楽器も歌も、全てがカゲキ!

なのに涙が溢れるのはなぜだろう



 不気味な旋律を高速で奏でるピアノ、爆竹のようなドラム。不協和音に満ちたイントロを経て、歌という名の絶叫が始まる。

「踊れ踊れ踊れ獣獣獣、歌え歌え歌え獣獣獣」

ノッケから叩きつけられるものすごい緊張感は、9曲32分間、途中で切れるどころかラストまで上がり続け、メーターを振り切って終わる。

 大坂出身のバンド、ミドリの『セカンド』を聴いた時の衝撃を、どう説明したらよいか、なかなか言葉が見つからない。過激なサウンドに過激な歌詞、ミドリの生み出す楽曲はどれもが最高にパンクでアナーキーだ。

 ・・・なのに、である。なのにこのアルバムを聴いていると、涙がこぼれそうになるのだ。

 かつて桑田佳祐は、サザンのリリックを「意味不明」「日本語の語法がおかしい」と批評する評論家やマスコミに対して、「そんなもん、ただの歌詞じゃねえか」と言い放った。だが、評論家もマスコミも全員が桑田に対して悪意を持っていたわけではなかっただろう。おそらく彼らは知りたかったのだ。なぜ、明らかにノリ優先でつけられた歌詞が、こんなにも心に響くのかを。

 ミドリの後藤まりこ(ボーカル/ギター)が綴る歌詞も、桑田と通じるところがある。彼女の歌詞は、歌詞カードを読んで理解する類のものではない。むしろ字面だけだと、曲によってはグロテスクなものもある。だが、ひとたび音楽として肉体を得た彼女の言葉は、胸の奥底をピンポイントで突き刺す威力を持つのだ。

 後藤まりこは実はものすごく普通のことしか歌っていない。「あたしをもっと大切にして」と言う。「お願い一人にせんといて」「ワガママいっぱい聞きなさいよ」と言う。「あたしはあんたとセックスがしたい」と言う。過激さでもグロテスクでもなく、誰もが抱く普通で、切実で、ピュアな願いが彼女の歌詞の本質だ。

 だがそれを現実に口にするのは難しい。切実であればあるほど、ピュアであればあるほど、断られるのが怖い。恥もあるし、「寒い」と思われたくない見栄もある。“普通”であるはずの気持ちは、結局は少女漫画や恋愛映画のなかで仮託されるしか行き場を持たないのだ。

 その欺瞞をせせら笑うように、後藤まりこは「セックスがしたい」と叫ぶ。激しく鳴らされる楽器は、彼女のプリミティブな衝動そのものだ。そして、意味よりも音へのノリを重視して紡がれた歌詞だからこそ、言葉は爆音の奔流と一体となって、感情そのものを叩きつける。喉の奥から絞り出されるような彼女の声に、心を覆っていたカバーは外されて、思わず涙が出そうになる。

 この『セカンド』はタイトルの通りミドリのセカンドアルバムにあたる。現時点での最新のフルアルバムは、サードの『あらためまして、はじめまして、ミドリです。』(その後1枚ライヴアルバムがリリースされている)。完成度の点ではサードが上だが、後藤まりこの強烈な才能が荒々しい形のまま録音されているのは『セカンド』の方だ。

 『あらためまして~』はジャケットのインパクトがすごい。theatre project BRIDGEの前回公演『アイラビュー』の準備期間、チラシ制作の打ち合わせの席上で、僕が「こんな感じがいいんです」とデザイナーさんに提示したのは、このサードのジャケットイラストだった。

ロックミュージックはいつも

退屈な教室で産声をあげる

 僕は中学と高校でバンドをやったことがある。両方とも学校の文化祭のために組んだ、まあよくある話のバンドで、卒業後も定期的に活動をしようとかそういった話にはならず、今ではいい思い出である。だが、やっていた当時は思い出作りでもなんでもなくて、真剣そのものだった。

 中学生、高校生にとって「バンドをやる」ということは、小さな革命だ。「もしかしたらモテるかも」という、周囲に巻き起こる革命を妄想しつつ、しかし本当に革命だったのは、みんなで楽器を演奏するのはとてつもなく楽しい、という発見だった。もちろん演奏はヒドいし音は割れるし、客観的には惨たらしいのだけれど、放課後の教室でアンプのボリュームを全開にして演奏するというのは、おそらくこの世でもっとも興奮することなんじゃないかと思う。バンドという言葉を聞くと、僕は体育館のステージでも練習スタジオでもなく、放課後の教室が浮かぶのだ。

 そんな体験があるからだろう。バンドを題材にした作品は映像にしろ活字にしろ気になるし、ものすごく感情移入する。少し前になるがハロルド作石のマンガ『BECK』は何度も読み返した。山下敦弘監督の『リンダリンダリンダ』(‘05)を観たのも、やはりバンド、しかも高校生のバンドが主人公だったからだ。

 文化祭の直前、ボーカルが抜けてライヴができなくなるピンチに瀕した女子高生3人は、たまたま目の前を通りかかった韓国人留学生を半ば強引にボーカルに誘い、数日後に迫った文化祭当日に向けて練習に励む。演奏するのは、ブルーハーツ。

 ・・・というあらすじは事前に知っていて、いわゆる青春映画のひとつだと勝手に思っていたのだが、実際はまったく違っていた。『リンダリンダリンダ』は歴とした“ロック”を描いた映画だったのだ。

 想像と違い、この映画は全編にわたり静かなタッチで進行する。無言のシーンが多く、台詞があってもボソボソと喋るだけだ。バンドメンバーである女子高生たちは、困難を乗り越えて盛り上がったり、感極まって泣いたりなどしない。

 僕は彼女たちを、ものすごくリアルだと思う。無気力だからリアルなのではない。感情の起伏が見えないのは、ただ退屈なだけだ。シーンの端々からひしひしと伝わる彼女たちの退屈が、とてもリアルなのだ。そしてその退屈が、彼女たちを<リンダリンダ>へと駆り立てる最大の、そして唯一のバックグラウンドだ。もちろん、画面はそのような動機も何も説明はしてくれない。だが伝わってくる。退屈は常にロックの源泉なのだ。

 映画の前半、バンドのギター担当である香椎由宇の台詞がとても印象的だった。本番数日前というのにボーカルを探している香椎由宇は、元メンバーの女の子に嫌味を言われる。「そんなことして何の意味があるの?」。香椎由宇はこう答える。「別に意味なんかない」。

 ただやりたいからやる。意味も見返りもいらない。こういう台詞はかっこいいけれど、現実の社会でそれを行動に移すには相当の勇気が必要だ。だが、ロックは全てを突き破る衝動である。意味も見返りもないけれど、でもそれ以上の興奮や自由や何かがあるから、人はロックに魅かれるのだ。

 そしてそのロックの精神を、シンプルな言葉と優しいメロディで教えてくれたのが、ブルーハーツ(現クロマニヨンズ)のヒロトとマーシーだった。だからこそ、この映画において彼らの作った歌は、ストーリー以上に、台詞以上に訴えかけるものがある。放課後の軽音部の部室で4人が演奏するグダグダの<僕の右手>は、間違いなく“ロック”だった。

 映画を観終わって、久しぶりにブルーハーツを聴いてみた。涙が出た。

弦の音色が引き出した

くるり岸田繁の名曲の数々

 日本のロックバンド、くるり7枚目のアルバム『ワルツを踊れ』。このアルバムは、2009年2月現在でのくるりの最新のアルバムであり、彼らの最高傑作である。全13曲の豊穣な世界は、音楽の流行り廃りの波になど微動だにしない、燦然たる魅力を湛えている。

 くるりの音楽は多彩だ。例えば初期にはオーセンティックなギターロックを奏でる『さよならストレンジャー』(’99)や、よりアバンギャルドな『図鑑』(’00)があるが、3枚目『TEAM ROCK』(’01)では打ち込み音やサウンドエフェクトなどを大胆に取り入れて新境地を開拓し、続く『THE WORLD IS MINE』(’02)では、さらにそのエレクトロニカ路線を強く押し出した。そのまま電子音楽カラーが続くかと思いきや、外人ドラマーがメンバーに加入して(後に脱退)作られた『アンテナ』(‘04)ではギターロックへと回帰し、よりハードなバンドサウンドへと進化を遂げる。

 ロックに根差しながらも、非ロックにまで重心をずらしてしまう、その自由奔放で豊かな音楽性には、リリースのたびに驚かされてきた。なかなか一筋縄では括れないのがくるりのおもしろいところである。

 『ワルツを踊れ』のレコーディングはウィーンとパリで行われた。場所柄なのだろうか、ほぼ全編にわたってストリングスによるアレンジが施され、これまででもっともクラシック的な感性の強いアルバムだ。

 岸田の書く歌詞の魅力は、日常のなかのごく小さなワンシーンを切り取ったような、都市生活者的でミニマムな世界観だ。時にシュールで、時に皮肉たっぷりな独特の“岸田目線”は、ある意味ではスケールの大きなストリングスの音とは対極にあるように見える。

 だが岸田にはもう一つ、名曲<ばらの花>に見られるような、叙情性と物語性に富んだ楽曲群を生み出す、優れたストーリーテラーとしての魅力がある。ストリングスアレンジは、岸田のこの資質と非常によくマッチした。

 名もなき少年を主人公にした<ブレーメン>や、別れの切なさを歌う<ジュビリー>、恋人と過ごす時間を時計の針の音で描く<恋人の時計>などは、まさにその好例である。素朴な楽曲と、ヴァイオリンやヴィオラ、チェロといった古典楽器の音色との混交が、時間も国境も超えうる普遍的な美しさを生んでいる。

 

 もちろん13曲全てが大好きなのだけれど、もっともガツン!ときたのは2曲目の前述<ブレーメン>である。1曲目の<ハイリゲンシュタッド>はインスト曲なので、このアルバムの実質的な幕開けはこの<ブレーメン>から。歌詞を読むととても暗い歌なのだけれど、それ以上にとにかく美しい曲で、このままNHKの「みんなのうた」に含めてもいいほどのタイムレスな名曲だ。

 後半に進むにつれて、より日常的でささやかな風景を歌う曲が多くなるのだが、ラストに再び<言葉はさんかく こころは四角>という、これまたシンプルだが叙情的な名曲が収録されている。

 <ブレーメン>に始まり<言葉は~>で締めくくる、という構成には『ワルツを踊れ』というアルバムが持つピュアネスが端的に表れており、この美しさは、ビーチボーイズの『ペット・サウンズ』(‘67)にも匹敵するのではないかと思うのだが、これは言い過ぎだろうか。

男女ツインボーカルが織り成す“ゆるい”世界

ザ・ヴァセリンズの全曲集

 イギリス・スコットランドのバンド、ヴァセリンズの全発表曲に未発表の3曲を加えたコンプリート・ディスク。

 ヴァセリンズの活動時期は1986年から89年にかけてだから、もう20年以上も前のバンドになる。短いキャリアの中で残したスタジオアルバムはわずかに1枚しかない。なので、シングル曲を含めて全音源を収録しても、このように1枚に収まってしまうのだ。

 バンドの中心はユージン・ケリー(ボーカル/ギター、男性)とフランシス・マッキー(ボーカル/ギター、女性)の2人。男女のツインボーカルだ。ユージンの独り言のようなボソボソした声と、フランシスの気だるいフワフワした声とが、付かず離れずのゆるい距離感で絡み合う。全体的にアンダーグラウンドな雰囲気があるのだが、同時に60年代ポップスのような素朴さも持ち合わせている、とてもユニークな味わいのあるバンドだ。

 イギリス地方都市グラスゴー生まれの、キャリアも短いヴァセリンズが、多くの人に認知されるようになったのは、ニルヴァーナの影響が大きい。カート・コバーンは「生涯最高のバンド」としてヴァセリンズを挙げており、実際に<SON OF A GUN><MOLLY’S LIPS>といった曲をカバーしている。僕自身もニルヴァーナ経由でヴァセリンズと出会った一人だ。

 ニルヴァーナに触れたことで話をちょっと脱線。世の中にはロックの歴史に名を刻む、いわゆる「ロックの名盤」と呼ばれるものがたくさんあるけれど、ザ・フーの『マイ・ジェネレイション』にしてもツェッペリンのファーストにしても、そのほとんどは僕が生まれる前に発表されたものばかりで、できればリアルタイムで聴いてみたかったな、と夢想することが多い。洋楽雑誌とかで「『サージェント・ペッパー』で歴史が変わった!」なんていう記述を目にすると、「ケッ、どうせ俺は生まれてねえよ」と悔しくなる。

 そういった意味で言うとニルヴァーナの『NEVER MIND』(’91)は間違いなく、僕がリアルタイムで聴けるロックの名盤だった・・・はずだった。僕は当時、このアルバムを完璧に“スルー”したのだ。

 以前オアシスの項で触れたように、当時まだ洋楽を聴き始めたばかりの僕は、ポップメタルバンドに目を奪われていて、ニルヴァーナのガーガーした感じが好きになれなかった。だから、みんながギターで<Smells Like Teen Spirit>のイントロのリフを弾いている横で、僕はボン・ジョヴィの<Livin’ On A Prayer>を練習していたのだ。

 問題は、「好きにはなれないのだけれど、ボン・ジョヴィよりもニルヴァーナの方がカッコイイのはなんとなくわかる」という、ことだった。イヤな奴だけどコイツが自分よりモテるのは認めよう、みたいな切ない敗北感は、その後もしばらく尾を引いた。では、どうしてこの「ニルヴァーナ・コンプレックス」が解消されたかと言うと、きっかけはこのヴァセリンズだった。

 カート・コバーンは自身のルーツとしてヴァセリンズを挙げているけれど、実はこの2つのバンドはあまり似ていない。ヴァセリンズの楽曲はオーソドックスなギターポップであり、せいぜい割れたギターサウンドに、多少ニルヴァーナとの共通点がうかがえる程度だ。

 だが、ヴァセリンズを聴いた後に改めてニルヴァーナを聴いたら、思わず心の中で叫んでしまった。「なんだこれ、メチャクチャかっこいいじゃないか!」。ヴァセリンズを聴いたことで、ニルヴァーナの、ローファイなサウンドに隠れていた実はメロディアスな一面であったり、カートの歌声の独特な味わいであったり、とにかくそれまで気付かなかった魅力が瞬く間に全身に鳴り響いたのだ。

 なんだかこう書いていると、まるでヴァセリンズがニルヴァーナを知るためのツールに過ぎないかのようだが(きっかけは確かにそうだったけど)、もちろんそんなことはない。ニルヴァーナを聴いた後、再度ヴァセリンズへ戻ると、これはこれで以前よりも奥行きをもって聴こえるから不思議である。あえて言えば、僕はポップでゆるく、どこかメランコリーなヴァセリンズの方が耳にフィットする。

 複数のバンド、アルバムを聴くことで、相対的にこれまで気付かなかった側面に光が当たって、新たな魅力を感じ取れるようになり、双方がますます好きになる。音楽はこういうことがあるからおもしろい、と思う。

ドライ&ビターな怒涛のメドレーで

新生スカパラが見せる底力

 東京スカパラダイスオーケストラのニューアルバム『PARADISE BLUE』がリリースとなった。

 スカパラは今年でデビュー20周年を迎える。当初より、ジャマイカ発祥のスカに、邦楽的な歌謡曲のメロディーを乗せた「東京スカ」というオリジナルジャンルを掲げ、今日まで独自のポップセンスを磨き上げてきたスカパラ。ロックもポップスもジャズもブルースも飲み込んで、裏打ち&ホーンで仕上げてしまう彼らの消化能力はハンパじゃない。スカというジャンルをアンダーグラウンドから日本のリスナーにも馴染みあるものへと押し上げたのは、彼らの功績が大きいはずだ。

 実は今回のアルバムは、ファンとしては待ち遠しかった反面、ハラハラした気持ちがあった。昨年の7月、オリジナルメンバーでありバンドの精神的支柱でもあった、アルトサックスの冷牟田竜之が脱退し、この『PARADISE BLUE』が新生スカパラの最初のアルバムとなるからだ。

 結果としては非常に硬質な手触りをもつ作品となった。『FULL-TENSION BEATERS』(’00)以降、スカパラサウンドの中核をなしたゴージャスなロックテイストが、その生みの親である冷牟田が抜けたことでやや後方に下がり、シンプルなスカリズムとエッジの効いたメロディーが前面に押し出された。70年代後半のイギリスで流行した、スペシャルズをはじめとする2トーンサウンドのような、ドライな味わいがある。

 また、ここ最近の彼らのアルバムでは珍しく、ボーカル曲がない。たとえば前作『Perfect Future』(’08)では、ドラム茂木欣一と元KEMURI伊藤ふみおがボーカルを務めた2曲がアルバムの序盤と終盤に配置され、全体に華やかさを添えていた。今回の『PARADISE BLUE』においても、<Routine Melodies>や<そばにいて黙るとき>、サッカーの応援曲で有名な<You’ll Never Walk Alone>のカバーなど、歌詞ありの曲はあるが全てメンバーによる合唱であり、ボーカル曲というよりもインスト曲である印象が強い。全体として渋い、ビターなアルバムだ。

 彼らはここに来て、一度シンプルなスカバンドに立ち返ろうとしているように見える。冷牟田の脱退、そして20周年という節目を迎え、あえてありのままのスカパラで勝負に挑んできたのだ。僕は、1回目に聴いた時はまだ五分五分、くらいだったのだけれど、2回目を聴き終わって完全にノックアウトされた。2ラウンドKO負けである。

 最初に聴いた時には、これまでの印象との食い違いがあって、いまいちピンと来なかった。だが2回目には一変。個々に独立していた曲と曲が耳の中で急にくっつき始め、全12曲がひとつなぎになって聴こえてきた。特に中盤がすごい。4曲目<Heaven’s Door>から9曲目<Already Steady>までは、まるで怒涛のメドレーである。

 とにかくブレというものがない。これまでのようなゴージャスなアレンジを抑えても、どんなメロディーをも手なずけてしまう余裕が感じられる。ジャケットに映る彼らの姿には、そんな自信のようなものが窺える。

 『PARADISE BLUE』が聴かせるドライ&ビターなサウンドは、スカバンドとしてのキャリアの一つの到達点でもあり、新たなスタートを切る宣言でもあるのだ。

生まれたばかりの近代日本に何が起きたか

リアリズム精神で「カタルシスの後」を描いた大作

 小説において、物語を語っているのは、一体誰なのだろう。

 小説の地の文は一人称と三人称に大別できる。一人称の場合、語っている人物を特定することは容易だ。主人公である。芥川龍之介の『藪の中』のように、回想や手紙、証言といった形で複数の人物が語る小説もあるが、いずれにせよ物語に関わる人物の範疇であり、ごく一部の例外を除いて一人称が誰なのか、疑問のまま終わる小説はない。

 では三人称の小説はどうなのか。地の文を語っているのは、一体誰なのか。

 語り手が特定できない、もしくは気にならないことこそが三人称なのであり、「誰?」という疑問は根本的に矛盾している、と考えるのは早計だ。注意深く読めば、三人称の語り手にも人格がある。

 もっとも多いのは、語り手が主人公に極めて近い位置に視座しているケースだ。エンターテイメント小説に多く、物語は主人公の出会った人、向かう場所だけで進むことになる。半一人称と言ってもいいかもしれない。

 また、全ての登場人物に対してほぼ均等の位置から語るケースもある。推理小説や社会派小説などに多く、語り手は全てのキャラクターの心理心情を語ることができる。神の視点と呼べるかもしれない。そう言えば、前川麻子の『劇情コモンセンス』という小説は、「神様」が語り部となる小説だった。冒頭でいきなり「私は神様です」と名乗ってから物語が始まり、度肝を抜かれた。

 とにかく、三人称と一口に言っても人格や立ち位置の異なる「誰か」が語っているのであり、「誰か」をどう設定するのかに作家の特質が表れる。

 前置きが長くなってしまった。司馬遼太郎である。

 司馬遼太郎の小説は一見すると三人称の小説だ。では、語り手は一体誰なのか。何冊か読んでみるとわかる。司馬作品の大きな特徴の一つは、小説なのに途中で何の前触れもなく、“筆者は~”といった具合に司馬自身が登場する点だ。

 要するに、何のことはない、司馬作品の語り手は司馬遼太郎自身なのだ。ただし、前述の「神様(=作者)」という意味ではない。生身の司馬遼太郎が物語を語っているのである。信長も竜馬も土方歳三も、まるでついさっきまで当人と酒を酌み交わしてきたかのような親密さと気さくさをもって、司馬は歴史上の人物を語るのだ。

 司馬自身の目で見たものを、司馬自身の口から語られる。作家の体温が強く感じられる点が、他の歴史小説とは大きく違うところだ。誤解を恐れず言えば、司馬遼太郎の作品は小説ではなく、全てが紀行文なのである。

 今回紹介する『翔ぶが如く』は、西郷隆盛と大久保利通の2人を中心に、明治維新から西南戦争に至るまでの10年間を描いた作品だ。司馬遼太郎の代表作の一つとして数えられる本作は、彼の作品の中で最も長く、そしてまた、最も紀行文的な小説である。

 その理由は、描いた時代に由るところが大きい。

 明治維新という革命によって日本は俄かに近代国家となった。だがその実態は、充分な国家歳入がなく、政府の機能も勢威もままならない、かなり不安定な船出だった。大久保利通は強烈なイニシアチブを発揮し、政府主導による国家経営に乗り出すが、在野には特権を奪われたかつての武士たちの不満が渦巻いていた。西郷隆盛はその不満を征韓論という形で吸収しようとするが、大久保との政争に敗れ、故郷鹿児島へ帰る。だが西郷の下野は、はけ口を失った全国の武士の不満をさらに高めることになり、明治10年、鹿児島士族を中心とした反政府勢力は西郷を首魁に担ぎ上げ、西南戦争という凄惨な内戦に突入する。

 明治最初の10年は、騒擾と混乱に満ちた時代だった。エネルギッシュではあるがカオスであり、そして暗さが漂う。そういった時代を題材に選んだ司馬の苦闘が、文庫本全10巻という長さと、小説というよりもエッセイに近い筆致として表れたのではないだろうか。

 時代の混迷を示すかのように、物語もあちこちへと数限りない寄り道をしながら進むこととなる。例えば、征韓論に関する記述や、台湾出兵とその後の清との交渉に関する記録的描写は膨大だ。また、第三の主人公ともいうべき宮崎八郎のエピソード、とりわけ中江兆民との交流を基に当時の民権運動を描くくだりは丸々1巻以上が費やされている。その後も萩の乱、秋月の乱、神風連の乱といった西南戦争の前哨戦にも紙面が割かれており、西郷が挙兵していよいよクライマックス、というところまでは、読むのにかなりの根気を要する。

 明治維新は近世を壊し近代をこじ開けた日本史上の革命であり、そして革命とは歴史を物語として構築するうえでは強いカタルシスを持つ、いわばラストシーンを飾るに相応しい瞬間である。『竜馬がゆく』も『峠』も『花神』も、読後に爽快感が感じられるのは明治維新以降が物語に含まれていないからだ。

 だが僕らは、明治以降の日本がどういった歴史を辿ってきたかを知っている。雄藩連合による俄か普請で作られた新政府は、基盤の弱さを埋めるべく天皇という古代権威を持ち出したことで、大日本帝国憲法に「統帥権」の一語を加えてしまい、結果それが昭和になって陸軍の暴走を合法化させる口実となった。日清・日露の勝利という形で日本の近代化は諸外国と肩を並べられるまでに至り、不平等条約の改正など外交の成果へもつながるが、同時に帝国主義を固陋化させ、大正、昭和と時代が進むにつれて、逆に近代合理精神を衰退させることになった。明治初期を描くことは、とりもなおさず現代日本がその出発点において何を為してきたかを再定位することである。

 司馬遼太郎の創作の原点は終戦時に感じた無力感にあるという。なぜ日本はこんな国になってしまったのか、若き日に感じたこの疑問が、司馬文学には通底している。彼にとって、歴史とはロマンの対象ではなく、徹底したリアリズムで観察すべきものだった。独自の紀行文的文体は、そういった動機から生まれたものだったのであろう。

 司馬作品を歴史の流れに沿って置いてみると、最も現代に近い時代を描いたのが『翔ぶが如く』と、さらにその数年後が舞台となる『坂の上の雲』だ。近代の翳りを表すかのように長く重たい両作品は、同時に現代に直接向けられたナイフでもある。この2月で司馬遼太郎が亡くなってから13年になるが、彼の作品は僕たちや、さらにもっと後の世代にとって財産であると思う。

都市風景をなぎ払い、永遠をあぶり出す

相対性理論の壮大な挑戦

 話題のバンド、相対性理論の2枚目となるアルバム。

結成は2006年というから、まだ生まれたてのバンドと言っていい。07年にリリースした5曲入りミニアルバム『シフォン主義』が話題となり、翌年には再発売。自主制作盤ながらタワーレコードのインディーズチャートで1位になったり、08年の年間ベストアルバムセレクションに選ばれたりと、人気に火がつく。そして09年1月、満を持してリリースされたのがこの『ハイファイ新書』だ。

 メンバーは、やくしまるえつこ(ボーカル)、真部脩一(ベース)、永井聖一(ギター)、西浦謙助(ドラム)の4人。だが素顔を一切露出していないため、顔はおろか年齢すらよくわからない。曲はすべてベースの真部が手がけている。

 チャンネルをテレ東に リモコン持ったら速やかに

 フルカラーのまたたきが ブラウン管からあふれだす

 

 アルバム1曲目<テレ東>の冒頭の歌詞である。日常的で無機的な単語、つまり詩的言語とは正反対の言葉を組み合わせて作られた歌詞を、ボーカルやくしまるえつこが感情を込めないウィスパーボイスで歌う。一口で言えば非常にサブカルチャーな匂いの強いサウンドで、初めのうちは単に奇を衒っただけのよくありがちなバンド、と見なしてしまう。

 だが、2回3回と聴いているうちに、なんだかクセになってくる。サブカルというだけで終わってしまう凡百のバンドとは、どこか違う。

  ルネサンスでいちにの算数 偶数奇数はおともだち

  ルネサンスでゆかいな算数 変数素数は顔見知り  <ルネサンス>

 とにかく歌詞世界は全曲こういった具合である。だが、一見すると支離滅裂に見える言葉の羅列からは、聴き進むにつれて、ある情感が湧いてくる。

 無機的な単語の一つひとつはいわば、高層ビルや行き交う人の群れ、駅や道路といった刹那的な風景だ。過剰ともいえる言葉の羅列は都市風景を次から次へと映し出し、やがてホワイトアウトするように全てが崩れ去る。そして浮かび上がるのは、永遠という名の風景だ。大量の無意味が逆に意味を生み出すように、刹那的風景の氾濫の中から、永遠の風景があぶり出されてくる。

  わたしもうやめた 世界征服やめた

  今日のごはん 考えるのでせいいっぱい

  もうやめた 二重生活やめた

  今日からは そうじ 洗濯 目一杯   <バーモント・キッス>

 

 抑制の効いたハイファイサウンドも、やくしまるのウィスパーも、全ては永久なるものへの憧れに聴こえる。

 『シフォン主義』もこの『ハイファイ新書』もどちらもオススメだが、質は圧倒的に『ハイファイ新書』の方が高い。逆に言えばわずか2枚目ですでに完成域へ片足を踏み入れたことになる。研ぎ澄まされた『ハイファイ新書』を先に聴いてから、荒削りだが勢いのある『シフォン主義』を聴く、という順番がいいかもしれない。

聴く者を夜の街へと連れ出してくれる

陽気で華麗なジャイヴのリズム

 音楽にはそれぞれ、聴くのにもっとも相応しい時間帯というものがあると思う。たとえば平日の朝にこってりしたブルースは聴きたくない。これから仕事、という時間には美しいクラシックや優しいカントリーミュージックをかけて、憂鬱な気分を少しでも解きほぐしたい。こってりブルースはむしろ夜寝る前に、週末は昼からロックをかけてハイになる、といった具合に、生活のリズムや心理に合わせてフィットする音楽は変わるものだ。

 ジャズ、はどうだろう。一口にジャズといっても硬から軟まで幅広いが、たとえば朝に牛乳とトーストを食べながらマイルス・デイビスを聴く、というのはちょっと想像しづらい。

 ジャズはやはりお酒とともに楽しむもの。夜の音楽という気がする。くたびれた肉体と神経をまとった夜の感性に、スッと染み渡る音楽として、ジャズ以上のものはないのではないか。

 と、言いつつ、今回紹介する『LITTLE MISS JAZZ & JIVE GOES AROUND THE WORLD!』は、昼間どころか朝起きてすぐにだって聴けるジャズアルバム。オールラウンドプレイヤー的1枚なので是非おすすめしたい。日本人ジャズボーカリストakikoが2005年にリリースしたアルバムだ。

この人、デビュー以来ずっと英語詞の歌を歌っていて、その発音があまりに上手いので、きっと英語圏の国で生まれ、本場のジャズの中で育ってきた、日本人の顔をした外人なのだろうと思っていたけれど、実は

埼玉県
出身。なんだか親近感。

 しかし彼女の経歴と実力は折り紙つき。所属するヴァーヴ・レコードは、チャーリー・パーカーやビル・エヴァンス、デューク・エリントンなども在籍していた、米国の老舗ジャズレーベル。日本人アーティストでヴァーヴに所属したのは彼女が初めてである。

 そのヴァーヴから2001年にリリースした『Girl Talk』でデビューしたakikoは、その年のジャズ部門の新人賞を総ナメにする。当時弱冠25歳。だがすでに歌声は垢抜けていて、大物感が漂っていた。

 デビューアルバムはオーソドックスなソフトジャズだったが、2枚目以降はフュージョンやビバップ、さらにはハウスなどを取り入れて、アルバムごとに異なる音楽を演奏してきた。ちなみにこの『LITTLE MISS JAZZ & JIVE GOES AROUND THE WORLD!』の次に出したアルバムでは、なんとサンバやボサノヴァにまで手を出している。なのでジャズボーカルというよりも、ジャズをベースとしたマルチ・ボーカリストといった方が適当かもしれない。

 そのakikoがこのアルバムでチョイスしたのは、タイトルにもあるとおり、ジャイヴである。ジャイヴとは、いわゆるスウィング・ジャズのこと。大人数編成のバンドによって演奏されるジャズのひとつで、座って聴き入るようなソフトなジャズと違って、踊って楽しむダンスミュージック的性格が強い。映画『スィングガールズ』で主人公たちが演奏していたヤツ、といえばわかりやすいだろうか。有名な<A列車で行こう>なんかはジャイヴの代表曲だ。パワフルなリズムとノリの良さが、どんな時に聴いても気持ちを陽気にしてくれる。

 ジャイヴはとにかく華やか。このアルバムでakikoは、【Little Miss Jazz & Jive】という一人の貴婦人に扮している。彼女の住む世界は20世紀前半あたり、夜のニューヨーク、ガス燈が灯り多くの人で賑わうメインストリート、といったところだろうか。【Little Miss Jazz & Jive】が聴く者をレトロで華やかな風景へと誘う、そんな演劇的な部分もジャイヴという音楽にはぴったりだ。こういった遊戯的な世界観は、プロデューサー小西康陽(ピチカート・ファイヴ)の面目躍如である。

 実は、このアルバムを聴いて、ジャズをテーマにした芝居を作ろうと考えたことがある。4年近く放置したままだったそのアイディアを引っ張り出して、ジャズをロックに変えて作り直そうとしているのが、theatre project BRIDGEの次回公演『七人のロッカー』なのである。


Another Morning-pied piper yesterday

これまでのピロウズを振り返り

これからのピロウズを確かめる、2本のライヴ

 ピロウズの2本のライヴを収録した、2枚組DVD。今年結成20周年を迎えるピロウズが、「LATE BLOOMER SERIES」と題して送るアニバーサリー企画の第一弾としてリリースされた。

 1枚目に収められたのは、彼らが2007年暮れに行った「TOUR LOST MAN GO TO YESTERDAY」のライヴ。2枚目は、08年の「PIED PIPER TOUR」のライヴ。会場はどちらもZepp Tokyoである。

 収録曲は1枚目が25曲、2枚目が27曲と盛り沢山なのだが、両ライヴで重複しているのがわずか2曲しかない。つまり計50曲に及ぶ彼らの演奏が収められている。しかもそのうち1曲はCD未収録の新曲だ。

 また、「LOST MAN~」は過去のシングル及びカップリング曲をメインに演奏したベスト盤的ツアー、「PIED PIPER~」は最新アルバムの曲をメインに演奏したツアーと、ライヴのコンセプトにも重複がなく、これまでのピロウズと現在のピロウズという観点からも楽しむことができる。2枚目には楽屋風景などの特典映像も入っており、質量ともに豪華なDVDだ。

 大好きなバンドはたくさんあるのだけど、ピロウズは僕が世界で一番好きなバンドで、あまりに好き過ぎて何をどこからどう書いていいかわからないくらいにもう本当に好きなのである。

 「○○が好きなんだよ。とにかく良いいんだよ」と言い続けると、十中八九聞かれるのが「○○のどこが好きなの?」という質問。だがこの問いかけは、○○を好きで好きで仕方がない当人にとっては拷問に近い。

 あれこれ好きな理由を考えてみるのだけれど、どれもが想いに不十分。それどころか「ここが」「あれが」と細分化することに罪の意識すら感じてしまう。だけど相手にもその○○を気に入って欲しいからなるべく上手に説明したい。だから内心では「好きな気持ちに理由なんかねえ!」と思いつつ、「全部が好き!」と答えて、「ああ、きっと伝わってねえなあ」という悔しさを噛みしめるしかない…。

 だからピロウズも、どうして好きなのか、どこが好きなのか、納得できる表現が、どうもできないのだ。

 僕が彼らと出会ったのは2000年だから、もう10年近くも前のことになる。もちろん、毎日欠かさず聴いているわけではない。時には何ヶ月も聴かない時期もあった。けれど出会ってから今日に至るまで、僕はずっとピロウズとともにあった。

 彼らの20年間のキャリアは、決して順風満帆だったわけではない。メンバーの離脱や、思ったような評価が得られない時期を経て、ゆっくりとゆっくりと支持を広げていった。

 ボーカル&ギターでありソングライターの山中さわおは、自身の感じることをそのまま歌にしてきた。だからピロウズの楽曲には、彼の揺れ動く感情とバンドが過ごしてきた時間の全てが詰まっている。

 その不器用なまでの生々しさに、僕は何度となく救われた。詞のなかに登場する「僕」は僕のことであり、メロディはいつも僕の心の輪郭をなぞっていた。ピロウズの歌は、僕の歌でもあったのだ。だから「どこが好きか」なんて、上手く説明できないのだ。

 今後もこのブログでピロウズを紹介していきたい。

ヘビィにしてクール

そしてキュートなガールズバンド・ヌードルズ

ヌードルズに出会ったのはもう4,5年前になるのだけれど、もう最初に聴いた1曲目からずっと僕は彼女たちに恋してる。バンド名からなんとなく想像がつくかもしれないが、オルタナ志向の強いバンドで、サウンドはすごくヘビィ。ガールズバンドにありがちな“媚び”がない、とてもクールなバンドだ。

メンバーはYOKO(ボーカル&ギター)、IKUNO(ベース)、AYUMI(ドラム)。結成は1991年なので、キャリアはかなり長い。実は元々は4人編成(もう1人はギター)で、04年に3人になった。

僕が最初に買った『GOD CABLE』は4人時代の最後のフルアルバムで、今よりもスケールの大きな楽曲が多く、あえて悪く言えばちょっと欲張っている感じもあった(もちろん大好きなアルバムなのだけど)。

だが、3人になったことが、逆にヌードルズに進化をもたらす。良い意味で音が軽くなってバラつきがなくなり、ギュッと凝縮されたような曲が多くなった。3人になって最初のアルバム『ivy』は、『GOD CABLE』以上にロックで、且つポップな仕上がりになっている。

その後『Cover me Shakespeare』を挟んで、この『METROPOLIS』である。全11曲というボリュームを持ちながらも、ものすごい疾走感が感じられるアルバムだ。とにかくギター、ベース、ドラムの一体感が気持ちいい。3つの音がひとつの塊になって突き進んでいるよう。

この一体感や凝縮感は円熟味などではなく、むしろ若さや純粋さを感じさせる。キャリア18年。“ロック”という重力芯によって攪拌され、余分なぜい肉が削ぎ落とさたバンドが奏でるピュアなサウンド、それがこの『METROPOLICE』だ。

ヌードルズは英語詞の曲が多いのも特徴。『METROPOLICE』でも4曲が英語詞である。ボーカルYOKOの歌う英語はかなり舌足らずなのだけれど、それが妙にしっくりくるから不思議だ。

そもそも彼女の歌声は、シャウトはおろか声を張ったりするところがなく、喋り声に近い。普通の女の子の声が、ギターやドラムの重い音の上に乗っかって、不安定になるかと思いきや、その点も絶妙なバランスでしっくりしてしまうのである。

“喋り声ボーカル”というとパッと思いつくのは元スーパーカーのフルカワミキ。ただし、フルカワミキの場合は彼女の声が周りから浮いているところ、つまりサウンドと「しっくりこない」ところが魅力だった。それゆえ、フルカワのボーカルは物憂げでどこか心細さのある空気感が持ち味だったが、YOKOの場合はその逆。サウンドと寄り添いながらあくまでポジティブで可愛く、それでいて喋り声だから居心地のよさを聴く者に与えるのだ。

現在ヌードルズが所属する「デリシャス・レーベル」のレーベルオーナーはthe pillowsの山中さわお。彼の、ロックとポップにオルタナをまぶしたようなセンスが好きな人は、ヌードルズもきっと気に入るはず。

 実はこの後に出した『SNAP』というミニアルバムが2009年1月時点でのヌードルズの最新アルバムになるのだが、こちらは若干ハードな手触りのアルバムなので、最初にヌードルズに入るならこの『METROPOLICE』がポップでおすすめである。
女の子3人によるロックバンド、ヌードルズが2007年にリリースしたアルバム。