歌舞伎グル ープ 平林寺紅葉散策
横瀬・西善寺のこみねカエデを予定していたが、
一の酉
上京以来必ず毎年酉の市には出かけている。
初めは全員が出かけていたが、いつの間にか一人抜け二人抜け
の状態で二人になってしまった。
と言っても家族は初めは4人であった。
行っているところは、新宿花園神社。高円寺に住み始めたから。
今年は二の酉までだからか、境内に入るとすぐ手締めのあちこちから
あちこちから聞こえてくる。
ご本尊からお参りをして、にぎやかな熊手売り場に足を運んだ。
今年も天井まで隙間なく並べられた熊手が、どんどん買われていった。
久しぶりに縁起物の切り山椒を買った。
日本現代絞り染織作品展
会期は11月6日から11日まで。
松山からの友人と現地で待ち合わせていると、従妹達も合流。
絞りは染織の原点でもあり自由な可能性に満ちた技法である。
着物の衰退とともに低迷していたが、今日、新しいニーズの中で
見直されその可能性を伸ばし始めている。
再認識されこれを未来につなげたいと、同窓のわたなべひろこ先生の
言葉と共に驚くような作品を拝見させていただいた。
若い人の感性は素晴らしい。
多賀城
多賀城へは高速道路の分岐点を左へとの指示でそのようにしたが、
走れど走れど何時になったら着くのか。右往左往しながらやっと
着いたのは、閉館の四時半ギリギリであった。
百名城のスタンプをもらう係は長女。写真は私。
二手に分かれての行動が間に合った。
多賀城は724年(神亀元年)、大野東人により陸奥の国府及び鎮守府として
創建されたのち、約600年間東北地方の政治、軍事の中心として栄えた。
平城京跡(奈良県)、大宰府跡(福岡県)、多賀城跡(宮城県)は日本三大史跡
で国の特別史跡。現在建物は少しずつ復元されている。
毛越寺
毛越寺は慈覚大師円仁が開山。
藤原二代基衡、三代秀衡の時代に多くの伽藍が造営された。
天台宗の寺院で現在の本尊は薬師如来立像(平安時代後期の作)
「吾妻鏡」には寺院が立派であることと、国内に並ぶものなしと
記されていた。
しかし、近世までにすべての堂塔が消滅。
境内には全盛期の伽藍遺跡が良好な状態で残されているほか、
中心となる浄土庭園が往時の姿に修復、再生されている。
遣水は往時のままに発見されたもので、平安時代の遺構としては
唯一のもので、流れの底には玉石が敷き詰められ、水切り、水越し、
水分けなどの石組みが配されている。
毎年、新緑の頃に開催される曲水の宴の舞台である。
中尊寺
古い友人宅に泊った翌日、中尊寺へ行こうと言われ、高速に乗った。
昔、この友人の家に度々来ていた頃、一緒に行ったことを思い出した。
子供たちが小学生くらいで、中尊寺の坂を下りているのは目に浮かぶが、
上った記憶はない。
中尊寺
天台宗東北大本山 八百五十年、慈覚大師円仁の開山。十二世紀初め奥州藤原氏初代清衡公が
前九年・後三年の合戦で亡くなった命を平等に供養し、仏国土を建設するため大伽藍を造営した。
惜しくも十四世紀に堂塔の多くは焼失したが、金色堂始め三千余点の国宝・重要文化財を伝える
平安仏教美術の宝庫である。
金色堂
天治元年(1124)造立。堂宇全体を金箔で覆い随所に螺鈿細工・蒔絵などの漆工芸や精緻な彫金を施して
経典に説かれた「皆金色」の極楽浄土を表現。
金色堂は霊廟であり清衡、基衡、秀衡のご遺体と泰衡の首級が納められている。
向島百花園
所属している結社の吟行句会。
吟行先は向島百花園。
9時30分現地集合のため、ラッシュ時に混雑した電車に乗り立ちっぱなしで
池袋に着いた時には、も うヘロヘロでこのまま帰ろうかと思ったほど疲れた。
山手に乗り換え日暮里まで。これも後から来る電車との間隔が空きすぎとかで
駅に止まるたびに数分待たされる。
これもやっと日暮里に着き、百花園へのバスに乗ろうとしたところ、スイカがない。
慌てて交番に駆け込み、事情を話し今まで歩いてきたところを引返した。
何分もかからないところに赤い袋を見つけた。拾った方が実のなしぞ悲しい像に置いて下さっていた。
日本だからこそと思った。
集合時間には間に合わなかったが、連絡しておいたので担当の方が見つけて下さった。
嬉しいことにもう終わりと思っていた花々が、まだいろいろと残っていた。
今まで何度か訪れているが、今回は念願のナンバンギセルの花が残っていた。
11時過ぎそろそろ草加の句会場に行き、句会が始まった。
驚くことに主宰の天賞に選ばれた。
いろいろなことがあった一日だったが、良い一日だと思った。
16歌舞伎グループ
市民大学ダースの会の解散後、このまま終わりにしてしまうのは寂しいと、希望者が集まって
スマホを使っての歌舞伎グループが立ち上がった。
会員は14名。
今月は課外活動で松陰神社・豪徳寺の散策。
松陰神社
明治維新のたてやくしゃである伊藤博文等多くの逸材を育てた、吉田松陰をお奉りする神社。
安政の大獄により江戸で処刑された松陰を、弟子たちが長州藩の下屋敷のあったこの地に埋葬した。
明治15年墓畔に社を築き魂の鎮座するところとなる。
世田谷城址公園
世田谷城は初代吉良氏が南北朝の頃、関東官僚・足利基氏から戦の手柄により武蔵国世田谷領を
もらい受け築城したのが始まり。以後吉良氏八代、二百数十年の間居城として栄え、吉良御所、世田谷御所と
呼ばれていた。
1590年豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼしたとき、北条市と親戚関係にあった吉良氏も運命を共にした為廃城となった。
土塁や丘、谷が残っている。
豪徳寺
1633年に世田谷が彦根藩の所領地となり、1480年に建立されていた「弘徳院」を彦根藩主井伊家は江戸菩提寺と定めた。
その後名前を豪徳寺と改称され、大名家墓所に相応しい伽藍を整え現在に至る。
江戸時代の大名墓所の形態をよく保存し、国指定史跡となっている。
招き猫
ある日、この地を鷹狩帰りに通りかかった殿様が、お寺の門前にいた猫に手招きされ立ち寄った。
寺で過ごしていると、突然雷が鳴り雨が降り始めた。
雷雨を避けられた上に和尚との話も楽しめた。殿様はこの幸運にいたく感動した。その殿様は彦根藩主の
井伊直孝であり、豪徳寺は庇護された。
歌舞伎グループ
市民大学ダースの会の解散後、このまま終わりにしてしまうのは寂しいと、希望者が集まって
スマホを使っての歌舞伎グループが立ち上がった。
会員は14名。
今月は課外活動で松陰神社・豪徳寺の散策。
松陰神社
明治維新のたてやくしゃである伊藤博文等多くの逸材を育てた、吉田松陰をお奉りする神社。
安政の大獄により江戸で処刑された松陰を、弟子たちが長州藩の下屋敷のあったこの地に埋葬した。
明治15年墓畔に社を築き魂の鎮座するところとなる。
世田谷城址公園
昭和15年に開園した世田谷区内唯一の歴史公園で、都の指定文化財にもなっている。昔の面影を残す
土塁や丘や谷があり、樹木に覆われた自然豊かなこうえんである。
初代吉良氏が南北朝の頃、関東菅領・足利基氏から戦の手柄により武蔵国世田谷領をもらい受けて築城
したのが始まり。秀吉が北条市を滅ぼしたとき、北条と親戚関係にあった吉良氏も運命をともにし、
廃城となった。
豪徳寺
寛永10年、世田谷が彦根藩の所領地となり文明12年に建立されていた「弘徳院」を井伊家は菩提寺と定めた。
その後豪徳寺と改称され現在に至る。
鷹狩帰りの殿様が門前にいた猫に手招きされ、寺で過ごしていると突然の雷雨を避けられた幸運に感動して
寺を支援した。
巾着田
全国大会二日目の行事はバス旅。
あちこちから見えている会員に、川越近辺の有名どころを計画した場所は
巾着田・高麗神社・喜多院を計画した。
巾着田は、川が蛇行しているところに曼殊沙華の球根が流れ着いたのが始まりで、
現在は500万本の群生地となっている。
しかし残念なことにもう花は終わりに近づいていて、満足されなかったかと思ったが、
そこは俳人。咲き始めでも、枯れた花でも句になる。
続いて近くの高麗神社へ。
高句麗滅亡時、難を避け多くの王族や遺臣が我が国に亡命して各地に散在した。
その中で1799人の高麗人たちを武蔵の国に集め高麗郡を作った。
安住の地を与えられたものの、国の中央からは遠く離れた未開の地。
群民の生活を託された若光は大変な努力の末、波乱に富んだ生涯を終えた。
その霊を祀ったのが高麗神社の始まりである。
昼食後、喜多院へ。
1599年天海大僧正が喜多院第27世の法灯を継いだことにより、何度もの焼失から復興の時代を迎えた。
徳川家康・秀忠・家光の顧問的存在となっていた。
3代将軍家光によって江戸城紅葉山の御殿の移築、家光誕生の間、81枚の格天井絵、春日の局の化粧の間
などが有名。
五百羅漢
1782年から1825年の約40年間をかけて建立され、人間の喜怒哀楽を巧みに表現している。
干支が羅漢と一緒に建立されているのを探して歩くのも楽しみである。