結晶のようなサウンドが鳴らす
悲しくも美しい現代ロックの名盤


 これがロックだ!と教えてくれる、問答無用の名盤。日本のロックバンド、バースデイが2008年にリリースしたサードアルバム。

 バンドの中心はギター/ボーカルのチバユウスケ。言わずと知れた、あのミッシェル・ガン・エレファントのフロントマンだ。

 ミッシェルがデビューしたのは1996年。彼らはタイトスーツとロンドン・パンク直系のハードサウンドを武器に、ロックという言葉が「ビジュアル系」という意味に取って代わられていた暗黒の時代に巨大な風穴を開けた。

 僕は当時高校生だった。ちょっとセンスのいいバンド小僧たちはみんなミッシェルをコピーしていたのを覚えている。そんな日本のロック史に名を刻むチバユウスケが、ミッシェル解散後3年の時を経て、2006年に結成したのがこのバースデイだ。

 まるで兵器のような破壊力をもつアルバムである。ギターとベースとドラム以外、何一つ余計なもののない研ぎ澄まされた音。そして、死んでしまうのではないか?というくらいに、狂おしく叫ぶチバのボーカル。「骨身を削る」という言葉は、まさに彼のために用意された表現だ。限界まで蒸留されたウィスキーの一滴のような、混じりけのない強さと濃さは、ミッシェルを軽く凌駕しているように思える。

 チバユウスケのパーソナリティが非常に強烈なので、どうしてもミッシェルと相対化する文脈でこのバースデイを捉えてしまうのだが、言わずもがな、まるで違うバンドではある。その違いを端的に言えば、ブルージーかどうかだ。ミッシェルは非常にソリッドな、乾いた音を鳴らしていたのに対して、バースデイはブルースロックにより深く根差しており、強靭さのなかにも濡れた叙情性を持ったサウンドが特徴だ。

 前述のチバの圧倒的なボーカルもさることながら、彼の詞における言葉遣いは、かつてよりもさらに磨きがかかったような気がする。英語を使わず、純粋日本語だけで歌詞を書くソングライターは数多いるが、その “なんでもない”日本語が、熱を帯びて“なにかある”言葉へと変貌させてしまう才能は驚異的だ。

 言葉を音に分解し、メロディと不可分のものとして再構築し固有のグルーヴを生み出す手法の代表が桑田佳佑や、以前本稿で紹介したミドリの後藤まりこだとしたら、言葉をあくまでセンテンスとして繋げつつも、意味の重なりをある種の虚無感や恍惚感へと飛び越えさせる手法の代表は、浅井健一やチバユウスケだろう。

 この『NIGHT ON FOOL』は全12曲。インストを挟んだりするような演出や細かな緩急は一切なし。背後に広大な奥行きを残しているかのような予感と緊張感に満ちた<あの娘のスーツケース>を幕開けに、平熱が微熱に、微熱が高熱に、じわじわと熱量は上がり続ける。メンバーが徐々に汗ばんでいくのがわかるようだ。

 ハイライトは11曲目、シングルカットもされた<涙がこぼれそう>。上がり続けた高熱を涙に変えてしまう、悲しく美しい名曲である。


<涙がこぼれそう>PV
北欧ノルウェーの港町から
女の子たちの囁き声が聞こえる


 シンプルで可愛らしく、ちょっと淡くて儚いアルバムジャケットのイラストは、エファメラの音楽そのもの。アコースティックギターのアルペジオに、ドラムブラシやオルガン、鈴の音などの音色をまぶして、それを3人の女の子の囁くようなコーラスが包み込む。そこには午後の陽だまりのような温かさと、何年も鍵がかけられていた屋根裏部屋のような、秘密めいてひんやりとした空気が混じっている。聴いているうちに時間はいつもよりもゆっくりと流れ始め、やがて心は身体から遊離し、フワフワとあてのない旅を始める。たまにしか聴かないけれど、大のお気に入りの一枚だ。

 エファメラは、クリスティーン、インガー、ヤニックの女の子3人組。北欧ノルウェーのグループだ。ノルウェー南西部の港町、ベルゲンで結成され、1996年に本国でデビュー。当時彼女たちはまだ10代だったそうである。瞬く間に人気は広がり、続くセカンドから日本盤も発売となった。2002年にリリースされたこの『バルーンズ・アンド・シャンペーン』は、エファメラ3枚目のアルバム。


 僕は北の国、北の地方に憧れる。バリとかハワイとかモルディブとか、日本の人の多くは何かと南へ進路を取りたがるけれど、僕は断然北がいい。南好きの人が「海」とか「珊瑚礁」なんていう言葉を聞いただけで嘆息しちゃうように、僕は「北欧」とか「暖炉」とか、そんな言葉に徹底的にヨワい。

 小学生の頃、僕はアメリカのボストンに住んでいたことがある。ボストンの緯度は大体札幌と同じくらい。冬はとても寒く、雪もたくさん降る。日本の広葉樹とは違って、地面に垂直に立ち、幹の上の方にだけ枝を生やす針葉樹。その針葉樹に雪が降り積もる寒々しい風景は、20年経った今も意識の底に焼きついている。僕の北好きは、あの街のあの景色が原風景となっているからだと思う。

 エファメラを聴くたびに、僕はいつも、どこか遠い北方の地を旅しているような気持ちになる。そこは彼女たちの母国ノルウェーなのかもしれない。スウェーデンかもしれないし、カナダかもしれない。もしかしたら記憶の片隅にあるボストンなのかもしれない。本当は地球上のどこにもない風景なのかもしれない。

 でも、そんなことはどうだっていい。寒い風が吹きぬける街角や、針葉樹の生い茂る森。分析や理屈を超えて僕の瞳はその風景を捉えることができる。そして、そこを舞台にした物語が、いつか観た映画のように頭の中で再生されるのだ。

 3人のひそひそとした歌声はまるで、放課後の女の子たちが囁き合う秘密のおまじないだ。その魔法はいつだって僕を旅人に変える。


興味ある方は一聴を。曲のタイトルは<Air>。
多用なジャンルを消化吸収する
ハイブリッド・サウンド


 日本人アーティスト369(ミロク)の初のフルアルバム『369.2』がリリースされた。デビュー作となったミニアルバム『369.1』がリリースされたのは2007年5月のことなので、およそ2年ぶり。ようやく、といった感じがある。

 この人、ジャンル分けがとても難しい。ラップあり歌あり。エッジの効いたエレクトロ・ビートあり、アコースティックなバラードあり。ゆったりしたレゲエもあれば、歌謡曲的なポップソングもある。なんでもあり、なのだ。

 ちなみに、『369.2』のジャケットに印字された単語をそのまま転記すると、ヒップホップ、エレクトロ、ロック、ハウス、レゲエ、テクノ、フォーク、となる。「どんだけだよ!」という感じだが、事実だから仕方ない。曲によって配分の違いはあるけれど、アルバムをトータルで聴くと、確かにこれだけの要素が詰め込まれている。

 だが、食材と調味料を手当たり次第に煮込んだような濃厚さはない。むしろあっさりしていて、口当たりは端整。いいとこどり、と言えばいいのだろう。適材適所にそれぞれを配置したパズルのような音楽だ。各ジャンルのコアなファンから見れば軟弱に映るかもしれないが、逆にさまざまな音楽への出発点となるような、きっかけに満ちたアーティストだと思う。


 369は、自身が最初に感銘を受けたアーティストにビースティ・ボーイズとスチャダラパーを挙げており、またクラブイベントなどのMCを中心にキャリアを積んでいることから、ヒップホップが彼の音楽性のベースとなっていることがわかる。

 では彼が「ラッパー」かと言うと、どうも違う。他の日本人ヒップホップMCと異なり、彼のラップは日本語の発音がやたらと明瞭なのだ。言葉そのものの意味や響きを優先しているかのようにハッキリしゃべる。しゃべるというよりも、歌う。ヘンな言い方だが、369のラップは歌に近い。

 ラップは本来、子音をわざと溶かしたり声音を変えたり、ブラックな節回しをしたりする、いわゆる“ヒップホップ的”なグルーヴと切り離せないものだが、369の場合、前述のようにテクノやらフォークやらロックやら、他の要素を取り込んでいるため、ラップがヒップホップの呪縛に捕らわれていないのだ。

 結果どうなるかと言うと、ラップはメロディアスになって、歌に近くなる。だから、例えばAメロ(メロディ)→Bメロ(ラップ)→サビ(メロディ)という曲展開でも、メロディとラップの間に境界線がなくなり、統一感のある聞きやすいグルーヴを生み出すのだ。
 
 と、ラップのことばかり書いたけれども、369の楽曲のメインは歌。ビースティ・ボーイズの影響なのか、面白いのは随所にロックの素養が見られるところだ。メロディが骨太で力強く、ボーカルは洗練されていて媚びがない。ラップと歌を混ぜ合わせるアーティストは最近では珍しくないが、彼らがこぞって甘いポップスに流れていくなかで、369はすがすがしいほどのロックスピリットを放っている。

 もしかしたら、そもそも彼はラップ、歌と認識を分けていないのかもしれない。歌もラップも、あらゆるジャンルのサウンドを独自のフィルターにかけてモノにしていく369のハイブリッドな音楽性は、その裾野にまださらなる“伸びしろ”を残している。
 

369が矢井田瞳やケツメイシのRYOとコラボした<キャンプファイヤ>。ややスウィートだが、聴き心地のよい曲。
明るくって、少しバカ
ロック史上最も愛嬌のある4人組、THE WHO!


 2008年の後半、おそらく僕がもっとも聴いた曲はザ・フーの<マイ・ジェネレイション>だ。ロックのクラシック中のクラシックであり、永遠のキラーチューン。カバーしているアーティストは挙げたらキリがないだろう。オアシスのライヴDVDを観ていたら、ラストに自分たちの曲ではなく、<マイ・ジェネレイション>を演奏していた。この曲をタイトルに冠した『マイ・ジェネレイション』はザ・フーのファーストアルバムである。

 ザ・フーはビートルズ、ローリング・ストーンズと並んで“イギリス3大バンド”に数えられる、ロック史を代表するバンドだ(ちなみにこれにキンクスを加えるとイギリス4大バンドになるらしい)。

 ビートルズ、ストーンズ、ザ・フー。この3者の関係は、ちょうど兄弟のようである。長男(ビートルズ)は天才肌で女の子にもモテる人気者。そんな長男を尊敬しつつ密かにコンプレックスをもつのが、秀才肌の次男(ストーンズ)。そして三男(ザ・フー)は、ストイックにロックの可能性を追求する兄二人を横目に見ながら、「楽しけりゃいいじゃん」と自分の好きな音楽を演奏することだけに熱中している。

 後期ビートルズのような求道者的な難解さ、60年代ストーンズのアウトローさといったものは、彼らにはまったくない。末っ子特有の底抜けの楽天性が、三男ザ・フーの魅力だ。その分何がしたいのかよくわからない失敗作も数多くあるのだが、それでも「ま、いいか」「オールOK」みたいな気にさせてしまう愛嬌がこの三男にはある。

 そんな究極のポジティビティを支えているのは、非常に高い演奏技術だ。ギターのピート・タウンゼントはリズムカッティングとメロディプレイを同時にやってのける、いわゆるパワーコードを弾かせたら右に出る者はいない。「リードベース」と称されるジョン・エントウィッスルのベースは時にハイポジションでザクザクした旋律を奏で、時にローポジションでゴトゴトというような不気味な重低音を鳴らす。ドラムのキース・ムーンに至っては、驚異的の一語に尽きる。ドラムというよりもパーカッションであるかのように、ズダダダダッと高密度のリズムを猛烈なテンションで叩き倒す。ボーカルのロジャー・ダルトリーがけっこう陰気なことを歌っていても、バックのサウンドが最高にエネルギッシュなので決して湿っぽくはならない。

 そんなザ・フーのライヴにおけるパフォーマンスは、まさに「史上最高の最低バンド」と呼ばれるに相応しいハジケっぷり。ピートはこれまでに一体何本のギターを破壊し、何台のアンプをダメにしたのだろうか。デビュー直後、あるテレビ番組で<マイ・ジェネレイション>を演奏したザ・フーは、曲のラストに暴れに暴れ、締めくくりにキース・ムーンが爆竹でドラムセットを吹っ飛ばした(下のリンクで観れます)。もはや意味がわからないのだけれど、そんなところも「よくわからんがOK!」と思わせてしまうのがこの4人組なのである。

 ロック史的に言えば、モッズの祖、パンクの源流と言われるザ・フーだが、例えば前述の大暴れするパフォーマンスにしても、パンクロックのそれは社会や既存の音楽といった特定の対象に対する反逆の表現であったのに対し、ザ・フーの大暴れは文字通りの「大暴れ」であり、政治的なメッセージも何もない、溢れ出るエネルギーの暴発である。だが、刹那的でアホだからこそ彼らには憎めない愛嬌があり、ピュアだからこそ彼らには普遍的な輝きがあるのだ。

TVで<マイ・ジェネレイション>を演奏する4人。最後にはドラムセットが爆発!


演奏の迫力ではこちらが上。ラストには破壊シーンのダイジェストも

暗く静まり返った部屋に
優しさを灯す音楽


 今回も引き続きR.E.M.の紹介。

 前回書いたように、このバンドはたくさんアルバムをリリースしているうえに、それぞれカラーが異なるので、例えば「どのアルバムから聴いたらいい?」と質問されると答えに窮する。

 彼らのキャリアのなかでもっとも売れたアルバムは、1991年にリリースされた7枚目『アウト・オブ・タイム』である。気持ちのいいメロディーとコーラス、クールなギターリフといった華やかなギターロックに彩られたこのアルバムは、全米全英1位、1,000万枚という驚異的なセールスを記録し、R.E.M.が名実ともに世界のトップバンドとして認知された記念碑的作品だ。

 そして、その1年半後にリリースされたのがこの8枚目『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』である。前作のバンドサウンドから一転、アレンジをアコースティックなテイストに施した本作は、静謐で内省的な世界観を構築している。

 キャリアの絶頂期にありながら、これまでの作風を踏襲せずに、このようなモノトーンのアルバムを作ったところが意外である。だが、エレキギターをアコースティックギターに持ち替え、ピアノやストリングスを大幅に取り入れたことで、R.E.M.の核である優しさや孤独といったミニマムな魅力が、より繊細に、より剥き出しにされている。その点で、僕は『アウト・オブ・タイム』よりも、この『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』の方が“R.E.M.的”だと感じるのだ。

 このアルバムを聴くときに注意しなければならないことが一つある。それは、1曲目<ドライヴ>の異様なまでの暗さだ。一般的に言えば、1曲目はアルバムの顔であり、相応のキラーチューンが用意されているはずである。なのに、<ドライヴ>は引いてしまうほどに陰鬱で、まともに聴けばおそらく気が滅入るだろう。中盤あたりに配されているならまだしも、冒頭にいきなりこれはキツい。なので、このアルバムを聴く機会があれば、1曲目はじっとガマンしていただきたい(2曲目から聴けばいいんだけど)。これを乗り越えれば、以降ラストまでひたすら名曲が続く。

 「誰だって傷つくし、誰だって泣くのだから、諦めちゃいけない」と歌う<エヴリバディ・ハーツ>、「全てが取るに足らないささやかな人生だけど、愛おしさだけはいつまでも失われない」と歌う<スウィートネス・フォローズ>といった、マイケル独特のペシミスティックな視点で書かれた応援ソングや、<イグノーランド><マン・オン・ザ・ムーン>といったシニカルの効いた曲を経て、ラスト<ファインド・ザ・リヴァー>で、一人ひとりの人生を祝福し、「出発の時が近づいている」と旅立ちを促して、アルバムを締めくくる。

 マイケル・スタイプは、政治や貧困など、世界情勢を題材としたプロテストソングを多く書いてきたソングライターだが、このアルバムでは個人の内面を描いた楽曲が目立つ。しかし、最後に旅立ちを宣言する彼の視線の先には、元の広漠たる現実の世界があるようだ。次のアルバムでは、彼は再びシリアスな楽曲を作り始める。この『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』は、例えば夜眠る前、明日もう一度現実世界に戻ることにくじけそうになる、そんな一瞬に向けて作られたアルバムだ。一曲一曲が、暗く静まり返った部屋の中に、温かな星を灯す。

 あと10日ほどで4月5日がやってくる。15年前のこの日、自宅で猟銃自殺をしたカート・コバーンが死の瞬間まで聴いていたのが、この『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』だったという。


ライヴで<エヴリバディ・ハーツ>を演奏するR.E.M.
不安と憂鬱の音楽が
いつもハートを抱きしめてくれる


 昨年後半にもっとも聴いたのが、先週紹介したザ・フー。そして今年に入ってから僕が一番聴いているのがR.E.M.(アール・イー・エム)だ。この『マー・マー』は彼らのデビューアルバムである。

 R.E.M.は1980年にアメリカ南部、ジョージア州で結成された4人組のバンド。現在は一人抜けて3人だが、四半世紀以上経った今もバリバリの現役であり、2007年にはロックの殿堂入りを果たした。特に専門家やミュージシャンからの評価が高く、カート・コバーンやトム・ヨーク、デーモン・アルバーンなどをはじめ、多くの後進たちがR.E.M.へのリスペクトを口にしている。かの村上春樹もこのR.E.M.がお気に入りらしい。

 とはいえ日本では、ニルヴァーナやレディオヘッド、ブラーたちに比べて、どうもあまり浸透していない気がするのだが、それはファンのひがみだろうか。

 確かにあまりキャッチーなバンドではない。音が身体の奥底にまで沁み込むには、時間がかかるタイプのバンドだ。だが、一歩その世界に踏み込むことができれば、彼らの音楽はずっと一緒に寄り添える存在になりうるだろう。

 R.E.M.はアルバムをリリースするたびに音楽性を明確に変えるので、人に勧める時には非常に迷うのだが、一貫して共通しているのが、どこか静かに漂う優しさだ。鼓舞するわけでもなく、かと言って安っぽく絶望を叫ぶわけでもなく、傷跡にそっと触れるような、極めてパーソナルな部分をギュッと抱きとめる包容力に満ちている。

 この『マー・マー』がリリースされたのは1983年。前年にはあの『スリラー』が世界を席巻し、同年にはカルチャー・クラブの『カラー・バイ・ナンバーズ』がヴィジュアルカルチャーの到来を告げ、さらに翌年にはヴァン・ヘイレンが<ジャンプ>を収録した『1984』をリリースする。本来サブカルチャーであったロックが大衆娯楽へと変わっていくのが、ちょうどこの80年代前半だ。しかしR.E.M.は、そんなエンターテイメント化するロックに居場所を見出せず、その隙間にポツンと取り残されるしかなかった。

 シンプルなメロディラインやドラムとベースの早いビート感などに見られるパンクの影響と、米南部という土地柄なのか、カントリーミュージック的なアコースティックさが混ざり合ったR.E.M.の音楽は、奇妙で独特で、上記のような同時代のアルバムと聴き比べると、いかに彼らが異端であるかがわかる。

 マイケル・スタイプの歌声は、英語圏の人でさえ歌詞が聞き取れないと言われるほどボソボソとして投げやりだ。それは当時の音楽シーンのどこにも居場所がないという怒りと孤独の表れであり、だからこそ自分の好きな音楽で自分の場所を手に入れたいという祈りでもある。不安と憂鬱さは、だからこそ澄んだように優しく響くのだ。

 音楽シーンの隆盛から一定の距離を置き、アンダーグラウンドなロックを切り開いたR.E.M.。彼らの独自の進化の道は、やがて90年代初頭にニルヴァーナやレディオヘッドを生む「オルタナ」となって花開く。


R.E.M.が初めてテレビに出演した時の映像。演奏しているのはデビュー曲<ラジオ・フリー・ヨーロッパ>。現在はスキンヘッドのマイケル・スタイプだが、まだこの時は髪の毛がフサフサしていて若々しい。
4人の遊び心が爆発
全編がラジオ番組形式の企画アルバム


 前項に引き続き、ザ・フーの紹介。実はザ・フーの魅力が本当に花開くのは、前項で紹介したファーストアルバム『マイ・ジェネレイション』ではなく、2枚目の『クイック・ワン』からである。ピートのソングライティングもキースのドラムも、これ以降一気に花開く。今回紹介する『セル・アウト』は、1967年にリリースされた3枚目のアルバムで、ザ・フー初期の傑作である。

 このアルバムは、全編が架空のラジオ局「ラジオ・ロンドン」の番組、という形式になっている、一種のコンセプト・アルバムである。曲間にDJによるMCが入ったり、コマーシャルのようなものが挿入されていたりして、聴いていておもしろい。

 元々はリーダーのピート・タウンゼント(ギター)が、曲間に広告スペースを作って、本物の企業のCMを入れようと考えたのが発端らしい。

 ピートはソングライターとしてもプレイヤーとしても稀有な才能を持っているが、同時に彼はおもしろいアイディアをひねり出す企画屋でもある。実際、この“アルバム内コマーシャル”というアイディアを思いついたときも、広告代理店に企画を打診してピート自身が出向いてプレゼンをしたというから、彼の役割は単にバンドのリーダーというよりも、イベントの幹事、といった方が適当かもしれない。

 もっともこの企画は代理店に一蹴されてしまうのだが、あくまで当初のコンセプトにこだわる4人はCMやMC部分も自分たちで作ることにした。本物の、例えばコカ・コーラなんかのCMが入っていたら、それはそれで聴いてみたかった気もするけれど、結果としては全て自前で賄ったことで、4人の遊び心が隅々にまで行き渡ったアルバムとなった。

 たとえばジャケット。4人が架空の肌クリームや缶詰を手にして、広告写真よろしくニコッと構えている写真は、「くだらねー!」と突っ込みたくなる。実はそれらの商品の名前は、そのまま収録されている曲のタイトルと一緒で、各曲はその商品の宣伝のような内容になっている。

 上にあるジャケット写真の左側、ピートが手にしているピンクのデオドラントの名前は、4曲目<オドロノ>。曲中では、明日のスターを夢見る若い女性シンガーの苦労と挫折の物語が歌われる。彼女は成功を目前にするが、体臭が原因で大事なステージをキャンセルされてしまう。ラストのフレーズが、「だから言わんこっちゃない、オドロノを使えばよかったのに」。こういう、本気かギャグかよくわからない感じは、ザ・フーはものすごく多くて困る。

 だが<オドロノ>の前半のように、ストーリーのある、ある種小説のような歌詞で曲を作らせたらザ・フーは同世代のどのバンドよりも巧い。ピートはロックにミュージカル的な曲展開を融合させ、それまでのポップミュージックにはなかった、スケールの大きな物語性を発明した。彼のそういった才能は、『セル・アウト』以前にも演劇風の楽曲<ハッピージャック>や<クイック・ワン>などに見られ、後にはアルバム『トミー』において、「ロックオペラ」という手法を生み出すに至る。彼はイベントの幹事であり、さらには物語作家をも兼ねているのだ。

 セットを破壊する破天荒さやプレイのパワフルさに見られる肉体的な部分と、その180度逆ともいえる、ドラマ性に満ちた文学的性格。2つの正反対の性質を併せ持っているところがザ・フーの面白いところである。それも、極めてナチュラルに、である。ビートルズもストーンズもどちらかに偏らざるをえなかった。やはりしたたかで天然の末っ子ザ・フーはすごい。

だんだん耳から離れなくなる

“ひねくれ者”のエレポップ

 前項メイツ・オブ・ステイトに引き続き、今回紹介するのも2人組バンド。2006年に英マンチェスターで結成された、ザ・ティン・ティンズ。

 小さなプライベートパーティーなんかを会場にライヴをしたりと、初めはかなりインディーズなところで活動を開始したところ、あれよあれよと言う間に人気が広がって、07年には英国でメジャー契約、さらには米国のリック・ルービン(ビースティ・ボーイズやレッチリを手がけた音楽プロデューサー)から直々のオファーを受け、ティン・ティンズは結成してわずか1年で英米2カ国別々に原盤契約をするという、異例の形でのメジャーデビューを飾った。NMEなどの各紙も彼女たちを大きく取り上げ、最近では「Brit Award 2009」(英国のグラミー賞、今回は以前本稿で紹介したダフィーが最多部門受賞した)でも、U2やコールドプレイとともにパフォーマンスを行った。

 そんなティン・ティンズのファーストアルバムがこの『WE STARTED NOTHING』。ジャケットだけ見ると(ちなみに写真は英国版。米国版は2人の写真が載っていないシンプルなもの)、パンクやガレージっぽいけれど、実際の音は全然違う。

 エレポップと類される彼女たちの音楽は、弾けるようなポップ&ロック。勢いのある曲が多いので、サビだけ聴くと最初はティーンズポップのような印象を受けるのだが、アルバムを通して聴くと、既成の枠には収まるまいとする彼女たちの“ひねくれ”が随所に見られる。

 言葉で説明すれば、ダンスミュージックっぽいクールなビート感の上に、ギター・ドラムという生楽器とエレクトリックな音色を同時に乗っけた、というだけなのだが、これが不思議と微妙にありそうで微妙にないようなテイストなのだ。そんな微妙なところを探して突いてくる“ひねくれ”がフックになって次第に耳から離れなくなる。知らず知らずのうちに魔法にかかったような感覚が気持ちいい。

 そもそもデビューアルバムでありながら、タイトルを『WE STARTED NOTHING』とつけるあたりからしてひとクセありだ。実は2人とも、以前に別のバンドを組んでおり、レコード会社と契約まで結んだものの、形だけのまま干されてクビになってしまった経歴を持つ。自分たちは“新人”ではないという気骨が、「私たちは別に何かを始めたわけじゃない(元からやってたよ)」というメッセージから窺い知れる。

 メンバーはボーカルのケイティ・ホワイトと、ドラムをはじめ何でも弾けるマルチプレイヤーのジュールズ・デ・マルティーノ。特にケイティは、ブロンドでスタイルもよく声もキュートなのに、その目はいつも全てを見透かすようにクールで、わざとピッチを外したような歌い方をする、鼻っ柱の強いフロントマンだ。

 甘っちょろい恋の歌など皆無。彼女の歌はいつも自立を促す曲ばかり。デビューシングル<THAT’S NOT MY NAME>では、たくさんの女性の名前を連呼しながら、「それは私の名前じゃない」と歌い続ける。彼女の書く詞では、“YOU”とは“貴方”ではなく、常に“諸君!”というニュアンスだ。

 ひねくれに見えるのは、実のところ強い自負心に裏打ちされた彼女の強烈なポジティビティなのだ。最近の草食男子たちから見ればきっと眩しくて仕方ないだろう。

 THAT’S NOT MY NAME>PV(US版)

ポップなメロディ&ハーモニーを

ロックのビートに乗せて


 アメリカ・サンフランシスコ出身の男女2人組、メイツ・オブ・ステイト。結成は1997年というから、すでに10年以上のキャリアを持つ中堅アーティストである。本作は彼らの5枚目のアルバムにあたる。

 決してメジャーな存在ではないけれど、だからこそおすすめしたい。コリ・ガードナーの奏でる鍵盤と、ジェイソン・ハメルの叩くドラム。たった2種類の楽器構成でありながらも、カラフルでぶ厚いサウンドを奏でる素敵なバンドである。

 

 2人編成というのは、バンドの構成単位としては最も小さいものだが、決して珍しいわけではない。ホワイト・ストライプスしかり、初期ストレイテナーしかり。

 すごいなあと思うのは、多少のサポートやレコーディングでのカバーはあるにしても、基本的に2人のまま、楽器2種類のままで「バンドサウンド」にしてしまうところだ。ホワイト・ストライプスなんて、ギターとドラムしかないという“いびつさ”を逆手にとって、思いっきりゴリゴリの、むしろ多人数バンドよりも芯の太いロックサウンドを奏でるからカッコイイ。

 メイツ・オブ・ステイトも、一部ゲストミュージシャンを招いているにせよ、大半の楽曲を2人だけの音で構築している。ただし、ホワイト・ストライプスがギターとドラムだけに音を凝縮した、いわば削ぎ落としの音楽とすれば、メイツ・オブ・ステイトはいかに2人だけで厚い音を出せるかを発想の原点として、シンセサイザーの導入や折り目正しいハーモニーなどで、丁寧に一枚一枚サウンドを上から塗り重ねている。

 特にコリ・ガードナーはそれまでオルガン専一だったのをやめて、このアルバムからピアノ、キーボードなどを使用するようになり、バンドの音色の幅を一気に広げた(そういう意味では前作のアルバムはアコースティックすぎて物足りない)。CDで聴くといくつもの種類の音があって、本当に2人なのか?と思うのだが、ライヴの映像を見ると、左手がキーボードでベース音を刻み、右手がピアノで和音を弾き、といった具合に本当に彼女一人で賄っていた。なおかつボーカルもとるのだから、驚くべきDIY精神である。

 歌のメロディは素朴で、どこかノスタルジック。コリの張りのある歌声に、ジェイソンのハモリが常に寄り添う。この2人、プライベートでは夫婦である。子育ての合間を縫ってリハーサルをしているというエピソードの先入観かもしれないが、どんなスタイルの曲でもメイツ・オブ・ステイトはなんとなく全体的に、ほんわか温かいのだ。男女2人組という点だけではなく、音の手触りはカーペンターズに近いかもしれない。

 おもしろいのは、ポップな歌メロや温かなピアノを乗っけているジェイソンのドラムが、かなりロックなところである。決して激しいわけではないし、手数も少ないのだが、叩く音一つひとつが重くてハッキリとしている。しかも彼自身のハモリと同じように、ボーカルにピタリとくっついて、曲の展開やメロディの調子が変わるたびに細かくビートを変えるのだ。

 メロディはシンプルできれいだし、しかもハモっていたりして基本的にはアナログなのだけれど、ロックなドラムがノリの良さを生んでいて、心地よい耳ざわりは残しつつ、どの楽曲も刺激的で聴き応えのあるサウンドに仕立てている。カーペンターズがオルタナになったらこうなる・・・と言ったら逆に伝わりづらいだろうか。

 楽しい曲、優しい曲、心地いい曲、すなわち「ポップ」な音楽を愛する人には、この『Re-Arrange Us』はとてもとてもオススメである。

最高のポップチューンが目白押し

質・量ともに圧倒的な、サザン渾身の2枚組


 2008年いっぱいで無期限の活動休止を発表したサザンオールスターズ。今更詳しい説明など、書くだけ無粋だろう。キャリア30年、途中幾度かの活動休止期間はあったにせよ、常にセールス、楽曲の質ともに第一線を後進に譲らなかった、文字通りのモンスターバンドである。


 この『キラーストリート』は、現時点におけるサザンの最新アルバムだ。そんなことはないと願っているが、万が一、このまま活動を再開することがなければ、このアルバムがサザンのラストアルバムになってしまう。



 だが、あえて言えば、本作はラストアルバムになっても仕方ない、もうこれ以上のアルバムは作れないのではないか、そう思わせるほどの名盤である。全13枚に及ぶ彼らのオリジナルアルバムのなかで、おそらく『キラーストリート』がもっとも完成度が高いのではないだろうか。


 その理由は単純である。まずは収録量が圧倒的だ。2枚組、全30曲、トータル135分強。2枚をフルに使ったボリュームである。そしてプレイボタンを押せば、実に質の高い、貫禄すら感じさせる最高のポップチューンばかりがひっきりなしにかかるのだ。全ての曲はキリッと引き締まり、ハズレがない。


 ちょっと乱暴な言い方だけれど、オリジナルアルバムで2枚組構成というのは、リスクが高い。収録曲の多さが仇となって全体の印象が薄まってしまう量的なリスクや、いくつもの異なるタイプの楽曲が収録されてトータルでは散漫になってしまう質的なリスクなどをクリアしなければ、2枚組アルバムというのはよほど成功しない。


 だが、良い曲を然るべき順番に構成すれば、最高のアルバムが出来上がるのが、ポップミュージックの基本力学である。『キラーストリート』はシンプルにそれだけのアルバムなのだ。良い曲が続けば2枚組だろうが3枚組だろうが、リスナーは満たされる。理由は単純と述べたのは、こういうことである。2枚組であることがこれほど贅沢に思えるアルバムもそうないのではないか。



 全体のトーンとしては、『Young Love』以降顕著になった、死と生や永久の愛といった普遍的なテーマがゆるやかに基調を成している。そのため、かつてのようなスイートさよりも、桑田佳祐のブルージーな面が色濃く出ている。だが、そこは30年近く磨き上げてきたポップセンスが如何なく発揮されていて、ともすればハードな手触りになりそうなところをほどよく中和し、かけっぱなしのBGMとしても、心して聴くタフな楽曲としても耐えうる、サザン得意のオールマイティーサウンドに仕上げている。


 特筆すべきはシングル曲の馴染み方だ。前作『さくら』から7年ぶりのアルバムということで、本作には大量のシングル曲及びそのカップリング曲が収録されているが、驚くほどにそれらがこのアルバムに馴染んでいるのだ。

 これは後々知ったのだが、サザンはかなり前から『キラーストリート』の制作に臨んでいて、シングルとしてリリースされた曲はそもそもこのアルバムに収録する前提で作られたものらしい。それが、制作期間が長期にわたるにつれ、リリースまでのいわば“つなぎ”として数曲をシングルカットしたという事情があるそうだ。だから馴染んでいるのはいわば当然と言えるのだが、逆に、サザンのこのアルバムに対する並々ならぬモチベーションの高さがうかがえる。

 サザンの曲を一曲も知らない、という人はおそらく相当レアだろう。日本の誰もが、少なくともどれか一曲は知っている。だが、それゆえ「“いとしのエリー”のサザン」「“真夏の果実”のサザン」と、多くの人がサザンを曲単位で認識しているのではないだろうか。

 それは非常にもったいない。どのアーティストにも言えることだが、オリジナルアルバムは当人たちのキャリアと音楽的好奇心がどう変遷し、どう記録されてきたかという、歴史そのものなのだ。曲ではなくアルバムで聴くことで、新たなサザンの魅力に気付くはずだ。