今日はちょっと早めに更新します。
今日は座敷童子的講座があるからです😆✨✨
台風が来ているというのに、皆さん集まってくださるようです✨✨
火箸風鈴を持っていこう〜✨
ちりーん😆✨✨
さて昨日のブログの最後のところで、「自分の才能にはあんがい気が付かない」と書きましたが、
その理由について書いていこうと思います😆
これは、
能力は高ければ高いほど、生まれ持っているものなので、比較していないから気が付けない、
んですよね😅
「健康」な人は、「病気」である期間がないので、自分が健康であることは当たり前、なんですよね。
これは他の能力でも言えるのですが、才能の中でも、表現できない能力については、特に本人は気がつきません。
表現できないとは?
例えば絵を描いたり、歌を歌ったり、楽器を弾いたりと、感性を使って表現するもの、
ハンドメイドのように形となって創造できるものは、人から指摘されやすいので、自覚できるのですが、
カリスマがある、
自己受容が高い、
自己肯定感が高い、
発言力がある、
火のように明るい、
誠実でピュアである、
粘り強い、
などは目に見えないものなので、本人は気が付かないものです。
こういった、心理的な能力は人生を左右しますが、
意識していないところにこそ、才能が秘められているのです。
そして、人の悲しい習性がこちら😅
能力が低いところにこそ、意識が向く。
のでございます😅
コンプレックスでもありますよね💦
低いところは、「欠けているところ」でもありますので、鋭く気が付き、それを満たそうと、必死になってもがき苦しむのですが、
能力が高い人はそれに気がつきません。
例えば、ご両親が欠けて育ったかたは、親の存在を無意識に追い求めてしまいますが、
幸せな家庭で育った人は、それが当たり前なので、欠けて育った人の気持ちはわかりません。
それは、
比較していないからなのです。
べつに悪気など一切ないのです😅
ですが、欠けている人は、比較してしまうものなのです。
そのズレが、
人間関係に影を落とす、のですね😅
この、比較しない生き方こそ、実は中庸の視点であり、これからの時代を生き抜く上で、大切なものだったりするのですが、
この能力が高低というのは、
ねじれを生む場合があります。
それは、例えば政治家、警察官、大企業の役員、いわゆる先生と呼ばれる職業についている方が陥りやすいのですが、
肩書き=能力が高いところ
としてしまうと、特有の場所でしか、その効力は発揮されません。
しかし、その肩書きを、
乱用
してしまうときがあるのです。
これは、人間関係のなかで、ねじれを生みます。
同じように、
心理的な能力が高い人も、放り込まれた集団の中でねじれを生んでしまうのです。
例えば、カリスマがあって、発言力が高い人が、上司の前でそれを使ってしまうと、
こいつ、下っ端のくせに生意気な口をきいて…
と思われかねないのですね😅
すると人は自信を失っていき、「あんまり発言をしないようにしよう」と、能力を封じてしまうようになるのですが、
小さな頃からそういった「抑え込まれているところ」にこそ、才能が埋もれている可能性もあるのです。
能ある鷹が爪を隠しているのは、身を守るためでもあるのです😅
実は、そういった才能というものは、
心理的なもの、肩書き、感性、創造以外にも、まだまだ無数にあって、
容姿、
家庭環境、
収入
なども、ひとつの才能であり、能力が高い領域とされています。
美しい人は、そうではない人の気持ちは分からない。
幸せに育った人は、親に虐待された人の気持ちは分からない。
裕福な人は、お金に困っている人の気持ちは分からない。
しかし、
欠けている人は、能力が高い人を、とても敏感に意識をしている、
という事実があるのです。
つまり、陰口をいったり、意地悪をしたりする人こそ、その相手を意識している、のですね。
だから、アピールしている分野は、欠けているところを努力して埋めたところであり、
まだ足りない、ともがいているところでもあります😅
人からよく指摘されるけど、自分ではそう思っていないところなどはありませんか😆?
上には上がいるなあ…と思っているところなどです✨
ぜひぜひ、そういった能力をさらに高めてみてくださいね✨