デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。


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 7月14日(水)

 一か月の長きに渡り連日熱戦がくり広げられたサッカーW杯が幕を下ろした。結果は周知のとおり、スペインがはじめての、そして史上8か国目の優勝の栄誉を勝ち取った。

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 我らが日本代表も、自国開催以外でははじめての決勝トーナメント進出、見事16強という堂々たる成績を刻んだ大会であり、異論はあるかもしれないが、それは(少なくとも応援する側としては)先陣をきって初戦を勝利、そして一次リーグを突破していった韓国の活躍に勇気と希望をもらってのものであったかもしれないと思う。16強入りすなわち一次リーグの3戦を勝ち抜いた国の大陸別内訳は、欧州が6、南米が5、北中米カリブ海が2、アジアが2、そしてアフリカが1であった。数だけでみれば欧州が最多ではあるが、大陸別本大会参加国の数と照らし合わせてみればこの6という数字は優れているとはいえない。一方南米の5とはすなわち参戦するすべての国であり、一次リーグ終了時点での南米勢の好調は目を見張るものがあった。W杯がはじまって以来ずっと栄冠を分け合ってきた欧州と南米の二代大陸に、今回これほどの差が生まれた理由として考えられるいくつかに、南米とは、開催地である南アフリカと同じ南半球に位置し気候への順応がさほど困難ではなかったことをはじめ、今大会の環境(標高差、優良とはいえないピッチコンディションなど)にも、欧州に比べまだ比較的経験値があったことなどが考えられる。が、それはここではあまり取り上げない。今回、大陸間なかんずく欧州と南米間でこれほどまでに成績にちがいが生じたのは、大陸を同じくするライバル国の試合結果が、試合を控えた隣国の士気に影響したのではないだろうか。そうはいっても出場国の各選手は百戦錬磨だ、隣国が敗れたことによって士気が低下することはまずないだろうが、その反対の、「あの国が勝ったのだから自分たちだって!」というモチベーションがおおいに働いたはずである。

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 今回ほんとうに多くの試合を目を皿にして観戦した僕は、お世辞にも通めいた解説などはできないが、それでもサッカー観戦眼は初心者のそれではないはずである。そんな自分ですら、日ごろ見慣れた親善試合とはまるで別ものの真剣勝負となるその一試合、1プレーごとに新たなる発見――サッカーの奥深さを見出してきた。そのひとつが、サッカーとは90分を通して大小複数の流れがあり、それに飲み込まれず掴んだチームが然るべき勝ち点を得る、ということ。それを身をもって確認した。しかし流れとはどうやら一試合のなかだけにあるものではないらしい。このような短期決戦の大会では、その短期のなかにも流れがあり、それというのは自分たちだけでなく、グループに同居する対戦相手や隣国によっても生み出されるものだったのだ。そしてその流れとは、個人の力では戦況を一変できにくい、そんな非強国にこそ勝ちあがるための大きな要素となる。そういう意味では、日本や韓国が戦前の下馬評を覆して躍進したのは、生み出した流れに飲み込まれることなく、自分たちのものにできた結果なのかもしれない。

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 しかし、決勝トーナメントからはそうではない。むろん、大会におけるチームを取り巻く流れは重要だが、その時点ではすでに残っているチームよりも大会を去ったチームの方が多くなる。もはや自分たち以外に信じるものはなく、いかに目の前の相手に負けないかが求められてくるのだ。だから――これは結果論になるが――ベスト8時点で4か国残っていた南米勢が、ベスト4にはひとつしか進めなかったことも不思議ではない。サッカーとは生ものだから、もう一度やれば結果はまたちがってくるだろう。だけど、そのとき流れを上手く掴んだのがスペイン、オランダ、ドイツ、そしてウルグアイだったのだ。思わぬ大差がついた試合もあったが、実際実力の差は思っている以上に僅差で、過去や直近のデータの上ではもしかしたら両者の優位関係は結果とは反対の対戦カードもあったかもしれない。しかしキックオフの笛と共にそんな計算はいったん白紙になるのがサッカーとりわけこのような大一番だ。前々回のサッカー欧州選手権で優勝したギリシャのように、流れに上手く乗ったチームはみている側からしてもどうしようもないと思うほど強い。今回スペインの優勝は、「珍しく」大会前の大方の予想通りという妥当な結果に落着したが、ひとつのいい方として、それは上手く流れていったからに他ならない。しかしみていてもわかったように、また、何より選手たち本人がいっているように、「ほんとうに上手くいかないときもあ」り、流れとはふとしたひとつのプレーでがらりと変わってしまう。表出こそしなくとも、精神面ではいつだってシーソーゲームで、それを勝利したのだからこの大会、7試合中、勝つことができた6試合のスペインはあらゆる意味でほんとうに強かった。

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 どの試合も声が漏れない試合がないというほどにおもしろかったのは、どの選手もひとつのプレーを成功させようと、そしてミスを犯さぬよう、つまり流れを相手に与えてしまわないように必死だったからだ。夢のような一か月が終わってしまい、一抹の寂しさは漂ってはいるけれど、今日も、そしてまだしばらくはW杯が僕の生活にもたらしてくれた夢のような流れのなかにゆらゆらと揺れている。

図書館で、検索機械の指示通りの書架に赴き、何往復も、それこそ中身すべてに目を通すくらいの勢いで所望の一冊を探すもなぜか結局今日も見つからなくて、潔く館員の助けを請おうかと考えたけれど、一度頭をリセットして気になった本をピックアップしていったらあっというまに上限の6冊が腕のなかに収まっていたからこれはこれでハッピーエンドといえなくもないけれど、図書館に来るたびに自分には探しものの才覚がないという新事実を確かなものにしているようでこのショックは大きい。イーッ!

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 6月22日(火)

 居間の壁の天井近くに親指の爪大の羽虫が停まっているのを見つけ、それはべつだん食べ物にたかったり攻撃をしかけてきたりと人に害を及ぼすようなものではないから適当にほっといてやろうかと思ったが、自分以外の家族が目にすればおそらく相当な不快感を覚えるだろうと思ったので今のうちに外に逃がしてやろうと考えた。

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 のんきといわれるかもしれないが、机周りを闊歩するありであろうとそんな羽虫であろうとなるべくならば殺生はせず、できるだけ何のダメージも残すことなく彼らが本来いるべき場所に帰してやろうといつもする。多くがティッシュでもって掴むともなくそっとふんわり包み、そうして開けた窓から庭にそれごと放り投げる。後日もぬけの殻となったティッシュだけを庭いじりのついでに父もしくは母が回収するというのが通例である。父と母は庭いじりがめっぽう好きで、どちらが庭に立っているかによってそれは盆栽でありガーデニングであるように僕の目には映るが、その結果としてうちの庭にはいろいろな種類の草花が季節ごとに表情を変えてみせてくれる。今でいえばやはりあじさいで、雨上がり、まとった雨粒を心持ち重たげにして傾いでいる青いそれは、園芸にてんで疎い自分でさえ眺めずにはいられない。雨をしのぐように裏側にはなめくじがおり、見られていることに気づいていないのかまるで無防備にぼんやり考えごとをしているよう。そんな事情から生きものにとっては居心地のよい環境なのか、庭にはとにかくたくさんの生きものが認められる。やもり、かまきり、てんとうむし。ひよと呼ばれているかわいらしい鳥やうぐいす。ねこならばいつか使おうと置いていた上等な土の上を用足しの場にしている図々しいやつまでい、ある日それを発見してぶつくさ悪態をつく母はしかしどこか愉快気だったのをよく憶えている。

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 この家の歴史はもう二十年以上で、当時から庭いじりは連綿と続けられてきている。近ごろは庭だけにとどまらず、居間にまでもはや観葉植物の範囲を超えた植物が席巻してきており、ばかみたいに育ったそのうちのひとつの「木」は、平気でその葉をテレビにかぶせ、画面が見えにくいと思いながらも誰もどけようとしないのだから自分を含めちょっとどうかしている。うちの庭があらゆる生きものにとって少なくとも「ちょっと一息ついてやってもいいかも」とみなされていることは間違いなく、さっき述べた室内の様相からも、最近僕は、壁に隔てられているだけで実は内も外もなくなってきたような気がしてならない。この感が正しいのならば、劣化からどこかに穴があいて侵入を容易くさせていることは置いておいて、いろいろな生きものが室内に上がりこんできて堂々とゆっくりしていることもうなずける。

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 椅子に立って件の羽虫を捕獲しようと試み、いつものようにこちらは少しも残虐なことをするつもりではないという気持ちを前面に押し出すと、いつものように羽虫は抵抗せずふんわりティッシュのなかに収まってくれた。それで椅子から下りたときだ、説明しづらいがとにかく僕は椅子の背もたれの突起した部分に尻の右をしたたかにうちつけ、激痛と同時に羽虫を包んだティッシュを離してしまった。当然羽虫は驚き再び今度はさらに天井近くに飛んでいき、停まり、ああ驚いたと脈拍を高めているのが見てとれた。局所的な尻もちという痛みで、まともに動けない身であったが乗りかかった船、手負いのまま捕獲を続行した。しかしあんなことがあっては今羽虫の感覚はかなり研ぎ澄まされており、ちょっと近づいただけで飛んで逃げいってしまう。不思議はそのとき起こった。捕獲のために体を伸ばした際に走った尻の激痛で、一瞬羽虫から目を離した。しかし、以来どこを探してもその羽虫の姿は見当たらない。むろん、ティッシュのなかにはいないし、なにしろ目を離したのは文字通り一瞬だから物陰に入り込んだはずもない。おそらくとんでもない確率だが着ているシャツの襟の裏側や背中に停まっているとかそんなところだが、それともちがうのであれば壁をすり抜けてとっくに外に逃げていったのだろう。こんな家ならばそんなことでも平気でまかりとおるような気が、ほんとうにするのだ。

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 我が家の内外にいる生きものは、見えているものだけがすべてだとは思っておらず、実は透明な生きものもうようよやって来てはしばし憩い、外壁をすり抜けて室内に入ってきては適当に停まっている。僕が見つけて捕獲を試みた羽虫も実はそんなところで、偶然視認できたのは起き抜けの寝ぼけ頭が見せた魔法か、それとも家の内外を重要視しなくなった境地で得た悟りのひとつかはわからず、別になんでもかまわないのだが、常識だけで納得するようになってしまうと、そのうち対処が及ばない出来事に遭遇したときうちつける尻が足りないというようなことになる。今日も僕の部屋の天井の上からはがさごそとそう大きくはないが決して小さくもない何かが走り回る音が聞こえ、そうかと思えばそれは鳥が羽をばたばたさす音のようなものも聞こえる。いるのはどうやら単体で、羽ばたくがそのように走り回りもするイメージにある大きさくらいの生きものを僕は知らない。

 6月17日(木)

 どういう風の吹き回しか、最近はもっぱら数学や宇宙、物理の世界にかぶれており、小説というよりかは学術書、というのは自分に対しておこがましく、ノンフィクションなどばかりを貪り読んでいる。

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 そういった分野を真に追及しようとする人が読む専門書には食指は伸びない。理由は明瞭、難しい内容に頭はちんぷんかんぷん、溺れぬよう文字を追っていくことが関の山であろうから。よっていつも読むのは自分のような頭が足りない人にでもそのおもしろさがわかるよう懇切丁寧になめしになめされた一般書である。そのおかげでこれまで断固文系一本だった自分にも、いちいち「理数系」のおもしろさにふるふる心を震わせることができている。

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 こうして畑ちがいの内容の本を読むと、いつも、ふだんとちがった琴線がりろんりろん振動していることを知る。むろん未知の世界の神秘に遭遇することによる共鳴もあるが、著者の書きかた、要するにものの見かたに感心してやまない。著者の数だけ文章表現が存在することは公理だが、もはやそれだけで片付けてはいけないような斬新さが理数関係を取り扱った本のそこここに散見される。目の前にある描写すべき対象はひとつだが、どんなレンズ越しに、どんな角度から見て、どのように解釈・昇華させるかで文章表現はごまんとある、いや、「1億もしくはそれ以上、とんで」ごまんとある。どの角度から見、どう解釈して独自の着想につなげるかは千差万別であるといえるかもしれない。しかし、きわめて瞬間的な「レンズ」の部分だけは、これまで自分が浸ってきた世界の範疇から逃れることはできない。うまい事例を挙げることはできないが、文系以外のことは放棄してきた僕は理数系のレンズをほんの欠片も持っていないのだ。ないものねだりの最たるものだが、悔しがらずにはいられない。

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 まさしくいまなどは数学者がかいた本を読んでいて、内容自体はちっとも数学ではないけれど行間からぷんと薫る漠然とした「数学者の匂い」に酔いしれているわけだが、遠からず(でもきっと近からず)、僕はたとえば農業従事者の日記にも手を出すだろうし、地質学者のエッセイも探してみることだろう。そういうものがあれば、の話だが、きっとあるだろうと睨んでいる。

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 ものの見かたとは一通りではないといつも信じており、またいつだってそれを忘れまじと気をつけている。それを気づかせたのは数学界最大の謎と目された大予想に苦悶した数論者たちであり、世界中の人びとのプライバシーがいかなる魔の手からでも守られることを保証する暗号づくりに挑んだ科学者たちであり、宇宙の起源を解き明かそうとすべてを投げ打って研究に従事した物理学者たちである。これから大研究に取りかかるつもりは毛頭ないが、日常生活のなかでもあらゆる物事にあらゆる見かたができる自分でいたい。そうしているうちにある日あるとき、ひょんなことから見えるはずもないものが見えることだって出てくるかもしれない。そこで得た着想が自分を豊かにし、レンズにまたすこしだけ新たな屈折が生じ、そしてそんなことをぐるぐるくり返しひとつ所にとどまることのない人間でありたいと、最近はそんなふうに思っている。

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これは携帯電話からの更新である。そういえば昔はブログの更新といえばもっぱら携帯からだったことを思い出した。これからは、「こんなとき」にでも、ときどきこの方法でもって、さながら世を席巻しているツイッター的感覚で更新しようと思う。

降水確率でいえば、たしか50%といっていたわけだからこの豪雨に憤るのもおかしな話だ。ただ、こんなにいきなり降ることもないだろうに。これじゃあまるでゲリラ豪雨だ。そんなわけで、目下、無駄に自動販売機が密集した屋根のあるスペースで雨宿りの真っ最中なのである。

1時間前くらいにも短期集中豪雨はあった。そのときはほんの10分くらいで止んだこともあり、今回もまたそうだろうと高を括っていた。しかしそれは甘かったようだ。もう30分くらい経つが、いっこうに止む気配がない。様相は「まともな雨天」に落ち着いた。

ただの雨宿りも退屈だ。幸運にも今の僕は自動販売機には不自由しない。そこでたいしてのどは渇いていなかったけれど、なにかたのしげな味および缶を探してみた。

それは「仮面サイダー」という。そのなんともふざけ倒したネーミングにやられた。しゃあないなぁといいながら缶ジュースを購入したのははじめてだ。

お金を入れると自動販売機は関西弁だった。外国にいったときのような「なんかわからんけどまぁいいや」な気概で適当にやり過ごし、そして「仮面サイダー」のボタンを押した。見本は嘘ばっかりで、思っていたのとはずいぶんちがうパッケージでもって僕は「仮面サイダー」を手にした。よく見れば「デザインは全9種類」とあった。

悪くない味のサイダーを飲み干し、しかし雨は上がらない。すぐ前を、青いゴミ袋に穴空けてこしらえたハンドメイド合羽を着用して走り抜ける自転車高校生があった。もとがゴミ服だけに袖までは生地がまわらず、前代未聞の合羽がチョッキ仕様で笑ってしまった。

さて、思っていたのとはちがうパッケージという肩透かしをくらった「仮面サイダー」、その同列隣には「ウルトラコーク」、「ウルトラ大怪獣レモネード」があった。これもやっていることは「仮面~」と同じだ。

これも縁、とどちらも買うことにした。まったくのどは渇いていないけれど、家族へのおみやげだ。

予期せぬ長時間の雨宿りとなったけれど、なんだか悪くない時間だと思った。こんなふうに、心だけでも貧乏にはならないようにしたい。

 5月20日(木)

 昨年2月末から毎日綴ることを決めてきたこのブログ(正確には「まいにち文章」と銘打った挑戦)を、今日をもってひとまずやめることにする。

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 自分にとってもあまりにも突然のこの決定に少し驚いてみたりしている。でもよくよく考えてみれば以前からこれを継続することに違和感を覚えはじめており、遅かれ早かれやめるかもしれないなぁとは漠然と思うことがあった。ばしっと断行することが苦手な自分なので、今を逃せばこのままずるずると違和感を抱えたままなし崩し的に続けていたかもしれない。そしていつしかそれにも慣れて、結局は表面上何にも事は起こらなかったということになる。それは最悪だ。

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 継続はナントヤラという、このまま続けていけばそれ相応に得るものや育つものはあっただろう。体に良いと思って食べれば何だって体に良いように(気持ちの話です)、要は、それが自分にとって良いと思うか悪いと思うかだと思う。良いことだ、と思っていたからこれまで続けてきたわけで、だから違和感つまり「このままじゃ悪いかも」と思ったからやめるのは理にかなっている。上手くはいえないが、いつのまにか、こうやって文章を書くことに甘えている自分がいるような気がしてきたのだ。

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 当初はそう短くない文章を毎日書くことに大変な苦労を必要としていたが、一年以上経つ今、苦労を感じることなどまったくといってもいいくらいにない。もちろん日によってそうでないときもあるが、そしてそれ自体はとてもいいことだが、書くことがただひたすらたのしいことになっている。それなりの文量を書くこと、はじめはいわば「修行」のような感覚だったものが今は「道楽」のようになっているといえなくもない。だったら、こんなことはやめてしまった方がいい。他にやらなくてはならないことはたくさんあるからだ。

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 最後だ、だらだらと書くのはやめよう。やってきたことに後悔はない。中身はさておき、この一年と少しのなかには自分の濃密なものが詰め込まれている。「修行」から「道楽」に、格下げか格上げかわからないが変化したここは、でも大好きな場所であることに間違いない。毎日書くことはなくなるけれど、甘ったるい自分だからときどきたのしくなりたくて書くかもしれない。こんなふうにいうのは奇妙だが、ときどきお邪魔しにこようと思う。あぁなんだかとても寂しい気持ちだ。

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 ほんとうならば今日は、図書館のことを書こうと思っていた。それは昨夜、突然嫌な予感が閃光のように体中に走り、まさかと思って調べてみるとやはりそうだった。一冊、本を延滞してしまっていた。何度も確認していたはずなのに、その何度も全部の確認が甘かったようで、したたかに一日延滞することがそこで確定した。そして今日、慌てて返却に行った。言い訳を考える頭なく、必死に平謝りして反応を窺ったとき、館員のお姉さんがとてもとても同情的でやさしかった。わからないが、「そんなに謝らなくても…」というふうにくすっと笑った。不謹慎にもその隠した笑顔がとてもきれいでかわいくて、罪悪感と恋心がマーブル模様を織り成したのだった。……という、いつもの小さな話だ。これにて一時休止。

 5月19日(水)

 こうして毎日ブログを書いて、寝る前にはノートに日記を書いていると、もうその日のすべてを、毎日続けているということはその日どころか自分という全部を全部書き出してしまっているのではないかと思うときがある。だけど実際そんなことはありえない。まず第一に、すべて書き出すことができるほど単純な日などなく、またそれを千何百文字に要約できるような筆力も持ち合わせていないから。そして第二に(これこそが真実なのだが)、書き出すことにストップがかかる事柄というものがいくつかあるからだ。

 僕は自分で、友だちは多くはない方だと思っている。しかし確かにそうだ、という人もいれば、それを否定してくる人もいる。友だちの定義というものがよくわかっておらず、そもそも明確な定義などは存在しないと思っているわけだが、「多い」といわれればそうかもしれないし、「少ない」といわれればそれもまたほんとうだ。要するに知人というべきか、「互いに顔を知っている程度の人」でいえば多いと思う。

 数少ない貴重な友だちのなかでも、僕には、すべてを打ち明けられるというような人はいない。これは断言できる。話の流れ上こんなことを話せば、可哀想な人だという目で見られることがたまにある(それは異性の人に多い)が、本人はまったくそうは思っておらず、これまでもこれからもこの調子でよいと考えている。要は、「あの話はこの人に」、「この話はあの人に」というふうに、話すべき相手を分けて考えている。そしてそんな「相手を選ぶ話」とは、個人的にシリアスな話題が多い。たのしい話ならばそんなふうに相手を分けることなどせず、なんなら電波に乗せて広く全世界に向けて話したいと思うくらいだ。シリアスな話題は負荷がかかり、かつ格好のいいものではない。だから、そうやすやすと人に投げかけるわけにはいかないと考えるし、そうやすやすと人に見せたくはないと考えるのだ。それで然るべき相手、というのをどうしても考えてしまう。

 ふと気がついた。「やすやすと投げかけられない、見せたくはない」と思うことは、人に対してのみでなく、自分に対してもそうなのかもしれない、と。考えれば気分が重たくなり、情けない自分と対面しなくてはならなくなる。それがいやだから、そして自分をそんな目に遭わせたくはないから、向き合うべき問題から逃げ続けていることがある。はじめは意識的に、そういう問題をあえて見ないようにしてきた。そうしているうちに次第にそれに慣れてきて、気がつけば無意識にどこにどう立てばそれが見えずに済むかということを考え、過ごすようになっている。そしてある日ふと人に気づかされ、恐る恐る見てみれば問題は変わらずそこにある。放っておいたぶんだけ悪化していることだってままあるわけだ。

 友だちなどにはこれまで通りでかまわない。いや、もうちょっと頼ってくれと勇気を出していってきてくれた人がいるのだ、もう少しくらいは相手を信じて投げかけてもいいかもしれない。そうでないと反対に失礼だ。問題は自分に対してだ。自分のために重要なしかし面倒な問題を隠すことはまちがってもやさしさなどではなくただの甘えだ。受動・能動の関係図があることからしておかしい。心はブログや日記とはちがう。誰にも見られることも見せることもできないものだ。だからせめて、心くらいには本物の不細工な自分を表せていなくてはいけない。

 5月18日(火)

 「フェルマーの最終定理」を読んだ。この先あと何度こんなわくわくするものに遭遇できるのだろうか、と将来を寂しく思いかねないくらい夢中になった。そして、二日前までの自分のように、まだ読んだことがない人、詳しくは知らない人のことがたまらなくうらやましくなった。なぜなら、彼らには自分よりもひとつ最大級にわくわくできる機会が残っているからだ。これほどの「オメデタイ悲観」や「自分勝手な羨望」を抱く残念な自分が出現することはほんとうに珍しい。

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 数学がいやだからという消去法でもって文系を志すことになった、そんな自分だ。数学はおろか、算数さえ全領域を網羅できている自信は皆無。その後、小説やドキュメンタリーなどの力を借りて数学への親の仇かと思うほどの嫌悪感はましになってはいるが、それは実際に問題を解く(解かされる)ことがなくなったからであって、もし今再び数学の試験に向けて勉強しなくてはならなくなったら、数学への苦手意識はたちどころに大噴火することだろう。それが休火山の厄介な性格だ。

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 算数や数学は積み重ねが重要だ。ある初等テクニックに基づいて中等テクニックを得、それを利用して高等なテクニックへと続いていく。この「フェルマーの最終定理」とは、そんな数に関する学問の最高難易度のひとつといわれるものである。つまり何がいいたいかというと、このノンフィクションにも当然、極めて明快に記された各方程式や思考法が出てくる(数学がテーマだけに書かないわけにはいかないのだ)のだが、おそらくそう難解なものではない方程式でも僕は曖昧にしか理解できていない箇所が少なからずあった。それでもまばたきを忘れるくらい没頭させたのは、「数学」のように答えが一通りではない、数々のドラマが描かれているその点にある。

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 僕には小説やまんがを読んでいて、感極まった部分はおもわず小さく声に出して読んでしまうという悪癖がある。歓喜から絶望へと転落し、そして再び栄光を手にした瞬間の数論者アンドリュー・ワイルズの台詞「やったよ! 見つけたんだ」がまさにそれで、数学界最大の謎が解かれたことに際して、その重要な鍵をつくりだした志村五郎が求められた感想にさらりと述べた「だから言ったでしょう」も、僕はワイルズや志村が憑依した体(てい)で本気の朗読をしていた。その「演技」の気持ちよさったら過去に例を見ないほどで、最高の朗読を求めて何度も何度もくり返したのだった。手前味噌だが、夕べの自分は世界でいちばん無垢だった自信がある。

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 ひとつの「予想」が証明され「定理」になるその背景には、小説を超えるドラマがあった。数学はかくもドラマティックで、いうところの「美しさ」もほんとうだということを知った。しかし思ったことは、数学だけではない、ということだ。あらゆるものに、例えそれがひとりでも全力で取り組んだ人がいるならばそこには圧倒的なドラマがある。そして、そこにドラマを紡ぐ人がいれば、わくわくは無限にある。いろいろな意味で、将来を寂しいと悲観視している暇などないのだ。

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 そんな「フェルマーの最終定理頭」の帰り道、セルフサービスのガソリンスタンドでぽんこつ原付きに給油をした。もう何度もやっているので手慣れていてもいいはずだが、最後の段階で給油口のキャップの閉め方に難儀することがあった。ぴったりとはまるはずの部分にはまってくれず、緩んだ状態で走行しては危険である。力が足りないかと腕力にまかせてもだめで、ぐるぐる回していると閃いた――「向きがちがうんや!」。実際、天然で端からすっとんきょうな向きではめこもうとしていて、だからはまらなくて当然だった。向きを変えてみたら簡単にはまり、すべての謎が解けた。ふむ、なるほどとぽんこつにまたがる僕は考えた。フェルマーの最終定理が解けたときのアンドリュー・ワイルズもまた、この種の充足感を得たのだろうな、と。しかし僕とワイルズの充足感の質のちがいは、10の何百万乗を計上するだろうか。ひょっとしたら、無限に届くかもしれない。

 5月17日(月)

 帰り道は夕暮れどき、いつもより早く帰れそうだったので、それならばとコーヒー屋で一息ついてから帰ることにした。しかしそれはすべて予定どおり。そのために今日のかばんには読みかけの文庫本と、BGMというよりかは外界の音遮断用のiPodをしたたかに忍ばせていたのだ。すべて予定どおり、それは「ちょっくらこのコーヒー屋に寄るか」と思いつくことすらも。自分だけのためにとんだ無意味な茶番を見事に演じたものである。

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 少し前から、コーヒー屋に行った際とりたてて飲みたいものがあるわけではない場合、あれば「本日のコーヒー」を注文することにしている。どうにも気の小さい自分は、セルフサービスの店などでカウンター越しの店員とやり取りする際、そこで何を注文すべきか考えることが苦手だ。知識完璧、いつでも注文バッチコイの店員に対して、こちらはほとんど無知の丸腰羊。注文を受けなければ存在意義のない(と思ってしまう)店員さんをあまり待たせるわけにはいかない、と焦る気持ちは余計に頭を混乱させ、結果持てるメニュー選択能力の半分も発揮できないまま時間はかかるは不本意な注文になってしまうは、でずいぶんと残念なことになってしまう。被害妄想異常なしの僕は容易く頭のなかに負の螺旋竜巻を発生させ、その通過後に残るのは無残な砂漠。そんな惨劇を解決してくれるのが「本日のコーヒー」なのである。もともとコーヒーの味などたいしてわからない舌だ、その「同音異義語」のおかげで行くたびごとに様々な味を体験でき、結果一石二鳥になるといえよう。

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 店内は自分と同じような一人客の姿が多めに散見された。彼らはその多くが自分と同じように読書に耽っている。二人組の姿もいくつかあったが、そこにすら会話に興じるのではなく正対してしかし互いに俯いて文庫本に没頭するテーブルも見られた。そういうわけで今日のそのコーヒー屋は読書率が高く、実に滑らかに場の空気に溶け込むことができたのだった。今や僕のなかで、コーヒーのパートナーはたばこから本に取って代わられた。

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 今はサイモン・シンの「フェルマーの最終定理」を読んでいる。噂どおりこのノンフィクションに完璧に心を奪われ、文字どおり寸暇を惜しんでページを繰っている。数に携わる海千山千を300年以上あざ笑い続けたこの定理には、歴史のぶんだけ、挑んだ者のぶんだけ壮絶なドラマが存在する。店内にはフランク・シナトラの往年のジャズナンバーがかかっており、それをそのままBGMにするのも悪くなかった。しかしときどき沸騰する向こうの席のかしまし娘たちの会話が耳に障ったためiPodでもって自分だけのBGMを選ぶことにした。読書のときはボーカルの入っていない音楽が望ましく、クラシック音楽を流すことが多い。例にもれずその線で探し、今日はラフマニノフの交響曲第2番にしてみたのだが、これが完璧なまでによく似合っていた。景色や匂いなどと共に脳裏に甦る音楽があることはしあわせだと思う。今日は「フェルマーの最終定理」のみに止まらず、もしかするとこのコーヒー屋のことを思い出すだけでその楽曲が甦るような、特別な経験に遭遇した日かもしれない。すっかりぬるくなったコーヒーはほとんど口をつけておらず、慌てて飲んでみると黒板のいうところの「酸味」が理解できた気がした。またここに来なくてはならない。

 5月16日(日)

 ここ数日、顕著に本を読んでばかりいるような気がする。ある経験を擬似的に体験させてくれるものが本である。自分に圧倒的に不足していると思う筆頭こそが「経験」であり、だから自主的に選択して読む本はどれもがおもしろい。むろん、おもしろさにも程度の差はあるのだが、もはやそれは良い意味でのどんぐりの背比べ。おもしろい! という感想の土台の上にすべてはある。

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 そんなふうに内容としての読書をたのしんでいるのはもちろんのこと、ここ最近の僕は、形式というのか、行為としての読書もまた大いにたのしんでいるといえる。それはすなわち、最良と思われる読書の体勢の試行錯誤や、少しでも速くかつ正確に読むための訓練や、集中力持続の限界線延長への挑戦、といったものである。

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 潜在的に凝り性の気質があるのか、ひとたび熱中すればなかなか冷めにくく、そういうわけで僕の最近の読書を形容するならば「我武者羅」かもしれない。何かに熱中すれば、大なり小なり収穫があるのが道理であり、大きな収穫ほどやりはじめの時期に集中することがほとんどのケースである。なまじ最初に良い思いをするから調子に乗って勘違いしてしまい、後に手痛い現実にぶち当たることはこの先も人間が背負い続ける十字架かもしれない。しかしすべては一長一短である。ならば都合よく、可能な限り良い面だけを拾っていき、それでもって次へ次へと逃げ切っていければそれに越したことはない。そういうわけで現在、おもしろいように理想に近づいている実感を得ているわけだが、上記のくだくだしい記述は、自分が勘違いしているわけではないということをアピールするのと同時に、今一度決して勘違いを起こさないようにと自らに釘を打つものである。

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 一長一短といえば、例にもれず「読書」もそうである。大人はよく「本を読みなさい」というけれど、一転して我が子が日がな一日読書ばかりしていれば、「外に出なさい」というものである(数年前の夏の実体験だ)。極端なものは一長一短であり、だからこれはどちらかというと一長一短というよりかは「極端だから当然」との指摘を受けそうだが、読書もそうであることは否定してはいけない。だから僕は今の自分を決して良いとは思っていない。事実、こんなにも好天に恵まれた週末を蛍光灯の下で消化したのだ。昨日突然の思いつきで散髪に行ったことも、俯いているときに視界をかすめる髪の毛に鬱陶しさを感じたことが理由だ。だから例えば、5月末までこの調子でいるつもりでは決してない。

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 例えそれが青春小説などであっても、その物語のなかには自分の未だ知らぬ知識や、そこから閃く何かアイデアがふんだんにある。部屋にこもって我武者羅にページを繰ることによろこびと共に一抹の後ろめたさもまた感じている僕は、だから、そんな邂逅した知識(雑学)や閃いたアイデアを手近な紙に書き留めるようにしている。例えば来週、外に出たときに出会う友人とそれを共有し、さらなる化学反応を期すために。内にいるだけで、外に盲目になってはいけないのである。

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 先述の、形式としての読書をたのしむその要素のひとつに挙げたのが、「集中力持続の限界線延長への挑戦」であった。ひたすら読書に没頭することで、集中力を養おうという狙いがそこにある。ならば、そのような「外への意識」は邪念であり集中力を妨げるものになりえるが、それも含めての集中力、要するにひとつのことのみならず器用に切り替えられるものを欲するものである。

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 連日、終わりの頃には慣れぬ種類の目の疲れを感じる日々である。なぜか誇らしい気持ちよりも恥ずかしいそれの方が勝っているのだが、一生懸命になれているとの実感がある。パソコンの画面はより目が疲れやすいようだ。ときどき外を覗きながら、再び内に戻ることにする。