小諸城:流紋岩が作った‟穴城” | オヤジのおもちゃ箱

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行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・・・・

 

5月11日に日帰りで

長野県の小諸市を訪れたオヤジ。

上の画像は市内から望んだ浅間山です。

山の形は眺める方向によって変わります。

小諸市から見ると噴火の痕跡を

ハッキリと確認する事が出来る。🌋

 

 

JRと、しなの鉄道が乗り入れる小諸駅。

駅の裏側の線路を隔てた場所に

小諸城の城郭が広がります。

浅間山の溶岩流の上に

町の中心部が広がっているので

駅前でもかなりの傾斜を感じます。

そして城の標高は城下町よりも低い。

つまりここは‟城下町”では無く

‟城上町”と表現した方が良さそうです。

 

 

線路手前に大手門が鎮座します。

17世紀初頭につくられており

城の北東を走る北国街道を見張ります。

城の見取図(↓)で見ると右下の方です。

 

大手門を潜れば

更に標高が低い三の門が現れます。

城の中心部は三の門から千曲川を望む

南西の断崖絶壁まで続いています。

大手門→三の門→天守台というルートは

ちょうど浅間山の溶岩が流れた方向ですね。

 

 

こちら(↑)が三の門。

まるで下り参道みたいに城内に入ります。

城下町よりも低い城を「穴城」と呼ぶそうで

国内では小諸城以外では見当たりません。🤔

 

 

門の先には立派な石垣に囲まれた桝形が!🍺

城が今の形に整備されたのは戦国時代。

仙石秀久の手によるものです。

ただ、江戸時代になると仙石家は

信州の上田から兵庫の出石へ転封になります。

プロローグにも書いたように

出石に信州蕎麦を伝えたのは仙石家でした。

 

 

新緑が眩しい二の丸。

徳川秀忠が関ケ原に向かう途中

真田を攻める際に陣を敷いた場所です。

秀忠は真田に翻弄され

天下分け目の戦いに遅刻する訳ですが

独断と偏見で言わせていただければ

秀忠の軍は囮ではないでしょうか?

真田が一筋縄でいかない事は

家康が知らない筈はありませんからね。🤔

 

 

黒門橋で堀を渡り核心部分へ向かいます。

こちらの堀は人工的に作られたもの。

紅葉谷という名の通り

秋には錦色に染まりそうです。🍁

 

 

かつての本丸には懐古神社が鎮座します。

こちらの神社は最後に城を治めた

牧野氏の家臣が建立したそうで

氏子さんはご子孫が務めているとか。

ちなみに小諸城の敷地は懐古園と呼ばれ

神社が小諸市に貸与しているそうです。

結構複雑な関係ですよねぇ~・・・🤔

 

 

神社の裏側から石垣に沿って歩けば

かつて三層の天守を支えた石垣が見えます。

 

 

天守台から眺めた本丸の石垣。

 

 

 

下から見上げた天守台です。↑

石垣は良く整備されてました。🏯

 

 

城の南西部から崖下の千曲川を望む。↑

大手門から三の門を潜り

城の核心部を超えればそこは

難攻不落の断崖絶壁が城を守ります。

穴城も押さえるところは

しっかり防御している訳ですね。

こんな崖を敵が攻める筈もないので

防御は大手門に集中すれば良い。

城は地形によって守り方も様々ですね。🤔

 

 

断崖絶壁はこんな感じ。↑

これは浅間山が吐き出した溶岩が固まり

火山岩の上に城が広がっている証です。

 

 

地質図(↑)で見ると

朱色の流紋岩は浅間山が吐き出した火山岩で

噴火の際に溶岩流となり

千曲川に迫ったのでしょう。

小諸城は溶岩流の突端にあたります。

千曲川が流紋岩に沿って流れているのを見ると

この岩が浸食に強い事は明白で

城の防御には相応しいと言えそうです。🤔

 

 

当然石垣の石材も火山岩ですね。

石材も城の立地によって種類が変わります。

これも城巡りの醍醐味か?!😁

 

小諸インターを降りると

クルマは市の中心部に向けて

道路を急降下して行きます。

駅前を歩いている時も常に勾配を感じ

何だか気持ちが落ち着かなかった。😓

(住人の方は慣れているのでしょうね)

この地形を利用すれば

‟穴城”は当然の帰結だと思いました。

 

初めて訪れた小諸城。

なかなか面白いお城です。