ジョンとポール、2人の天才が拮抗する

ビートルズ過渡期のアルバム

 ビートルズの解散は1970年。

僕がビートルズを最初に知ったのは、音楽ではなく、映像だった。ビートルズを特集したテレビ番組か何かだったと思う。ライブ映像やレコーディング風景、4人の姿を収めたいくつもの古い映像がブラウン管に映し出されていた。多分、僕は小学生だったと思う。81年生まれの僕にとってビートルズは生まれたときから伝説であり、歴史的事件の如く映像に封じ込められた1つの記録だった。

 その記録を眺めながら、僕は彼らに対して大きく2つのイメージを持った。1つは前期のアイドルバンドとしてのビートルズ。もう1つは、後期のアーティスト然としたビートルズ。

ちょうどそれは、モノクロとカラーの違いだった。モノクロ画面の4人は揃いのスーツで演奏し、たくさんの女の子たちに追いかけられる。映像がカラーになると、4人はなにやらシリアスで複雑そうな歌を歌い、ひげなんかを生やしてちょっと気難しそう。2つのビートルズはあまりにかけ離れていて、当時の僕はずい分と怪訝に思った。

僕がいま最も好きなビートルズのアルバムはこの『RUBBER SOUL』。リリースは1965年。

RUBBER SOUL』の1つ前のアルバムがアイドル映画のサントラ『HELP!』であり、1つ後のアルバムがスタジオワークをフルに活かし始めた『REVOLVER』である。アイドルからアーティストへ、ライブからスタジオへ、明快なポップソングから内省的世界観へ。まさにあのモノクロ・ビートルズとカラー・ビートルズの、ちょうど転換期にあたるこのアルバムが僕は一番好きなのだ。

このアルバムの魅力は、前後期2つのビートルズの両面を併せ持つ点にある。ただし、併せ持つといっても「半分ずつ」という意味ではなく、双方の良さが100%発揮されつつ、さらにそれが混ざり合っているのが『RUBBER SOUL』だ。

当時のビートルズは、バンドとしての新たなあり方を模索していた。年間にアルバム2枚とシングル4枚のリリース、さらに英米を中心として膨大なテレビ・ラジオ出演と取材、そしてライブと、デビュー以来続く過酷なスケジュールの反動から、1曲1曲に対してより作り込みをし、サウンドの完成度を高める方向へとシフトし始めていた。

そのアティチュードは次の『REVOLVER』で体現され、さらにそれが『Sgt. Pepper Lonely Hearts Club Band』という傑作へとつながっていくのだが、この『RUBBER SOUL』では凝った音作りを見せつつも、まだ初期の面影、すなわちライブバンドっぽさ、1発録りの勢いというものが残っている。この均衡は、ジョンとポール、2人のソングライターの実力がちょうど拮抗していることによって成立している。

初期ビートルズを牽引してきたジョンは、恋のときめきを歌うことから普遍的なテーマを音楽にすることへ関心の対象を移し始め、<NORWEGIAN WOOD(ノルウェイの森)>や<GIRL>といった静謐で美しい曲を作り、バンドの新たな方向性を指し示した。

そしてポールは、ブラックミュージックの呪縛から徐々に解き放たれて、ポップソングライターとしての才能を開花し始めた。<DRIVE MY CAR><I’m Looking Through You>といった楽曲は初期ビートルズの雰囲気を残す、バンド感溢れるポップソングである。

前述のように、4人は新たなバンドのあり方を模索し始めていた。このアルバムがそのような時期にあって中途半端にならず、“転換期のアルバム”として完成されているのは、ジョンとポール、2人の天才が同時にその才能を発揮しているからだ。『RUBBER SOUL』以前はジョンが強く、逆に以降はポールが強くなる。このアルバムはジョンからポールへとバトンが渡される、その一瞬に作られたのだ。

 14曲全てが大好きなのだけど、強いて挙げるなら<IN MY LIFE>。中学生の頃からずっと聴き続けている曲。思い出深いのは<NOWHERE MAN>。歌詞の世界がまるで自分のことを言っているかのようで、何度も繰り返し聴いた。あまりに自分にフィットしていたので、そのままtheatre project BRIDGEの第4回公演『PATRICIA』では、クライマックスにフルボリュームで流した。

湘南・江ノ電を舞台にした

海風薫る抒情詩

日本のロックバンド、アジアン・カンフー・ジェネレーションの5枚目となるアルバム。まず、収録曲のタイトルを見て欲しい。

#1 藤沢ルーザー

#2 鵠沼サーフ

#3 江ノ島エスカー

#4 腰越クライベイビー

#5 七里ヶ浜スカイウォーク

#6 稲村ヶ崎ジェーン

#7 極楽寺ハートブレイク

#8 長谷サンズ

#9 由比ヶ浜カイト

10 鎌倉グッドバイ

 湘南地方に馴染みのない方はわかるだろうか。全ての曲に江ノ電の駅名が含まれているのだ。江ノ電とは、

神奈川県
の藤沢と鎌倉を結ぶ単線の電車のこと。海岸沿いや、海辺ののどかな町並みの間をゆっくり走る、潮の香り豊かな電車である。この『サーフブンガクカマクラ』は、全曲が江ノ電沿線の風景をモチーフにしたコンセプチュアルなアルバムだ。

 僕は20代の初めまで江ノ電の近くで暮らしていたので(2曲目<鵠沼サーフ>の鵠沼駅なんてものすごく近所)、沿線の風景には思い入れが強い。その分、湘南地方をテーマにした作品にはかなり冷徹で批判的になってしまう。特にこの『サーフブンガクカマクラ』は、青春期の目を通した風景が歌われており、まさに僕自身の経験と重なることから、聴く前は「ヘンな曲ばっかりだったら承知しないぞ」と、かなり警戒心を抱いていたが…。

 結論から言うと、大満足!

アジカンというと、ディストーションを効かせた歪んだギターサウンドが特徴の、シリアスな世界観を持つバンドだが、このアルバムではそういった印象は薄い。ボーカル後藤正文の書く歌詞は散文調ではなく抒情詩のようであり、イメージのバラバラな単語がつながり合うことで青春の甘酸っぱさやほろ苦さが表現されている。いつもはシリアスに響くギターの歪みも、このアルバムでは、初めてバンドを組んだ高校生が嬉しくてたまらずに弾いているような、無闇なパワフルさを感じさせる。

聴いていると江ノ島の抜けるような青空が浮かび、サウンドの間から磯の匂いが薫ってくるよう。

10曲の展開がとにかくニクい。

1曲目<藤沢サーフ>はかなり勢いよく、重く入る。2曲目<鵠沼サーフ>になると少しずつ重さがとれて、続く<江ノ島エスカー>で一気にフワッと音が軽くなる。

この展開、江ノ電に乗ると実感できる。海への距離なのだ。電車が街から海に近づくにつれて、曲も明るく跳ねるような音へと移行しているのだ。

そして、本当の『サーフブンガクカマクラ』の旅はここから。江ノ島駅を出た電車は、腰越の商店街を抜けて、いよいよ海に面した海岸線を走る。「海に来た!」という興奮も徐々に落ち着いて、ぼんやりといい気分で風景を眺めるようになる。これに呼応して、<腰越クライベイビー>は3拍子の曲、続く<七里ヶ浜スカイウォーク>はミドルテンポと、アルバム中盤は海を眺めながらのリラックスした旅だ。

やがて電車は海を離れ、静かな町並みのなかへと入っていく。鎌倉山のまぶしい緑が、窓のすぐ側まで迫っている。稲村ヶ崎、極楽寺、長谷、と落ち着いた景色が続くアルバム後半は、彼女と別れてクヨクヨする男の子、あるいは「そんなことがあったな」と懐かしく思い出す大人の青春回顧、といった感じだ。

後半のハイライトは9曲目<由比ヶ浜カイト>。旅の終わりが近いことを感じさせる切ないチューンだ。

そして、ラスト<鎌倉グッドバイ>で文字通りお別れになる。この「グッドバイ」が、単に旅の風景に別れを告げているのではなく、もうひとつ何か別のものにさよならをしていると感じさせるのが実にいい。

ビョークの歌うジャズ

彼女の声を堪能できる1枚

 「ビョークが歌うジャズアルバム」と説明するのが一番早い。1990年リリース。

 

正確にはビョーク名義ではない。ジャケットには小さく「Bjork Guomundsdottir & trio Guomundar Ingolfssonar」と載っているが、この名義で他にも活動をしているわけではないので、この『Gling-Glo』というアルバムを作るために集まったメンバーをそう仮称した、というだけだろう。そのため、今回はアーティスト名義は載せていない(ほとんどのレコードショップではビョークのコーナーに置いてある)。ちなみに、定かではないが、ドラムのGuomundar Steingrimssonはビョークの父だったと記憶している。

 ビョークがジャズを歌うとどうなるか。想像しづらいかもしれないが、これが不思議と、いやピッタリとハマっている。90年と言えばシュガーキューブスの活動期と重なっており、ビョークのボーカル、特にバンドのなかでのボーカルという点では脂がのっている時期ではある。しかしそれにしても、まるで最初からジャズ・ボーカリストであったかのようなハマり具合だ。

 サウンドは全体的にソフトだ。ドラム、ベース、ピアノというシンプルな音に乗せて、全16曲、柔らかいメロディをビョークは歌う。ただし、しっとりした雰囲気というわけではない。メロディは丸みを帯びているものの、音符はまるで粒のように飛び跳ねていたり、わざと上下左右を行き来したりと、非常に元気がいい。ソフトで柔らかくも、聴いているこちら側を励ましてくれるような逞しさがある。

クークルでは憑かれたシャーマンのような危うさ、シュガーキューブスではやんちゃな女の子のような可愛らしさと、さまざまな表情を見せるビョーク。このアルバムの彼女からは母性的な、心地のよい温かさを感じることができる。特に1曲目に収録されたタイトル曲「Gling-Glo」はまるで子守唄のようにも聴こえる。変幻自在とはまさにこのことだろう。

収録されている16曲のうち、14曲は彼女の母国語であるアイスランド語で歌われている。アイスランド語が理解できる人(多分あまりいないでしょう)でなければ、このアルバムは雰囲気だけを楽しむ他ない。

だが、その分ビョークの声だけを心ゆくまで堪能できる1枚でもある。音と声だけで何かしらを表現できるアーティストなので、歌詞の意味がわからなくても、充分に“聴く”ことができる。

ビョークの声は非常にクセが強い。もちろんそれが彼女の魅力なのだが、なかなか馴染めないでいる人も多いと思う。しかもソロ時代に入ってからは楽曲がやや難解になった傾向があるので、ただでさえ敷居が高いイメージもある。

ビョークを聴いてみたいけど、なんだかとっつきづらい。そう感じている人には是非この『Gling-Glo』をおすすめしたい。

ボーカル、ドロレスの魅力が詰まった

クランベリーズのファーストアルバム

 アイルランドのバンド、クランベリーズのファーストアルバム。リリースは1993年。

 アイルランドは北海に浮かぶ小さな国だが、世界のミュージックシーンにおける存在感は大きい。代表的なアーティストを挙げてみても、U2、エンヤ、セネイド・オコナー、クランベリーズ、コアーズ、さらに古くはヴァン・モリソン(ゼム)など、そうそうたる面子だ。

だが、彼らのセールスの規模だけを指して、存在感は大きいと書いたわけではない。アイルランドのアーティストには、アイルランド的、としか形容しようのない独自のセンスがある。そして、この独自のセンスが、ときに世界のミュージックシーンを大きく牽引する役目を果たしてきたのだ。

 しかし、この独自のセンスを説明するのは難しい。例えば、彼らにはサウンド的な面での強い共通点があるわけではないのだ。なので、「こういうのがアイルランドだ」とは示しづらい。ただ、それぞれのアーティストがイギリスにもアメリカにもない、独特の「アク」のようなものをもっている。

ラジオやMTVでいろいろな曲が流れてくる。そのなかでフッと気になる曲がある。好きか嫌いかは別として、なんだかこのアーティストはどこか違うぞ、と思う。気になって調べてみるとアイルランドのアーティストだった。アイルランドとの出会い方はこういうパターンが多い。

アイルランドのアーティスト同士には共通点はない。だが、同ジャンルの他の国のアーティストと聴き比べると、どこかちょっと違う。その「ちょっと違う」感じ、メインストリームからの微妙な距離感が、アイルランド的なのである。

今回紹介するクランベリーズで言えば、ボーカルのドロレス・オリオーダンの歌声がなんとも独特だ。彼女の歌い方は非常に特徴的で、裏声と地声の境界線を絶えず行き来するような、不安定な響きがある。その下手と紙一重の危うい感じは、しかし同時に深い憂いを込めた祈りのようにも聴こえるから不思議だ。こういう歌い方を一体どういう経緯で会得したのか、さっぱりわからない。

ロックのボーカリストには、誰が聴いても「上手い!」と思うような歌い方をする人は、あまり多くない。それは下手でも通用するという意味ではなく、そもそも巧拙を超えたところにロックというジャンルの味わい方があるからだ。ドロレスのボーカルは、まさにロックの魅力を改めて教えてくれる。

もちろん、クランベリーズの魅力は彼女の歌声だけではない。多彩な音色を鳴らすギター、変則的かつメロディアスなドラムとベース。さらに鍵盤やストリングスなども効果的に使われており、ファーストアルバムながらもすでにかなり洗練されている。楽器がこってりと絡み合いドロレスのボーカルを支えることで、単なる「歌」に陥ることなく、全てがクランベリーズというバンドの「曲」として成立している。

2枚目、3枚目になると、かなりオルタナ色が強くなるのだが、このファーストはポップであり、個人的にはドロレスのボーカルと曲のマッチングはこのアルバムが一番適していると思う。彼らの代表曲「Dreams」もこのアルバムに収録されている。

原作以上の色彩を浮かび上がらせた

“容疑者X”堤真一の演技

 昨夏、『デトロイト・メタル・シティ』『20世紀少年(第一部)』と、マンガを原作とした映画が公開された。両マンガともにファンである僕は、映画の出来に落胆した。原作ファンが実写化作品に失望する理由は一つしかない。原作の面白さが損なわれているからだ。

『デトロイト・メタル・シティ』は主人公の成長譚という要素を加えてしまったがために、本質であるはずのギャグ部分が霞んでしまったし、『20世紀少年』は原作の膨大なドラマを上映時間に詰め込むために、物語の進行上必要なシーンを切り貼りしただけの、なんとも無味乾燥な映画になってしまった。

原作ものの実写化は往々にして原作の持つ魅力に届かず、「実写化した」というだけのイベントになってしまいがちである。そんなことを考えていたので、『容疑者Xの献身』もあまり期待していなかった。だが観終わって驚いた。マンガと小説、メディアの違いはあれど、この映画は原作ものの実写化成功例だった。

周知の通り、この映画の原作は東野圭吾の「探偵ガリレオシリーズ」。もともとは短編の連作小説として1996年から雑誌上でスタートした。現在『探偵ガリレオ』『予知夢』として文庫化されている。これを基にしてフジテレビが『ガリレオ』というタイトルで2007年にドラマ化する。映画『容疑者Xの献身』は、05年に上梓されたガリレオシリーズ初の長篇(タイトル同名)を原作として、ドラマの派生版という形で映画化されたものだ。

原作は非常に淡々としている。冒頭に事件が起き、それを追う“ガリレオ”湯川や警察の様子が、ただ時間の経過に沿って描かれる。『白夜行』などに見られる、登場人物たちの思惑が渦をなして進むようなダイナミズムはない。あまりに淡白なので、このまま終わってしまうのではないかとフラストレーションを感じてしまうほどだ。

このフラストレーションは最後の最後で一気にカタルシスに昇華する。“容疑者X”石神が施したトリックが解明される場面がそれだ。石神が一体何をしたのか、真実が湯川の口から語られた瞬間は、驚嘆の一語に尽きる。『容疑者Xの献身』という、やや語呂の悪いタイトルの意味が、ようやくラストで真に理解できる仕掛けだ。

実写化に際しての最大の課題は、この石神というキャラクターの存在感をいかに表現するかだったはずだ。そしてそれは成功した。石神の描写は実に丹念で、且つ時間もたっぷりと使われている。その分、ドラマ版とは雰囲気が異なっている。例えば、ドラマでは毎話のお決まりとして湯川が謎を解くときにあちこちに数式を書きなぐるシーンがあるが、映画ではそれがなく、湯川のエキセントリックさは鳴りを潜めている。ドラマからの継投キャラクターも、登場場面はごく限られている。だが、ドラマ版と区別したことで、原作が本来備えていた「石神の物語」という部分が、原作以上に鮮やかな色彩を伴って描かれている。

そして、なんといってもこの映画の「勝因」は、石神役に堤真一を配したことだろう。彼が演じる石神は不気味で、そして純粋だ。彼の演技は石神という紙上のキャラクターに深い陰影と体温を与え、原作以上の石神を作り上げている。特にラストシーンにおける松雪泰子との場面は素晴らしい。物語のなかで唯一石神が本心を露わにする場面だが、原作の「魂を吐き出すような」という描写の如く、圧巻というべき演技を見せてくれる。

「幕末」を描かずに

一人の女性の人生を描いた快作

 とても面白く、見応えのあるドラマだった。

 正直に言えば、放映開始前はあまり期待していなかった。まず、少し前の「大奥ブーム」に乗った、安易な商業精神が気に食わなかった。なにより主人公の篤姫という存在が気がかりだった。篤姫は、歴史上特にこれといった功績のない第13代将軍徳川家定の、その正室にすぎない。幕末という日本史の一大転換期を描くには、主人公の人間関係、ドラマの主要な舞台があまりに限定されているため、やがては西郷隆盛や大久保利通、あるいは坂本龍馬といった人物のドラマ部分、つまり主人公不在のシーンが増えて、空疎なドラマになってしまうのではないかと思っていたのだ。

 確かに他の大河ドラマに比べると、主人公不在のシーンは多かった。また、大きな政治的事件もサラッと描かれる程度であり、江戸から明治へ変わる瞬間など、ほとんどナレーションだけで過ぎていった。

 だが、『篤姫』は面白かったのだ。

その理由はとても単純で、「時代」を描くことを最小限に留め、篤姫という一人の個人の「人生」をひたすら丹念に描いたからだ。

 大河ドラマは一年を通して一人(あるいは複数)の人物の生涯を描くのが基本スタイルだ。だが、実際に“描く”ことのできた作品はわずかで、主人公を“追う”だけの作品が大半だったように思う。脚本やキャスティングなどの問題もあるのかもしれないが、最大の原因は「大河ドラマ」であることから生じる、視聴者と制作者双方の期待の大きさではないだろうか。

 大河ドラマは一つのイベントのような感がある。誰を主人公にするのか、キャスティングはどうなるのかといった枠組みに視聴者も制作サイドも盛り上がりがちだ。一人の人物の生涯を描くのが基本とは言え、大河ドラマはこのようなイベント性を帯びた視聴者の関心と期待から免れ得ない。通常の時代劇と違って、なにせ日本最大規模のドラマなのだから無理もない。

 問題は、一人の人物の一生を描くという力点が、例えば合戦シーンをいかに細かく再現するかといった単なる映像美、あるいは主人公に感情移入させるために「憂国」「愛」などといった薄っぺらな動機づけなど、安易なエンターテイメント性に走ってしまいがちなところだ。

 これは、主人公の日本史(特に政治史)における存在感の重さと比例する。ヒーローやヒロインはすでに誰もがその生涯を知っているため、ドラマ化する際には前述のような要らざる付加価値が多くなる傾向がある。その点篤姫は、時代の中枢からやや離れたところにいる、いわば傍流の人物であったことで、そのような問題から無縁だったといえるのかもしれない。そういえば、人の一生を描いたという点では傑作だった1987年の『独眼竜政宗』の主人公、伊達政宗も日本史においては傍流の存在だ。次回、09年大河ドラマ『天地人』の主人公、直江兼続もまた極めて傍流の存在だ。

 今月14日に放映された最終回、篤姫が死を迎えたとき、僕は彼女の枕頭でその死を看取った気がした。歴史上の人物としてではなく、一人の人間としての篤姫の一生が、計50回の放送のなかにあったのだと思う。満足感でもなく、達成感でもない、一人の人間の一生を確かに見たのだという、静かな気持ちだった。

 明日26(金)から3夜連続で総集編が放送される。また、完全版DVDも前半にあたる第1集がすでに発売されており、後半の第2集も2月には発売予定である。

美しくも生々しいハーモニーが

胸の奥を震わせる

10年近くも前、友人と二人で夜中にドライブをしていたときのこと。カーステレオから流れてきたその曲に、僕らは延々と続けていたお喋りをやめて、聴き入った。「サウンド・オブ・サイレンス」だった。

「サウンド・オブ・サイレンス」を聴いたのは、そのときが初めてではなかった。むしろ何度も何度も、数え切れないくらい聴いていた曲だ。それなのに、まるで初めて聴いたかのような新鮮な衝撃があった。心の奥底がブルブルと震えて止まらなかった。

『サウンド・オブ・サイレンス』はサイモン&ガーファンクルのセカンドアルバムである。リリースは1966年。先行シングル「サウンド・オブ・サイレンス」とこのアルバムの大ヒットにより、彼らはトップアーティストの仲間入りをする。

その後70年に5枚目のアルバム『明日に架ける橋』をリリースして解散するまで、活動期間は短いものの、「ミセス・ロビンソン」「ボクサー」など、彼らの残した名曲は枚挙に暇がない。

81年、彼らはニューヨークのセントラルパークで一夜だけ復活ライヴを行う。その時の観客数がすごい。53万人である。彼らだけで、あのウッドストック・フェスティバルを上回る観客を集めたことになる。

サイモン&ガーファンクルの楽曲にはフォークやブルース、ボサノヴァなど、さまざまなアレンジがあるが、その真髄は二人のハーモニーだ。

しかし、彼らのハーモニーはアカペラグループのそれとは異なる。アカペラは声を音符に還元し和音として構築する、ある種職人的でストイックな音楽であるのに対し、サイモン&ガーファンクルのハーモニーはどこか人間臭い。耳元で語りかけられているかのような生々しさがある。以前、アイルランドの女性コーラスグループCeltic Womanが「スカボロ・フェア」をカバーしたことがあったが、ハーモニーの完成度が高いばかりで、サイモン&ガーファンクルが歌うときのような、あの荒涼とした寒々しいほどの寂寥感は希薄だった。

彼らのハーモニーは美しいと同時に、どこかザラついていて、胸の奥をひっかく。だからこそ、50年近く経った今でも「サウンド・オブ・サイレンス」は心を震わせる。

現在、サイモン&ガーファンクルは数種類のベスト盤が出ており、「入門編」には事欠かない。だが、もしそこで気に入ったなら、是非オリジナルアルバムで聴いて欲しい。アルバムごとに雰囲気が異なり、ベスト盤では味わえない聴き応えがある。

また、彼らはライヴでの演奏も素晴らしい。僕はスタジオアルバムの音源よりもライヴの方が個々の楽曲のもつ風合いが感じられて好きだ。前述のニューヨークで行われた復活ライヴは『The Concert in Central Park』というアルバムにほぼ全曲収録されている。オープニングに演奏した「ミセス・ロビンソン」は鳥肌が立つほどかっこいい。

暗く重い空気が紡ぎだす

主人公たちとの不思議な共有感覚

 作品に流れる空気は暗く、重い。不景気のあおりで倒産寸前の零細企業や、借金の返済に追われ、娘の修学旅行費用も払えないほどの低所得家庭といった、物語の舞台や物理的背景だけが理由ではない。登場人物たちは皆孤独であり、心に刻まれた傷は深い。そしてその傷は物語のなかでさらにえぐられ、ぐいぐいと傷口が広げられ、その傷口のなかに黒い闇がのぞく。物語を覆うのは、雨の降った夏の日の夜のような、閉塞感のある湿気を含んだ重い空気だ。ラストにいたってもこの空気に光は差し込まず、容易な救いは訪れない。

 『柔らかな頬』の主人公はカスミという名の30代の女性。ある日、5歳になるカスミの長女が消える。事件なのか事故なのか、手がかりはまったくない。やがて警察の捜査は打ち切り同然となり、カスミは一人で娘を探すことになる。不倫相手の石山との別れ、娘の捜索を諦める夫、周囲から向けられる、痛ましいものを見るような視線。一つひとつがカスミを孤独に追い込む。事件から何年も経ち、新興宗教や未解決事件を特集するテレビ番組にまですがるカスミは、娘を探すことが自分の生きる目的になってしまっていることを自覚している。そして、残った次女を、長女ほどには愛せない自分に絶望する。

 『OUT』の主人公は弁当工場で深夜のパートをする40代女性、雅子。ある晩、同僚の弥生が暴力を振るう夫を殺してしまう。雅子は別の同僚、ヨシエと邦子を仲間に引き入れ、弥生の夫の遺体を切断し捨てる。物語の前半はいろいろな登場人物に焦点を当てながら進むが、後半はほぼ雅子だけに絞られる。ヨシエと邦子は金欲しさに死体の処理を手伝うが、雅子は違う。夫との家庭内別居、雅子と口を利こうとしない息子。深く根を張った孤独が、新たな人生への扉のごとく雅子を死体の処理へと向かわせる。

 カスミも雅子も、孤独に苦しみ、脱出を願っている。一体何が彼女たちを孤独にさせたのか。一体どこでボタンを掛け違えたのか。具体的に挙げて、一つひとつを修復できる時期はとうに過ぎ去っている。事件をきっかけに孤独になったのではなく、事件をきっかけにカスミも雅子も、自身が回復不能なまでの孤独に陥っていることを自覚したのだ。だからこそ彼女たちの脱出への願いは悲痛だ。

 しかし、作品で描き出される闇の深さは、間違いなく生への強烈な意志だ。より良く生きたいと願うほど、より深く闇を直視し、傷を抱え込まなければならないと言ったら、悲観的すぎるだろうか。だが、ページをめくるたびに生への渇望感は強くなるのだ。

 カスミも雅子も、ラストにいたっても孤独は癒されず、脱出を願う毎日がこれからも延々と続くだろうという予感しかない。しかしこれは、本を読み終えても僕の人生は続くことと同じだ。救いなどなくても毎日を生きていくしかないという諦念は、2人の主人公との不思議な共有感覚を抱かせる。2人の代わりに、僕のなかに光が差し込んだ気がした。

たった一度会っただけの「彼」を追って

疾走感溢れるラブストーリー

今敏監督のアニメ映画『千年女優』は、爽快感のあるラブストーリーだ。

物語は、30年前に映画界を引退した女優、藤原千代子が自身の半生を振り返るという形で始まる。太平洋戦争前夜、女学生だった千代子は雪の降る学校の帰り道、ある青年と出会う。彼は警察に追われており、千代子は咄嗟に自宅に匿う。

だが翌日、千代子が学校へ出かけている間に、青年はいなくなる。特高に隠れていることがばれたのだ。千代子は彼に一目会おうと駅へ向かって走る。息を切らしてホームに駆け込む。彼の乗り込んだ列車は動き出したところだった。千代子は列車を追う。が、追いつかない。

千代子の脳裏に、昨夜交わした彼との約束が蘇る。「助けてくれたお礼に、いつか君を僕の故郷へ連れていこう。僕の故郷はとても寒いところでね、今の季節は辺り一面雪になるんだ」。遠く離れていく列車を見つめながら、千代子はいつか必ず彼に会いに行こう、そして約束を果たそうと心に決める。

その後の千代子の人生は、青年を追うことに費やされる。映画界に入ったのも、このことがきっかけだ。満州でロケをする映画に出演を依頼されたのだ。彼の故郷は寒いところ、それは即ち満州ではないかと千代子は考えたのだ。奇しくもそのデビュー作で彼女が演じたのは、思い慕う男性を追って大陸へ渡る少女の役だった。

満州で青年を見つけられず失意の千代子をよそに、女優藤原千代子は一躍スターダムに躍り出て、次から次へと映画に出演する。幕末の京都を舞台にした時代劇では、新撰組に追われる「彼」を逃がす町娘の役。戦国時代を舞台にしたアクション映画では、敵に捕らわれた「彼」を助けるためにくの一に身をやつす某国の姫の役。千代子が演じるのはいつも、一人の男性を追いかける女の子の役だ。千代子の演じる役と千代子自身の人生が重なり、溶け合い、映画『千年女優』は浮遊感と疾走感を帯び始める。

太平洋戦争は終わり、戦後の復興に伴って映画界は黄金期を迎える。千代子は中年と呼ぶべき年齢に差し掛かった。初めて彼に会ったあの日から、もう何十年も過ぎている。その間に千代子は幾度となく涙を流し、苦しんできた。それでもなお、千代子は「彼に会いたい」という気持ちを失わない。

映画中盤、千代子は叫ぶ。「こうしている間にも私はあの人のことをどんどん好きになっていく。毎日毎日、私はあの人のことをどんどん好きになる!」。

人を好きになることに理由などなく、「好きだから好きなんだ!」ということしかない。『千年女優』の素晴らしい点は、限界ギリギリまでスピードをあげたメタフィクションという手法で、人を好きになる気持ちそのものを観客に伝えきってしまうところだ。「一目会っただけの人を何十年も好きでいるなんてウソだ」などという突っ込みを抱くどころか、過剰な設定がむしろ清々しさを生んでいる。

最後に出演した映画で千代子が演じたのは、「彼」を追って何十光年もはるか彼方に向けて旅立つ女性宇宙飛行士の役だった。1度出発したら2度と帰ってくることのない旅。だが、彼女の顔は笑っている。「今度こそ彼に会える」という期待を胸に、千代子を乗せたロケットは地上から切り離される。

ところで、肝心のあの青年がその後一体どうなったのか。実はラストシーン近くで、答えは明かされるのだ。千代子はその答えを知らない。そしてこの答えをどう思うかは、観る者によって違うだろう。

救助の瞬間から始まった

遭難者の再生の物語

 1992年12月、年をまたいで行われる日本からグアムへのヨットレースに、佐野三治は6名の仲間と挑戦した。油壺から出航して3日後の夜、彼ら7人を乗せた「たか号」は転覆する。その後27日間、著者は太平洋上を漂流し、生還する。この本はその手記である。

 遭難は海の場合と山の場合と大きく2つに分けられる。もし自分が遭難してしまったら、山よりも海の遭難の方が恐怖を感じると思う。山は自分の足で自由に歩けるが、海の上を歩くことはできない。山の中で呼吸はできるが、海の中で呼吸はできない。人間が根本的に生存を許されない世界に放り出されるのだから、著者の感じた恐怖はどれほどのものかと思う。その恐怖はどんなものなのか。食べ物も水も無い、自分がどこにいるかすらわからない、なのに死は確実に忍び寄ってくる。そのような状況で人は何を思うのか。

 7人のクルーのうち、転覆した瞬間に蛇輪を握っていたクルーは、沈没する船とともに沈んでしまう。残された6人は、ライフラフトという、屋根のついたゴムボートで脱出する。食料は1日につき6人でビスケット1枚。水もほんのわずかしかない。最初のうちはお互いを励ましながら、救助の瞬間を待っていた。だが身体の衰弱を止めることはできない。

 漂流して12日目、ついに死者が出る。クルーのリーダー的存在だった人だ。そこから一気に死が続く。13日目に3人、そして18日目、5人目の死者を水葬にすると、ついに筆者は一人になる。

 その後9日間、たった一人で漂流を続けた後、フィリピン船籍の船に発見されるのだ。計27日。およそ1ヶ月間、死と隣り合わせのまま、海の上を漂い続けたのだ。

 ライフラフトから引き上げられ、フィリピン船の甲板に下ろされた瞬間、著者は「助かった」ではなく「終わった」と思ったという。

 この手記はここでは終わらない。本の後半は、救助された後のことが綴られている。病院でのリハビリ、マスコミの報道。特にクルーの遺族との対面と、そこに至るまでの著者の葛藤には多くの紙面が割かれている。「自分だけが助かった」という事実が、遺族との対面を前にした著者の胸に重く、時に罪悪感となってのしかかる。

 著者一人だけが助かったことはもちろん、そもそもの「たか号」の転覆事故も、言うまでもなく偶然である。だが、不運な事故と生還という僥倖が、罪などあろうはずのない著者に、一生外せない十字架を背負わせた。コップ1杯の水の美味しさ、ベッドで眠れる安らぎ。そういった著者にしか触れられない喜びがある一方で、著者にしか抱えられない苦しみもあるのだ。

運命という言葉をかけてあげたくなる。「生きて帰れたのだから、それでいいじゃないか」と言いたくなる。だが、遭難、そして生還という「不条理」を受け入れていく帰国後の彼の生活には、他人には立ち入ることのできない厳しさがある。だが、苦しみながら新たな人生を再生させていく著者の姿には、普遍的な感動がある。

この本は遭難から救助にいたるまでの冒険譚ではない。救助の瞬間に呟いた「終わった」という言葉を境にして始まった、筆者の再生の物語だ。