紗羅双樹
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2022年 草萌 掲載句

    1月号(第86号)

 刻太鼓

   秋の燈や休耕田を渡る風

   

   長き夜の柱時計の一打かな

 

   秋暁や道後温泉刻太鼓

 

   点と点繋ぐポアロを夜半の秋

 

   黒門の臥龍山荘昼の虫

 

   風落つや足組み直す夕花野

 

   椋鳥やヒッチコックは空覆ふ

 

    3月号(第87号)

 唐門

   渓谷の坂にはじまる冬紅葉

 

   ぬかるみに響く手締めよ酉の市

 

   紅葉散る円月橋の水鏡

 

   唐門の空に腰掛け松手入れ

 

   冬雲や亡びし城の障子掘

 

   暗号を光の運ぶ小春かな

 

   天気図の白増えつづく雪催

 

   二次会を一人断る霜夜かな

 

    5月号(第88号)

 摩天楼

   門松の太さ本家と隔たらず

 

   日短の夕日は一途摩天楼

 

   神前に礼の一声寒稽古

 

   立春の光を返すスニーカー

 

   山寺の鐘おんおんと春来る

 

   さざれ石春の光を存分に

 

   春宵の少女真珠の耳飾り

 

   ほろほろと硬き地を割るクロッカス

 

    7月号(第89号)

 名画座

   ものの芽のほぐるる風の伊予路かな

 

   春宵や郭名残の佇まひ

 

   店先へ日差しとろりと古雛

 

   うららかやシャッター街のジャグリング

 

   名画座の幕間の春蚊神楽坂

 

   一滴の目薬零す花の冷え

 

   体内に小石を抱へ花曇

 

   よろよろと動く初島春霞

 

    9月号(第90号)

 ホームズ

   竹皮を脱ぐや第一反抗期

 

   もめんから絹の豆腐へ夏来る

 

   若葉風通船堀に吹かれをり

 

   蟻の列不思議の国の細道へ

 

   滝壺の底の明るさ森の黙

 

   日盛や水面に届く一つ松

 

   ホームズの推論容赦なき西日

 

   雨風に阻まれ登る立葵

 

    11月号(第91号)

 亀の首

   落し文関守石の先の先

 

   飛べさうで飛べぬ跳び箱雲の峰

 

   梅雨夕焼菩薩の裾のゆるびたり

 

   今年竹はや撓ひたる高さかな

 

   夏雲を潜り抜けたり亀の首

 

   秋近し民事訴訟の硬き文字

 

   桐一葉落ちて露座仏粗造り

 

   夏逝くや暮色の走る組井筒

 

  

 

 

     

2021年 草萌 掲載句

2020年 「草萌」掲載句

1月号 (第74号)


   巾着田


静けさの底の水引縺れあふ


稲架解くや風の声澄む巾着田


十六夜の静寂の街を歩きをり


梨売りの来る頃雲の混みあふ日


清秋の龍の鱗の逆立ちぬ


紅葉かつ散る一乗谷の静寂


なまはげの小噺ひとつ菊日和 



3月号   (第75号)                                        


    海の色                                                                                                     


風花や豆腐ゆつくり水の底                                             


暮れそむる十一月の海の色                                                


首里城の紅蓮の炎そぞろ寒


冬うらら姉川に聞く鬨の声


クレーンのキリン寒暮の港町


義捐金の袋各戸へ聖夜かな


鯛焼の餡の重さを吾妻橋


 

5月号  (第76号)


    永き日


初御空関八州を見渡しぬ


路地奥の湯屋暮れ残り大晦日


竹筒の一輪ゆかし寒椿


大いなる海のうねりよ春浅し


もじやもじやと流れ始むる春の川


剪定の枝落ちしまま色づきぬ


永き日の駱駝の睫毛ちりちりと



7月号  (第77号) 


    春光


紫木蓮崖に迫り出す鉄路かな


春光や矢狭間の先の讃岐富士


日に影に工事現場の花吹雪


如月の平家の先の小袖かな


倒木の幹の太さよ二月尽


身の内に秘めしままなる桜貝


石段の上の城垣春時雨



9月号  (第78号)


    蛍合戦


小流れの蛍合戦武者の霊


釣瓶井戸までを飛石旱草


玄関の靴の散乱夏来る


ラムネ飲む玉の機嫌をなだめつつ


万緑や死の彷徨の八甲田


笹の葉の色をほのかに粽かな


万緑をはみ出し描く十二号



11月号  (第79号)


    竹百幹


稲妻に竹百幹の艶めけり


稲妻や一遍像の目の窪み


竹林に入り込みたる稲光


飛石の上の止め石秋暑し


ダリの絵の時計だらりと溽暑かな


片時も輪唱止まぬ青蛙


遠岬日を砕きたる大南風



 


 




 





 




今治城

   今治城       令和2年3月7日 登城


慶長7年(1602) 藤堂高虎が、瀬戸内海に面する

「吹揚の浜」と言われる砂丘地帯に築城。


慶長13年(1608)完成。

正方形の曲輪に高石垣と水掘りを巡らせる。

そして三重の堀には海水を引き込んでいる為
海から堀へ直接船が入れるようにし、交通の

要所である今治ならではの城づくりであった。


堀には現在も海の魚がおよいでいる。


本丸は日本初の層塔型の五重天守で、破風はなく

各階を次第に小さくし、内部に武者走りを巡らせていた。


:慶長14年(1609)高虎が伊勢国津城に転封の際解体

丹波亀山城の天守となった。


今治領は、養子高吉が継ぎ、後、伊賀国名張に移り

代りに伊勢国長島城より松平定房が入城し、明治維新

まで続いた。


明治2年(1869)廃城。



今治城


      鉄御門

鉄御門



   天守と高虎



   天守











特急


3日で四国一周の百名城巡りをしたが、方向音痴の高齢者
の事、城を訪ね歩くのは大変であったが、  駆け足でも無
事出発点に戻る事が出来た。四国の列車の変わり様には
驚いたが楽しい一人旅を満喫する事が出来た。感謝感謝。



 



 


 

 



                                                                              

                                                                         

 

丸亀城

 

 丸亀城       令和2年3月7日 登城


丸亀平野の標高66mの亀山に、生駒親正・一正が

慶長2年(1597)から、高松城の支城として築城。


元和の一国一城令で、破却の危機にさらされるが、

時の藩主生駒正俊が樹木で覆い隠し、立ち入り制限し

城を守った。


寛永17年(1640)生駒騒動のため、秋田へ転封となる。

寛永18年(1641)天草より山崎家治が入封し、寛永20年

(1643)から再建。 


万治元年(1658)、後継ぎの無い山崎氏のあとに、播磨国

龍野より京極高和が入封し、明治時代まで京極氏の居城

となる。  


日本一高い石垣の城と言われるだけあって見事な石垣であった。

石垣の反りは独特で美しさを際立たせている。


城内見学はスリッパに履き替えるが、躓くため、靴を脱いだ

だけで入城しようとしたところ、靴を履いたままでとの、

親切な心遣いを受けた。 






丸亀城跡


                                                                           



   大手一の門


  高石垣



  大手二の門


門

  二の丸跡


二の丸跡


 

天守













堀



  

高松城

  高松城       令和2年3月6日 登城  


秀吉の武将生駒親正が、讃岐一国を与えられ 

天正16年(1588)、海水を取り込んだ水掘りが、

本丸、二ノ丸、三之丸を巡る海城を造りはじめた。

今治城、中津城と並び三大海城である。



寛永16年(1639)生駒高俊は、生駒騒動により矢島藩に

転封。

寛永19年(1642)水戸初代藩主徳川頼房の子松平頼重が

12万石で入封、城の整備に着手。

天守は三重四階地下一階に改築。

最上階が下の階より張り出した南蛮造(唐造)であった。

明治2年(1869)版籍奉還により廃城。

天守は明治17年(1884)取り崩された。



  

玉藻公園






      月見櫓

          船の到着を監視するための櫓で着見櫓

          とも呼ばれた。            

 


          破風や窓の上下に長押型などを設け

          装飾性が高い。



月見櫓




      屋島

屋島




                                                                                                                                             
                                                                                                                                       









 

徳島城



 徳島城      令和2年3月6日 登城  


鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。

戦国時代は、群雄割拠の為度々が入れ替わった。


天正0年(1582)土佐の長曾我部元親が侵攻し、阿波は

平定。


天正13年(1585)秀吉の四国征伐に勲功のあった

蜂須賀家政により、吉野川河口の標高62mの渭山に

築城。

大阪夏の陣の戦功で、淡路7万1千石の加増があり

江戸時代を通じて25万7千石の蜂須賀氏の居城であった。

本丸、東二ノ丸、西二ノ丸、西三ノ丸からなる城部分と、

麓のお屋敷からなる、戦国時代を思わせる縄張りであった。

初代の天守は元和年間に取り壊された。

その後の天守は山頂の本丸ではなく、一段下った

東二ノ丸に建てられた。

しかし明治6年(1873)廃城令により取り壊された。


城内を巡る石垣は泡の青石と言われる緑色片岩。

御屋敷に表御殿庭園が造られ現存している。




徳島城石垣

          数寄屋橋







    史料館


 

   阿波盆踊り図屏風



 

    
    雛壇





    庭園



   太鼓櫓跡











 

高知城

 

 高知城        令和2年3月6日 登城 



南北朝時代、大高坂山に大高坂松王丸の居城があった。

松王丸は南朝につき、興国2年(1341)北朝方の細川禅定

佐伯経定と戦い落城した。


天正15,年(1587)長曾我部元親が、大高山に築城。

慶長6年(1601)関ケ原の戦いで、元親の子森近が西軍に

つき改易された。

代わって山内一豊が掛川より入封、大高坂山に新たに

高知城を築く。


享保12年(1747)の大火で焼失。

その後延享4年(1747)に望楼型天守として再建された。


天守は四重六階で、千鳥破風、唐破風を付けた安土桃山

時代の様式 








      追手門

追手門







空堀を跨ぎ建てられていた為、橋廊下と呼ばれていたが
階上が登城した武士の詰所となっていた為、今の名は詰門







天守はコロナ対策の為閉鎖されていた。
100名城のスタンプは天守の中以外は何処も
置いてないとの事で、遠方から来たのに・・・








 

 

宇和島城

宇和島城      令和2年3月5日 登城


 中世にあった丸串城の跡へ、秀吉の四国征伐後

 築城の名手と言われる、海、山を巧みに取り入れ、

 藤堂高虎が慶長元年(1596)から6年を費やして

 築いた。


 城はリアス式海岸の宇和海の最深部に位置する。

 

 高虎移封後、富田氏を経て伊達政宗の長子秀宗

 が入り、伊達十万石の城下と呼ばれ、明治まで

 続いた。


 高虎創建の天守は望楼型であったが、老朽化の為

 寛文6年(1666)に、2代藩主宗利に建て替えられた

 天守は三重三階の層塔型で、唐破風造りの玄関、

 一重目は比翼千鳥破風、二重目に千鳥破風、

 三重目に軒唐破風で装飾性が高く華麗である。

 これが現存する天守。


 慶長期の苔むす石垣が見事。 


















 次の高知へ向けて列車に乗ったが、これが一番初めの

 新幹線を模したホビートレイン。これには驚いた。

 特急ではなく、各駅停車で一両。乗り換えの窪川駅まで

 のんびりと四万十の景色を見ながら、嬉しい一人旅。


ホビートレイン


 窪川駅では楽しい列車が・・・






          紫木蓮崖に迫り出す鉄路かな    昭子



 




大洲城

 JR四国のバースディー切符を利用して一気に

 四国の100名城の登城に出かけた。

 コースは松山の友人が以前行ったと同じ順序。

 JR松山駅前のホテルに一泊し、大洲城へ。


大洲城          令和2年3月5日


大洲城の始まりは、元弘元年(1331)伊予国の守護

宇都宮豊房の築城によるもので、肱川に突き出す

標高約20mの地蔵ヶ嶽に築かれた。


大洲街道、宇和島街道の結節点。 加えて

東は土佐街道に、西は八幡浜港を控えた交通の

要所であった。


秀吉の四国平定後、城主は戸田勝隆となり

文禄4年(1595)藤堂高虎が、近世の城郭として整備。

慶長14年(1609)脇坂安治が天守や建造物を造営。


元和3年(1617)米子から加藤貞泰入封後は、明治

維新まで続いた。


四重四階の層塔型天守。

明治維新の廃城は免れるが、明治21年(1888)に

天守が取り壊された。


平成16年 天守再建。  


遠望




天守




天守と台所櫓




天守と高欄櫓




この旅の楽しみは、四国にどういう列車が走っているかであった。
故郷松山駅に来た列車は、アンパンマン列車には驚いた。










 

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