浅草:待乳山は前方後円墳? | オヤジのおもちゃ箱

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行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず・・・・・・

今年になって、さきたま古墳群を皮切りに

鷲宮神社から大宮の氷川神社へと

関東平野の古代水運に注目して

散策を続けるオヤジ・・・・・・😁

 

そこで今回は東京湾の物流の痕跡を探しに

大好きな浅草周辺を散歩します。

 

まずは駒形堂を訪れました。↓

 

 

駒形の「駒」は当然「馬」を暗示します。

浅草には檜前牧(ひのくまのまき)という

牧場が存在したとの説があります。

馬の事にも興味津々のオヤジですが

馬は次回の散策テーマにして

駒形堂の後は今日の目的地へ向かいます。

 

 

待乳山(マツチヤマ)聖天を訪れました。

ここはメチャクチャ意味がある場所で

浅草の観音様を隅田川で拾った

檜前兄弟の主人が土師真中知 (ハジノマツチ)

という地元の郷士なのですが

恐らく待乳(マツチ)は 真中知(マツチ)の当て字かも?

土師氏の祖先は鷲宮神社の記事で紹介した

出雲系の神である天穂日命(アメノホヒ)。

更に土師氏は埴輪や土木工事といった

古墳の造営に深く関わった一族です。

その土師氏がどうして浅草なのか?🤔

 

 

待乳山の周辺はこんな感じ。↑

南西に歩けばすぐに浅草寺に参拝できるし

駒形堂まで歩いて約15分ほどの距離。

ちなみに待乳山から浅草寺や駒形一帯は

微高地の尾根のような地形になっています。

中でも駒形堂の標高は20mを超えて最も高く

続いて浅草寺界隈が続き(14~15m)

待乳山は10m強といった具合です。

駒形堂近辺に牧の痕跡が残っていても

なんら不思議ではありません。🐴

 

それでは待乳山聖天の境内へ!

 

 

 前回こちらを訪れて思ったのは

境内が前方後円墳の上に広がっている事。 

三門は前方部末端に位置するようです。

 

 

三門を潜れば正面の高台に本堂が鎮座する。

いかにも後円部を仰いでいるかのようです。

 

 

本堂の様子。↑

待乳山聖天は浅草寺の枝院とされており

正式名称は‟本流院”です。

浅草寺の山号である‟金龍院”は

こちらが起源という説もあるそうです。🤔

 

 

本堂が鎮座する後円部らしき盛り上がり。↑

どう考えても不自然な形をしています。🤔

墳丘が崩れないように補強しているのかなぁ?

 

 

同じ場所を隅田川から眺めた図。

う~ん・・・・😲

ますます古墳臭くなってきたぞ~っ!!↑

 

 

上空から見るとこんな(↑)感じ。

ちなみに隅田川は俯瞰図の上になります。

これはどう見ても前方後円墳でしょう。

更に残っている部分の長さは

100mを超えるといいますから

都内ではかなり大型の部類に入ります。

 

 

俯瞰図の赤く記された部分は今戸橋。

その昔、山谷掘という

吉原に通じる水路がありまして

粋な旦那衆は船を利用して

隅田川から今戸橋を潜り

吉原へ通っていたそうです。😁

 

 

利根川は家康によって東に流路を変える前は

荒川のように東京湾に注いでいました。

つまり浅草は荒川流域と利根川流域双方の

水運の拠点だったと考えられます。

江戸時代の絵画にも

待乳山と今戸橋が描かれています。↑🤔

 

 

隅田川から今戸橋越しに待乳山を撮影した写真。↑

ところで今戸はこの界隈の地名になっており

古くから今戸焼という

陶器の生産が盛んだったそうです。

 

先ほど書いたように土師氏は古墳に関係した

技術系の渡来氏族と考えられており

埴輪や須恵器は土師氏の技術だとの見方も。

 

土師氏は古代の浅草湊に拠点を築き

遥々大阪の河内地方からやって来たのか?

そして、さきたま古墳群や鷲宮神社

更には氷川神社一帯に勢力を展開したのか?

待乳山は土師氏の勢力を象徴する

‟ランドマーク”と考えても良さそうです。😲

 

ますます、気になってくる・・・・・・・・

 

 

今戸橋を背にして暗渠になった

山谷堀の上から吉原方面を撮影した図。↑

これから暗渠に沿って吉原へ向かいます。

 

果たしてオヤジは‟無事”に戻れるのか?😁