5月5日(水)
作品を世に送り出す人で、僕が個人的にすごいと思っている要するに好きな人はジャンルごとに何人かいる。はじめは作品に向いていた興味は、そのうちそれを作り出した作家さんにも向かうことは自然な流れだと思う。あるときは文芸誌などでのインタビューを読んだり、あるときは特集されているドキュメント番組を見たり、あるときは直接触れ合える場に足を運んだりするなど、そうやって作品の生みの親、作家さんの価値観や人となりを知る。
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これまで幾度となくそれをやってきて、失敗、すなわち「作品は好きなのに、この人はちょっと……」などとがっかりしたことは一度もない。ただし、例えば小説家ならば好きな作品のなかにあふれ出ているのはゆらゆら浮遊するようなやわらかな空気感や愛であっても、実際の作家さん自身は至極きびきびはきはきしていてときどき毒を吐くという一面を持っていることを知る場合もしばしば。しかしイメージとのギャップに何らかの失望を覚えるようなことは決してない。むしろ、思わぬ一面を発見すること(そしていつもそれが個人的にとても魅力的なこと)で作家さんへの興味はさらに加速することになる。ギャップを抱かせる可能性があったとしても、究極的には作品は嘘をつかないということだ。それで最近ふと気づいたことがある。といっても改めてみればあまりにも当たり前のことなのだが……。
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以前これもまたとある好きな小説家が話していたことのなかに、「基本的にそのとき興味があることをテーマにして書いています」という趣旨のものがあった。とくに作家さんのような人たちはそれこそがもっとも基本的なことでもっとも重要なことなのだろう。興味がなければ次々と着想していき展開させていくことなどできず、そもそも取り掛かる意欲がわかない。逆に興味があるものならばどんどん知識を仕入れて、それにまつわる「誰も見たことのないもの」を作り出そうと励むことになる――きっと誰よりも自分自身がそれを見てみたいから。つまり、興味のあるものへは躊躇せずにどんどん踏み込んでいくべきであると気がついた。自分が信じる「良いもの」とは、自分が興味のあるもの――好きなものからしか生まれない。極論かもしれないけれど、そんなふうに信じることができ、そしてそれは良い意味で自分を安心させる説になった。むろんこれはモノ作りだけの話だとは思っていない。もっと汎用性のある説だと思い、要するに「良いものをインプットできれば良いものをアウトプットできる」、こんな感じだ。
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人の好みは千差万別で、だから自分の好き嫌いが世間のそれと同じであるはずはない。また、悪いもの同様良いものも世界にはたくさんあり、そのなかでも「より良い」などという優劣はそこここにある。そう前置きしたところで、僕は近ごろ、読書を失敗したくないとよく思う。一冊を読む時間も馬鹿にはできないもので、それを費やして読むものから少しでも多くの感銘を受けたいと望むのだ。感銘の受け具合とは、むろん本の内容だけでなく自分の読み方にも左右される。だから、「良いもの」をインプットするために、僕は最近一段とまじめに本選びの段階から読書をするようになっている。そしてこの傾向は、「良いもの」をたくさんインプットしたい、という気持ちからきているものなのかとようやく腑に落ちた。
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興味本位に日々を過ごしてばかりいてはいけないけれど、ぎりぎりまで興味本位に日々を過ごすことがきっといちばんたのしくて、そしていちばん明日につながる生き方なのかもしれない。