今の現状の全てをあるがままに受け入れなさいと言われたら、
自分にはどんな抵抗がありますか?

病気を抱えてる人はそれを受け入れる抵抗が、
人間関係の問題で悩む人はその相手を受け入れる抵抗が
金銭的なことで悩んでる場合はその問題を受け入れる抵抗が働きますね。

こういった抵抗は自分本来の姿を受け入れてない状態を作り出します。

自分本来の姿というのは、自分のポジティブな側面もネガティブな側面も
そのどちらも本来の姿だからです。

抵抗を受け入れられないとき、人は心の中で言い訳します。
それはいったい誰のためなのでしょう?
誰に対して言い訳しようと、飾ろうとしてるのでしょう。
心の中の言い訳をして、いったい何が得られるのでしょう?

不快な状態に言い訳をしても、結局はそこから逃避しているだけなのです。

『あるがまま』とは自分に起きたこと全てに対して
良いことも悪いこともただそのままを受け入れるということ。
何も足さない。何も引かない。ただそのままの状態を認めること。

自分が自分を認めることは、自分を愛するということ。
良い面も悪い面もどちらも愛するということ。


じゃぁ、あるがままなら何でもいいの?と思うかもしれません。
好き放題、やたい放題でもそれを受け入れてしまえばOKなのでしょうか。

『あるがまま』と『わがまま』は違います。

「あるがままに生きる」というのは、
自分も他者のあるがままも受け入れるということです。

「わがまま」というのは
自分はあるがままですが、他者に対してはあるがままを受け入れません。

あるがままに生きるというのは、その全てを認め受け入れるのですから
愛がなくてはできないことなのです。

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『現状をあるがままに受け入れると、さらに深い次元へと導かれるだけでなく、
自己認識を含めた内なる状態は
もはや思考による善悪の判断に自己意識が左右されることもありません』


とエックハルト・トールは言います。

「さらに深い次元」とは、仏陀がいうところの悟りの境地であり
高い意識の状態を表します。

「思考による善悪の判断に自己意識が
左右されることもありません」とは、常に物事を中立で見るということ。

自分の視点から物事をとらえ、自分の物差しで判断することがなくなることを意味します。
善か悪かではなく、ただあるがままなのですから、判断するはもう必要ないのです。

自分のあるがままの姿を見つめていくと、
自分の不満足な部分や虚しさ、満たされることない欲望や葛藤、逃避や非難など
様々なものを観察することになります。

こういった観察は自分自身を見つめなおす材料になり
自分という自己を認識する糧となります。

そうすることでまた一つ、高い意識へと到達することが可能なのです。
心の中の古い感情から始まって、観念・概念、プライド、執着と手放した旅の最後は
「エゴ」の手放しです。


エゴとは、エゴイスティック(egoistic)またはエゴイズム(egoism)の略で、
「自我」と訳されます。

自我を辞書で引くと「意識の主体」「自分・自己」と説明されていますが、
精神分析学の分野ではエゴの殆どが無意識的であると言われることから
「自我=意識」とは違うのです。

エゴの一番の活動は防衛です。
自分を守るために無意識的に防衛反応に出てしまうことは頻繁にあります。

それは「恐れの感情」から湧きあがる無意識的な防衛です。

エゴの特徴は自己中心的な考え方で、混乱を呼び、他者との分離の感覚や
攻撃性を見せたり極端な不安や心配、自分を特別視したり相手を批判したりします。


例えば誰かと言い合いになった時、
「相手は間違っていて自分は正しいと思う心」があったり
「相手が悪いのだから責任は全て相手にある」と思う心があったり。
「何故自分の事を解ってくれないのか?」と感じてみたり。
こんな風にエゴは心を占領していきます。

心の中の自我を抑えることができぬ者ほど
自身の驕慢な心のままに、隣人の意志を支配したがる。


~ヨハン・ゲーテ~

心がエゴに支配されてしまうと、本来の純粋な物の見方考え方からは
遠ざかってしまいます。

素直に相手を受け入れることも出来なければ、
新しく何かを始める希望すらも失ってしまい、
今の現状を維持しようとそこから成長することをやめてしまいます。


シオンの花言葉は『さよなら』


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エゴは甘い言葉で心に囁きます。

ですがそれは無意識的に起こるので、感情に押し流されてしまい
中々気が付きにくいものです。
一旦、自分の心を問題の外に置き、冷静になることでエゴが
だんだんと見えるようになるのです。

エゴを見つけるには先ず冷静に自分の行動や感情を見つめる必要があります。
心を内観していくのです。


自分の言った言葉の裏側にある恐れの感情を見つけるのは
向き合うことになるのだから大変な作業になることもあります。
見たくない感じたくない部分に向き合うのは勇気がいるのです。

そうやって自分の中のエゴに気がついた時、大抵の人は罪悪感を覚えます。
エゴを悪いものだと捉え、反省し、自己嫌悪に陥ったりします。

ですが、エゴとは本来自分の心が傷つかないように働いた防衛なのです。
一生懸命自分を守ろうとしただけなのです。
悪いものではないのです。
ただ少し、守り方が愛からズレてしまっただけの事。

ドイツの哲学者フォイエルバッハはこう言います。

「君が自我を放棄すればするほど君の愛は偉大なり、真実になる」


見つかった自我(エゴ)は放棄すればいいのです。

エゴは、消えてなくなるものではありません。
エゴがあったことを受け入れる、自分の心が必要です。
エゴを見守る観察者になればいいのです。
それがエゴを放棄するということ。

エゴを自由にしても、暴走して暴れ出すことはありません。

それがエゴだと解った時、意識的に「エゴによる思い」とは別の行動に移る事が出来るからです。
純粋な心、愛に基づいた行動をとればいいだけの事なのです。

エゴを手放そうと執拗に追いかけまわしては、堂々巡りです。

宇宙の法則に「それについて考えることはむしろその考えを増す」というのがあります。
エゴを手放そうとエゴに捉われていては、エゴの力はより大きくなってしまうのです。

エゴに気がつけば、それを意識的にコントロールすることは可能です。
そしてそれが、エゴを手放した・放棄したことになるのです。
執着とは何かにしがみ付き離さない状態になることです。
それは心に大きな抑圧と制限をかけてしまいます。

執着の対象は、人だったりお金だったり時間だったり。
物やペット、考え方、仕事、名誉、命など様々なものがあげられます。

執着心は恐れの感情から生まれます。

過去に体験した出来事がまた繰り返されるのではないかという恐れの感情や
自分への無力感、罪悪感などか絡み合って、
もう二度と同じ境地を味わいたくない思いが
執着心を育ててしまい様々な苦しみを生みだします。

執着の対象がなくなったからと言って、自分が消えてしまう訳ではありませんよね?

人との出会いがあれば別れもある。
お金だっていくらあっても幸せは買えません。
今の仕事がなくなったからと言って、直ぐに死に結びつくこともありません。
物はいずれは朽ちて壊れていくものです。

それを受け入れることが出来ない為に、恐れの感情が膨らんで執着してしまうのです。

執着心があると、今以上執着してるものが手に入らないことが起こります。

こころが捉われの状態になればなるほど、正しい判断が出来なくなり
エゴは蔓延し、自分勝手な振る舞いや発言をしてしまいます。
ネガティブな意識に占領されてしまい、新しいものを手に入れるという
エネルギーの循環が起らなくなるのです。


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仏陀は経典で執着のことをこう言いました。

心に好悪を起して執着してはならない。
好むこと、きらうことから、悲しみ がおこり、恐れがおこり、束縛が起こる。
執着があれば、それに酔わされて、ものの姿をよく見ることができない。
執着を離れると、ものの姿をよく知ることができる。
だから、執着を離れた心 に、ものはかえって生きてくる。


~法句経~

『ものの姿をよく知ることが出来る』とは
本来の在り方を受け入れることが出来るということ。
それは執着の対象物だけではなく、自分自身もです。

心を捉われている状態の自分自身の姿は、曇った鏡と同じで見えません。
ですが執着を手放した時、自分自身の心の在り方や考え方すらも見えてくるのです。

今の現状で本当に必要な何かが見いだせる場合もあります。
今まで意識が向かなかったことが見えだし、やるべきことが解る場合もあります。

『ものはかえって生きてくる』とは「物質が戻ってくる」ではないのです。
自分自身の本当の姿、本来の純粋な心が宿り、神聖な魂が甦るということ。
自分自身を取り戻すことが出来るということなのです。



執着を手放すときに気をつけなければいけないのは、
「執着心を手放すことに捉われる」ことです。


些細な執着から、大きな執着まで人は様々な執着心を持っていますが
それを手放すことに意識が向き過ぎると、
手放すこと自体が執着となるのです。

執着する心を見つけた時、それを受け入れることは肝心なこと。
自分がそこに執着してることをしっかりと認める。
そして、手放すと決意をもって自分に宣言しましょう。

その後は、手放せたかということに捉われないでください。
そこに意識が向けば向くほど、新たな執着が生まれるのです。

執着心を手放すとは、捨てる事とは違います。
ただそこに、そういう思いがあったことを受け入れていくことなのです。