国産大口径レンズの黎明期
国産レンズの中でも初期のf1.4クラスの大口径レンズをシリーズで紹介していきます。
その1 Nikkor-S Auto 5.8cm f1.4
1960年頃レンズを設計する上で、f1.4という明るさの確保はもちろん、一眼レフに対応するため長いバックフォーカスを実現する事は非常に難しい課題であった。当時すでに安定してf1.5という明るさを実現していたゾナータイプだと一眼レフカメラではバックフォーカスの確保が難しいことがわかり各社一斉にガウスタイプの設計を開始した。しかし1950年代当時、一眼レフ用大口径レンズはプロミネント用ノクトンやレクタフレックス用ノクトン、コンタレックス用プラナーなどの前例あるもののまだまだ未開の地であった。そんな未開の地を開拓していった国産レンズの数々を紹介したい。
まず第一回で紹介するのはNikon初の開放値f1.4の一眼レフ用標準レンズであるNikkor-s auto 5.8cm f1.4だ。
このレンズはニコンF用の初めてのF1.4クラスレンズとして1960年に発売された。一見5群7枚に見えるが3枚目と4枚目のレンズはセパレートしており6群7枚だ。
このレンズの最大の特徴は前群分割と呼ばれる設計だ。f1.4クラスのレンズになると明るさを確保するために正パワーが必要となる。正パワーとは収束する光の強さでいくつかの要素で強くすることが出来る。
まず1つはガラスの屈折率の強さ。ガラスが持つ屈折率は種類によってまちまちで屈折率の強いガラスを使うことで正パワーを稼ぐことが出来る。しかし一般に屈折率の高いガラスは色収差が大きくなる傾向にある。屈折率が高く色収差の少ないガラスは高価になる。
次はガラスの曲率。凸レンズの曲率を上げることで正パワーを得ることが出来る。しかし曲率を上げると球面収差や歪曲収差などの収差も増大する。
そして3つ目が凸ガラスの枚数を増やすことだ。凸ガラスを増やせば正パワーを稼げる。しかも各ガラスの曲率は緩やかに出来るので収差的にも有利になる。ガラスを1枚足すと2面増える計算になるが面数は増えれば増えるほど収差補正的には自由度が上がる。コーティングが普及した1950年代以降は面数増大によるデメリットもかなり軽減したのでガラスの枚数を増やすことが有効な収差補正の手段となった。
Nikkor 5.8cm F1.4では ランタン系高屈折率低分散ガラスを使いつつ凸レンズの枚数を増やすことで明るさを稼いでいる。興味深いのはこのレンズでは前群の凸レンズを分割している点だ。一般にこのことを前玉分割という
この時代f1.4クラスのレンズは前群分割タイプと後群分割タイプに分かれていた。前群分割は球面収差補正に良好で後群分割タイプはコマ収差に有利であることが後に分かる。後群分割はバックフォーカスを伸ばすにも有利であるので現在の標準レンズのほとんどは後群分割を採用している。
この時代の代表的な後玉分割レンズであるコンタレックスプラナーである。このレンズでも開放時はややコマフレアが残存している。とはいえこの時代においては最良の設計である。
後群分割に加え2群の貼りあわせをセパレートして6群7枚構成にすることでコマフレアを完全に除去する世代が1960年代に入って登場するようになる。
一方前群分割を採用している有名なレンズにはNOKTON 50mm F1.5がある。
ノクトンは厳密に言うと凸レンズでの分割ではないが、1952年当時のガウスタイプとしては最高水準の性能を持っている。後ボケが硬くなってしまいがちなガウスタイプにおいて、コマフレアのハロのベールで背景を柔らかく処理してみせる設計はさすが。ガウスタイプに人生を捧げたトロニエらしいすばらしいレンズだ。
Nikkor-S Auto 5.8cm f1.4の写りはどうであろうか?
中心部拡大
繊細なベールを纏ったような写りは「甘美」の一言。その他ニッコールレンズとは明らかに違う写りだ。これはレンズの周辺部に環状に残存したコマフレアによるものだ。中心部には解像度がのこるので拡大写真で分かるとおり花びらの水滴ははっきり写っている。柔らかい周辺部とシャープな中心部の対比が独特の立体感を生み出している。
一段絞るだけで急激にシャープになる。
この魅力的なレンズであるが当時のトレンドとは合わず僅か2年で新型のNikkor-s 50mm F1.4が発売となる。
新型の50mmF1.4は傑作で14年もの間Nikonの標準レンズを支える。現代のレンズと比べても遜色ない写りは当時としては驚異的であった。
しかし現代においてはむしろ旧型のNikkor-s Auto 5.8cm F1.4の強烈な個性のほうが評価されるのだと思う。もちろんそれもまた時代のトレンドである。当時は性能不足と判断された各残存収差も現代においてはかけがえのない個性である。しかも当時はポット修正といってばらつきのあったガラスのロットにあわせて設計を修正していたそうだ。そんな手作りの時代のレンズはどことなく暖かく写真表現においては心強い。
大口径標準レンズの黎明期に誕生した不完全だが美しいこのレンズは21世紀に入りようやく評価されていくのだと思う。