真実の結晶 -123ページ目

真実の結晶

真実の体験をお伝えします!気づいて下さい!
あなたはもともとパーフェクトだと言うことを♪

今回は、何かを働きかけることで覚醒に気がつけない状態を釈迦牟尼が忠実に表したOshoの講話にありましたのでシャアします。釈迦牟尼は思考優位な方で、何でも徹底的に思考を使い行って結果を出そうと思っていました。思考優位の方ぜひ読んでみて下さい。


Osho:
仏陀は六年間にわたって働きかけてきた。懸命に働きかけてきた。思うに、これだけ激しく働きかけた者は他にはいないだろう。彼は命じられたことはすべて、できると耳にしたことはすべて、どこかで拾い集めることができたものはすべてやりつくしてしまった。彼はあらゆるタイプの師のもとを訪ね、実に厳しい修行を重ね、誠実に、真面目に取り組んだ。だが、六年が虚しく過ぎていったある日のこと、仏陀は、このようにしていてもそれは起こらない、働きかければ働きかけるほど、私というものが強くなってゆく、という事実に気ついた。

その日、彼はくつろいで、探し求めることを完全に落とした。すると、まさにその夜のこと……その夜もやはり満月だった。満月と光明にはどこかつながりがあるにちがいない。満月は、海に与えるのと同じくらい深い影響をあなたのハートに与える。満月はあなたを揺り動かし、美や至福へと向かわせる。それはあなたのなかに何かを……仙薬をつくりだす。それは人の感受性をひじょうに高めるので、あなたは今まだかつて見たことがないものを見ることができる。

それは満月の夜のことだった。仏陀はゆったりとして、完全にくつろぎ、はじめてぐっすりと眠った
....何かを探し求めているとき、どうして眠ることができるだろう?眠りのなかでも探求はつづき、欲望は夢を紡ぎだしつつけている。今や、何もかもが失敗に終わってしまった。彼はこの世間を、王国を、恋愛や人々との関係の喜びや苦しみを、肉体と心の苦悩や歓喜を見てきた。続いて彼は禁欲の修行者、僧侶となり、たくさんの道に従い、それもまた見てしまった。彼はいわゆる世間を味わい、いわゆる出世間をも味わったが、いずれも失敗に終わった。もはやどこにも行くところはない、これ以上は一寸たりとも動けない。欲望はみな消え失せてしまった。そこまで絶望しきっているとき、どうして欲望を抱くことができるだろう?欲望とは希望のことだ。欲望とは、まだ何かすることができるということだ。

その夜、仏陀は「為しうることは何もない、いっさい何もない」ということを知るに到った。その要点を見るがいい。そこにはとほうもない美しさがある……為しうることは何もない、いっさい何もない。彼はくつろいだ。彼の身体はゆったりとくつろいでいたにちがいない。彼のハートはゆったりとくつろぎ、願望も、未来もなかったにちがいない。この瞬間がすべてだった。空には満月がかかり、彼は深い眠りについていた。そして、朝が来て、目覚めたとき、彼は通常の眠りから覚めただけではなく、私たちみなが生きている形而上的な眠りからも覚めていた。

彼は覚醒をとげた。彼は弟子たちによくこう言った。「私は懸命に働きかけたが、成長することができなかった。そして働きかけるという考えそのものを落としたとき、私は成就した」私が自分の仕事ワークを「遊び」と呼んでいるのはそのためだ。あなたがたは、矛盾した立場に立たざるをえない。それが「遊び」という言葉の本当の意味だ。あなたがたは、働きかければ何かが起こるかのように妙に深刻な姿勢で取り組んでいるが、それは働きかけることを通しては絶対に起こらない。

それは働きかけることがやみ、遊び心に満ちた気分が生まれ、くつろいだ気分になったときにはじめて起こる……しかもそれは努力して身につけたくつろぎではなく、こう理解することで生まれる。くつろぎだ
....「何をやっても、私をますます強めるだけだ。何をやっても、自我をますます膨らませるだけだ。自我は障壁なのだから、何をやっても元のもくあみだ」これを見抜くと、行為はかき消えてしまう。

そして行為なくして、どうして行為の主体が存在できるだろう?行為が消えれば、その影である行為の主体も消えてゆく。そしてあとにはあなたが残される
....<全体>のなかに、この宇宙的な遊戯の一部として、丸ごと、完全な状態で。それが光明だ。
Osho - The Secret Of The Secrets

どうだったでしょうか!思考型の方は、まず身体をリラックスすることが大切であり、仏陀は「為しうることは何もない、いっさい何もない」ということを知るに到ったのです。そうすると、頭脳のセンターからハートにのセンターに落ち、さらの中心のセンターに向かうのです。

 

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最近、たくさんの見性者や悟りを得たと言われている人達が出てきています。今回、覚醒の気づきに向かうと起こる「慢」の出来事についてお話したいと思います。覚醒の気づきのプロセスが進んでくると起きる「慢」とは「自分は特別になった!他人とは違う」と思った瞬間やってきます。そう、他人と違うと感じた時に対象物を作り、比較することでの「私はこんなに変わった」という優越感と自分を見てほしいと言う気持ちから二元の世界にドップリ入ってしまうのです。

「慢」を辞書でひくと「他を見くびりおごる」と書いてありました。さて、この「慢」の行動は、指導者
(グル=真我の通訳)がいる場合といない場合では多少違ってきます。まずグルがいない場合は、ワンネス体験や神秘体験をするとそれが特別な体験と思い込み、(先ほども書きましたが、自分は特別になったことを他人に認めて貰いたくて)その体験話して回ります。ひどい場合は「自分は完全に覚醒した」と思い込み教祖になってしまいます。

グルがいる場合は、その人が過去世の体験を思い出させるアシストをしてもらっていることをすっかり忘れ、自分が同等もしくは、それ以上になった思い込み、グルの言うことは素直に聞けずに自分の意見などを通そうとします。当然、グルはその人にわかるように働きかけますが(きつい内容の話はしますが)「慢」や「プライド」により聞き入れられない場合(そのことに気づき修正できればいいですが)見性者であっても離れて行くこともあります。

まあ、これも全てはその人が覚醒する為に書いたプログラムなので止めようがありません。そのため、グルは「来るもの拒まず去る者追わず」の体制をとっています。全てとは言いませんが、ひとりでは覚醒に気づき、安定することは至難のわざです。過去世で沢山の覚醒体験をした人は別ですが、ほとんど人はグルに(覚醒の気づき、もしくは安定まで)導いてもらったほうが確実に早く悟ります。

私も同じように色々な体験や気づきがあった時に、この慢が出てきて魔境におちました。それは、東京で無料セッションを行っている時でした。覚醒の気づく後、いろいろなことが別次元で見えてきました。悟りの本に内容が自分の体験にも似ていたせいもあり、自分が特別な状態に感じられ、自分の思うことは全て正しいと思い込み、他人を上から見ました。それに人の意見も聞かない状態でした。これこそ、覚醒天狗状態です
()でも、幸いにもその後天狗の鼻がへし折られ魔境から脱出できました。

さあ、あなたはどうですか!覚醒天狗になっていませんか?もし、天狗だと思ったあなた!信頼するグルがいるなら、その鼻を折ってもらって下さい♪


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ある方から「覚醒の状態とはどんな感じなのでしょうか?」と質問がありました。ちょっと比喩が多くわかりづらいかも知れませんがOshoの説法をシェアします。長いですがシッカリ読んでみて下さい。


Osho
:神が今ここにいることがわかると、神はどこにもいないことがわかる。どちらも同じことだ。神はどこか特定の場所にいるわけではなく、それは確かに真実なので、神はどこそこにいるという言い方はできない。居場所をつきとめることはできないし、それを確定することはできない。ナナークは、神の居場所を尋ねるのはまるで見当違いであり、神がいない場所はどこかと尋ねるべきだと言っている。神があまねく存在しているのであれば、神は至るところにいると言っても、神はどこにもいないと言っても大差はない。神があまねく存在しているのであれば、どこそこにと言うことには意味がないからだ。

神はある。どこにもない国とは今ここのことだ。今が唯一の時間であり、ここが唯一の場所だ。今ここで神を見いだすことができなければ、どこへ行っても神を見つけることはできない。この瞬間、まさにこの瞬間に ……三つのステップが実現され、第四のものが達成されたら、これが起こる。これは秘法のなかの秘法だ
....神はどこかに腰かけている人物ではない。神が人物として知られることは、けしてないし、人物として知られたことも一度もない。

神を人物として認知した人々は、みずからの空想にだまされていただけだ。キリストの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。あなたがそれをつくりだしている。クリシュナの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。空想力を培うことはできるし、空想の翼を広げることはできるが、あなたは夢をつむぎだし、夢を投げかけている。それはあなたの夢を見るマインドの働きだ。真理は人物ではないし、真理はどこかに、外にあるものではない。

それは客体として見つかるものではなく、みずからの目撃しつつある主体だ。そしてそれは、あなたの男と女が消えてひとつになってはじめて実現する。フランス人が言うように、三つの性別がある
....男、女、そして聖職者。彼らは冗談で言っているのだが、そこにはなかなか深い意味が込められている。まさに三つの性別がある....男、女、そしてブッダだ。

ブッダは男とも呼べないし女とも呼べない。いずれかの肉体をもってはいるが
....男の肉体かもしれないし女の肉体かもしれない....ブッダはもはや自分の肉体に同一化していない。彼はただ純粋な目撃者だ。彼は、あなたが彼の肉体から離れているように自分の肉体から離れている。あなたと彼の肉体とのあいだには距離があるが、彼とその肉体のあいだにも同じような距離がある。あなたは外に立って彼の肉体を見ているが、彼は内側の深いところに立って自分の肉体を見ている。

だが、あなたと彼の肉体のあいだの距離と、彼とその肉体のあいだの距離は同じだ。彼はもはや自分の肉体に同一化していない。彼は男とも呼べないし女とも呼べない。彼はただ超越している。そしてこの彼方なるものが開かれたとき……どこにもない国こそ、真のわが家である。あなたはわが家に帰り着いている。この詩句は神秘に満ちている。それが意味するのは、深遠なるタオにおいて最も重要なのは「無為の為」という詩句である、ということだ。わが家に帰り着いてはじめて「無為の為」という言葉の究極の意味がわかるようになる。だが、あなたはまさにその始めから、その方角に向かって進んでゆかなければならない。そうしてはじめて、いつの日か究極なるものが起こる。
Osho - The Secret Of The Secrets

どうだったでしょうか!この
Oshoの話は覚醒の気づき以上の体験がないとわからないことです。特に「ブッダは男とも呼べないし女とも呼べない。いずれかの肉体をもってはいるが....男の肉体かもしれないし女の肉体かもしれない....ブッダはもはや自分の肉体に同一化していない。彼はただ純粋な目撃者だ。」この状態は、意識は完全に観照者から見た状態です。Osho
の話は比喩が解りづらい所もありますが、体験したものでないとわからないことを、うまく言葉にしています。



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