山谷堀から吉原へ:下町にも出雲族? | オヤジのおもちゃ箱

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行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・・・・

前回のブログで「待乳山聖天の境内は

前方後円墳の上に広がっている。」

という仮説を立てたオヤジ・・・・・🤔

 

今回は古墳時代からずっと下って

江戸時代の浅草界隈のお話をします。

またまた待乳山周辺の地図から。↓

 

 

上の地図の青く記した部分が今戸橋。

こちらを起点に暗渠になっている山谷堀を

北西の吉原方面に歩いてみます。

 

待乳山から浅草寺、そして駒形に至る地域は

‟浅草外島”と呼ばれた微高地であり

旧利根川の河口に位置する

水運の要衝だったらしい。

やはり古墳はランドマークだったのか?🤔

 

 

前回もご紹介した復元された今戸橋です。↑

 

 

橋を背にして吉原方面を望んだ図。↑

それにしても東京都はお金持ちです。

浅草寺のような観光スポットでもないのに

ちゃ~んとお金をかけて整備してますよね。

 

そして山谷堀の南西(画像左側)には

掘りに沿って日本堤という堤防が

今の箕輪あたりまで続いていました。😲

 

 

日本堤は浮世絵にも描かれています。😲

この堤防は吉原が人形町から移転した際に

設けられたそうで、旧利根川の氾濫原に

溢れた水を留めるのが目的でした。

吉原の移転は明暦の大火(1657年)の直後。

利根川の付け替え等、江戸時代の初期から

幕府は治水対策を進めていた訳です。

 

 

かつての山谷堀の姿。

水質の汚染が酷く暗渠にされます。😡

江戸時代に船で吉原に通っていた事が

想像できないくらいの変わりようです。

 

 

なだらかな曲線を描く暗渠。

川の記憶が甦ってきます。

なんだかブラタモリみたい。😁

 

 

日本堤に沿って造られた猿若町の様子。↑

幕府はこのエリアに芝居小屋を集めました。

 

吉原や猿若町に向かう多くの人々によって

日本堤は踏み固められ、同時に監視されます。

 

土手に草が生えるとミミズが現れ

モグラが穴を掘り堤防を破壊する・・・・😲

 

以前ご紹介した竹村公太郎さんの説によれば

「幕府の治水はハードの面だけではなく

ソフトの面でも工夫をしている。」との事。

確かに、そういう事も考えられそうだなぁ~

 

竹村さんの記事のリンクを貼っておきます。

 

 

暗渠の曲がり具合が

次第に目に心地良く感じられるようになる。

 

 

吉原大門の‟見返り柳”まで来ました。

遊女と遊んだ男たちは名残を惜しんで

この場所で吉原を振り返ったと伝わります。

 

男って、そんなに高尚なのかなぁ?😒

 

 

見返り柳の斜向かいは

いせや本店という天丼の老舗です。

既に行列が出来ていました。😲

 

その隣は桜なべ(馬肉)の有名店。

吉原通いの男たちの御用達だったのかも?

 

やはり男って、バカですよねぇ~😁

 

 

堀で囲まれた吉原の出入り口は

吉原大門の一ヶ所のみ。

道路両脇に目印が建てられています。

 

 

吉原大門を超えて左折して浅草寺に戻ります。

途中ソープランドの前を歩くと

呼び込みのお兄さんに声を掛けられました。

少しドキドキしたオヤジ。😳

 

浅草寺の周辺は‟ただならぬ”雰囲気。

実は三社祭の日だったのです。

浅草寺界隈は多くの担ぎ手で熱気ムンムン。

ほのかに汗臭さを感じる程でした。😡

 

 

三社とは観音様を拾い上げた

檜前浜成、竹成兄弟とその主人である

土師真中知の三人を神格化したものです。

 

観音様は仏教を象徴する訳ですが

同時に先進文化と捉える事も出来る。

つまり、「古代において渡来系の技術が

西日本から海を渡って伝わった。」

という事かもしれませんね。

 

じゃないと東京の下町の中で

浅草だけが独特の発展を遂げる筈もない。

 

やはり土地には

‟素性”というものがあるようです。

 

下町にも出雲族(土師真中知)?