![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/2c/d1/j/o0690040014423344261.jpg?caw=800)
諏訪大社の続きです。
諏訪大社上社本宮と上社前宮を参拝した後(上の地図をご参照)
諏訪湖を挟んで反対側に位置する、下社春宮と秋宮へ向かいました。
ちなみに中央高速に沿った赤いラインが糸魚川ー静岡構造線。
中央構造線は青いラインで、諏訪大社上社でいったん途切れ
下社付近で再度北上してゆきます。
この構造線の‟ズレ”が諏訪湖が形成された要因だと思います。(恐らく)
神社の配置を見ると、先人たちのメッセージが聞こえてきそうな気がしますね。
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/e4/5f/j/o0560037314423344274.jpg?caw=800)
まずは下社春宮。
これは大きな注連縄です!
出雲大社を彷彿とさせますよね。
下社の神様は、上社の神様の奥方らしい。
諏訪湖を挟んで、夫婦が向かい合う配置です。
もしも地殻変動が無ければ、夫婦は身近に過ごせたのかもしれませんね。
これも先人たちのメッセージか?
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/cb/c2/j/o0560037314423344292.jpg?caw=800)
上社春宮の拝殿はこんな感じ。
有名な宮大工さんの仕事だといいます。
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/0f/02/j/o0560037314423344307.jpg?caw=800)
確かに木彫りの装飾はお見事ですね。
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/cf/7c/j/o0560037314423344325.jpg?caw=800)
春宮のすぐ近くで、”万治の石仏”という風変わりな仏様に出会いました。
河岸段丘の中腹あたりの場所で、周囲はこじんまりとした水田に囲まれています。
wikiによりますと・・・・
「下社春宮に石の大鳥居を造る為にこの石仏を材料にしようと鑿を入れたところ(その鑿は現存している)、傷口から血が出てきたため職人達は祟りをおそれ、その晩に職人達が夢枕で上原山に良い石材があるという夢を見て、探しに行ったたところ見つけることが出来、職人達はこの石仏を阿弥陀如来として祀った。それに因んでこの辺りの小地名は「石仏」となっている。この石仏は芸術家の岡本太郎氏が訪れて絶賛したことにより有名となった。」
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/b8/c9/j/o0353053014423344341.jpg?caw=800)
縄文の匂いがするぞ!
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/71/81/j/o0560037314423344359.jpg?caw=800)
下社秋宮は春宮から旧中山道を1.2キロほど歩けば辿り着きます。
この中山道がなかなか雰囲気がありまして、皇女和宮が徳川家に嫁ぐ際に
宿泊した旅籠が残っていました。(今でも営業しているそうです)
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190604/05/ranpante2002/52/51/j/o0560037314423344376.jpg?caw=800)
こちにも出雲大社ばりの注連縄が・・・・・・
出雲大社のそれとは反対の掛け方がされているので
こちらは”普通の注連縄”でした。(出雲は結び方が真逆)
神様も通常の神社のように南を向いている筈です。
今回諏訪大社に参拝して思ったのは
日本列島の歴史と天災は、切っても切れない縁があるという事。
神社という施設には多くの伝承が残されています。
おとぎ話的な言い伝えが殆どだと思いますが
人間は防災を含む生活の知恵を、簡単な手段で後世に伝えてきたのでしょう。
それを〝パワースポットという言葉で一括りにしてしまうと
本質的なものを見失ってしまう気がします。
いくら地震を予知する研究が進んでも
そのデーターはたかだか100年~150年位のもの。
神社なんて、その数十倍の歴史を潜り抜けている。
歴史は侮れませんなぁ~