されます。

私たち日本人が今やらばければならないことは、民族の過去を否定してきた戦後の価値観から脱却することだと思います。

私たちは、ご先祖から続く生命の連続性を持った存在であり、そのご先祖の過去を崇敬し、相続し、それを子孫へ受け渡していく責務があります。そうして初めて、国家は未来へと存続する生命力を得るのです。

駐日フランス大使を務めたポール・クローデルが、昭和十八年、日本の敗戦が濃厚となっていた頃に述べた言葉があります。

「私が決して滅ぼされることのないように希(ねが)う一つの民族がある。それは日本身族だ。(中略)彼らは貧乏だが、しかし彼らは高貴だ」

戦後、否定された過去において、ご先祖は、外国人も称賛する「高貴な精神」を持っていたのです。
このご先祖の美風を継承しようと私たちが努め、家庭での子育てにおいても、こうした美風や伝統文化をしっかりと伝えていけば、日本人は誇りと魂を取り戻し、現在直面している様々な問題も解決に向かうのではと思います。

■引用著書
救国の戦略 救国の戦略
小山 和伸 (2002/10)
展転社

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※山陽新聞(2015年4月28日)より引用。


■シニアの流儀

神崎宣武(民俗学者)


歴史を敬う


平安末、鎌倉初期のころ(12世紀)、西行法師なる高僧がいた。


高僧とはいっても、住む寺はもたず、旅を修行とした。それも、とくに布教をするわけでもなく、漂泊歌人というのがふさわしい法師であった。


のちの世にも、歌人としての評価が高い。たとえば、『山家集』には1500首が収められており、『西行法師歌集』や『山家心中集』などもある。


〈願はくは花のしたにて春死なむ そのきさらぎの望月(もちづき)のころ〉


没する前年にうたった歌で、広く知られるところだ。


〈何ごとのおはしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる〉


私の好きな一文である。


伊勢に立ち寄ったときのこと、何神さまが祀(まつ)ってあるともわからない路傍の祠(ほこら)にぬかずいて拝する西行。そうした姿は、『西行物語絵巻』(13世紀中ごろの作とみられる)にも描かれている。


もちろん、西行に求道(ぐどう)心があってのことに相違ない。が、当時の日本人の多くが共有してきた自然(じねん)の信仰心がそこに表徴されている、といってもよいだろう。


「何ごとのおはしますかはしらねども」、人びとは、所どころの霊山や精霊を崇(あが)めたのである。


「神さま仏さまご先祖さま」ともいった。私たちより一時代前ごろまでは、その言葉も民間に伝わっていた。とくに、信仰の対象を定めてのことではない。むろん、即物的なおかげを願ってのことでもない。先人たちが尊んできた事象や遺跡に、そういって敬意を表してきたのである。


それは、一神教を主流とした世界の宗教的な規範とは、いささか異なる信仰観念というものである。教義にあらざる観念。文明にあらざる文化。それは、ある種の歴史観といってもよい。歴史を、先祖を敬うのである。


それは、化学が未発達なむかしのこと。いまどき通じないし、ましてや国際社会ではなお通じない。と、いう反論もあろうか。


それでは問う。最近、ニュースで流れる由緒ある神社仏閣の柱や壁に油らしき液体を撒(ま)く事件をどう思うか、だ。それを、当節のことだから、と正当化してほめる人はいまい。また、とくに国や民族を名指してのことではないが、世界遺産にも相当する建物や彫刻を破壊する映像に、革命万歳とばかりに拍手をおくる人もいまい。


私たち日本人のなかにも、何かが忘れられているのではないか。大事な何かが忘れられているのではないか。そのとき、私は、西行法師にもどって考えてみるのだ。


古びた文化遺産の前で立ち止まり、静かに瞑想(めいそう)してみたらどうか。そのときは、せめて、帽子ぐらいはぬいでそうするのがよろしかろう。重ねていうが、それは宗教的な行為ではない。まずは、先祖返りをしてみるのだ。


さいわいなことに、そうしてもさまになる年齢(とし)になった。若い世代が私たちの後ろ姿をみて、何かを感じとってくれるかどうか。そんなことをあてにすることでもない。しかし、私たちが、そうした体現をしないことには、次の世代は、ますます無関心を装うことになるのである。


「何ごとのおはしますかはしらねども」、たしかなことは、ご先祖は何千人、何万人。私たちが一代で成すことなど、たかがしれているのではあるまいか。


(引用終わり)