6月22日(火)
居間の壁の天井近くに親指の爪大の羽虫が停まっているのを見つけ、それはべつだん食べ物にたかったり攻撃をしかけてきたりと人に害を及ぼすようなものではないから適当にほっといてやろうかと思ったが、自分以外の家族が目にすればおそらく相当な不快感を覚えるだろうと思ったので今のうちに外に逃がしてやろうと考えた。
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のんきといわれるかもしれないが、机周りを闊歩するありであろうとそんな羽虫であろうとなるべくならば殺生はせず、できるだけ何のダメージも残すことなく彼らが本来いるべき場所に帰してやろうといつもする。多くがティッシュでもって掴むともなくそっとふんわり包み、そうして開けた窓から庭にそれごと放り投げる。後日もぬけの殻となったティッシュだけを庭いじりのついでに父もしくは母が回収するというのが通例である。父と母は庭いじりがめっぽう好きで、どちらが庭に立っているかによってそれは盆栽でありガーデニングであるように僕の目には映るが、その結果としてうちの庭にはいろいろな種類の草花が季節ごとに表情を変えてみせてくれる。今でいえばやはりあじさいで、雨上がり、まとった雨粒を心持ち重たげにして傾いでいる青いそれは、園芸にてんで疎い自分でさえ眺めずにはいられない。雨をしのぐように裏側にはなめくじがおり、見られていることに気づいていないのかまるで無防備にぼんやり考えごとをしているよう。そんな事情から生きものにとっては居心地のよい環境なのか、庭にはとにかくたくさんの生きものが認められる。やもり、かまきり、てんとうむし。ひよと呼ばれているかわいらしい鳥やうぐいす。ねこならばいつか使おうと置いていた上等な土の上を用足しの場にしている図々しいやつまでい、ある日それを発見してぶつくさ悪態をつく母はしかしどこか愉快気だったのをよく憶えている。
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この家の歴史はもう二十年以上で、当時から庭いじりは連綿と続けられてきている。近ごろは庭だけにとどまらず、居間にまでもはや観葉植物の範囲を超えた植物が席巻してきており、ばかみたいに育ったそのうちのひとつの「木」は、平気でその葉をテレビにかぶせ、画面が見えにくいと思いながらも誰もどけようとしないのだから自分を含めちょっとどうかしている。うちの庭があらゆる生きものにとって少なくとも「ちょっと一息ついてやってもいいかも」とみなされていることは間違いなく、さっき述べた室内の様相からも、最近僕は、壁に隔てられているだけで実は内も外もなくなってきたような気がしてならない。この感が正しいのならば、劣化からどこかに穴があいて侵入を容易くさせていることは置いておいて、いろいろな生きものが室内に上がりこんできて堂々とゆっくりしていることもうなずける。
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椅子に立って件の羽虫を捕獲しようと試み、いつものようにこちらは少しも残虐なことをするつもりではないという気持ちを前面に押し出すと、いつものように羽虫は抵抗せずふんわりティッシュのなかに収まってくれた。それで椅子から下りたときだ、説明しづらいがとにかく僕は椅子の背もたれの突起した部分に尻の右をしたたかにうちつけ、激痛と同時に羽虫を包んだティッシュを離してしまった。当然羽虫は驚き再び今度はさらに天井近くに飛んでいき、停まり、ああ驚いたと脈拍を高めているのが見てとれた。局所的な尻もちという痛みで、まともに動けない身であったが乗りかかった船、手負いのまま捕獲を続行した。しかしあんなことがあっては今羽虫の感覚はかなり研ぎ澄まされており、ちょっと近づいただけで飛んで逃げいってしまう。不思議はそのとき起こった。捕獲のために体を伸ばした際に走った尻の激痛で、一瞬羽虫から目を離した。しかし、以来どこを探してもその羽虫の姿は見当たらない。むろん、ティッシュのなかにはいないし、なにしろ目を離したのは文字通り一瞬だから物陰に入り込んだはずもない。おそらくとんでもない確率だが着ているシャツの襟の裏側や背中に停まっているとかそんなところだが、それともちがうのであれば壁をすり抜けてとっくに外に逃げていったのだろう。こんな家ならばそんなことでも平気でまかりとおるような気が、ほんとうにするのだ。
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我が家の内外にいる生きものは、見えているものだけがすべてだとは思っておらず、実は透明な生きものもうようよやって来てはしばし憩い、外壁をすり抜けて室内に入ってきては適当に停まっている。僕が見つけて捕獲を試みた羽虫も実はそんなところで、偶然視認できたのは起き抜けの寝ぼけ頭が見せた魔法か、それとも家の内外を重要視しなくなった境地で得た悟りのひとつかはわからず、別になんでもかまわないのだが、常識だけで納得するようになってしまうと、そのうち対処が及ばない出来事に遭遇したときうちつける尻が足りないというようなことになる。今日も僕の部屋の天井の上からはがさごそとそう大きくはないが決して小さくもない何かが走り回る音が聞こえ、そうかと思えばそれは鳥が羽をばたばたさす音のようなものも聞こえる。いるのはどうやら単体で、羽ばたくがそのように走り回りもするイメージにある大きさくらいの生きものを僕は知らない。