心くらいには。 | デュアンの夜更かし

デュアンの夜更かし

日記のようなことはあまり書かないつもり。

 5月19日(水)

 こうして毎日ブログを書いて、寝る前にはノートに日記を書いていると、もうその日のすべてを、毎日続けているということはその日どころか自分という全部を全部書き出してしまっているのではないかと思うときがある。だけど実際そんなことはありえない。まず第一に、すべて書き出すことができるほど単純な日などなく、またそれを千何百文字に要約できるような筆力も持ち合わせていないから。そして第二に(これこそが真実なのだが)、書き出すことにストップがかかる事柄というものがいくつかあるからだ。

 僕は自分で、友だちは多くはない方だと思っている。しかし確かにそうだ、という人もいれば、それを否定してくる人もいる。友だちの定義というものがよくわかっておらず、そもそも明確な定義などは存在しないと思っているわけだが、「多い」といわれればそうかもしれないし、「少ない」といわれればそれもまたほんとうだ。要するに知人というべきか、「互いに顔を知っている程度の人」でいえば多いと思う。

 数少ない貴重な友だちのなかでも、僕には、すべてを打ち明けられるというような人はいない。これは断言できる。話の流れ上こんなことを話せば、可哀想な人だという目で見られることがたまにある(それは異性の人に多い)が、本人はまったくそうは思っておらず、これまでもこれからもこの調子でよいと考えている。要は、「あの話はこの人に」、「この話はあの人に」というふうに、話すべき相手を分けて考えている。そしてそんな「相手を選ぶ話」とは、個人的にシリアスな話題が多い。たのしい話ならばそんなふうに相手を分けることなどせず、なんなら電波に乗せて広く全世界に向けて話したいと思うくらいだ。シリアスな話題は負荷がかかり、かつ格好のいいものではない。だから、そうやすやすと人に投げかけるわけにはいかないと考えるし、そうやすやすと人に見せたくはないと考えるのだ。それで然るべき相手、というのをどうしても考えてしまう。

 ふと気がついた。「やすやすと投げかけられない、見せたくはない」と思うことは、人に対してのみでなく、自分に対してもそうなのかもしれない、と。考えれば気分が重たくなり、情けない自分と対面しなくてはならなくなる。それがいやだから、そして自分をそんな目に遭わせたくはないから、向き合うべき問題から逃げ続けていることがある。はじめは意識的に、そういう問題をあえて見ないようにしてきた。そうしているうちに次第にそれに慣れてきて、気がつけば無意識にどこにどう立てばそれが見えずに済むかということを考え、過ごすようになっている。そしてある日ふと人に気づかされ、恐る恐る見てみれば問題は変わらずそこにある。放っておいたぶんだけ悪化していることだってままあるわけだ。

 友だちなどにはこれまで通りでかまわない。いや、もうちょっと頼ってくれと勇気を出していってきてくれた人がいるのだ、もう少しくらいは相手を信じて投げかけてもいいかもしれない。そうでないと反対に失礼だ。問題は自分に対してだ。自分のために重要なしかし面倒な問題を隠すことはまちがってもやさしさなどではなくただの甘えだ。受動・能動の関係図があることからしておかしい。心はブログや日記とはちがう。誰にも見られることも見せることもできないものだ。だからせめて、心くらいには本物の不細工な自分を表せていなくてはいけない。