毎年拝観しているので 既にブログUP済みと思いきや・・・ 抜けていました
photo on June 6 '11
寧楽(なら)へいさ技芸天女のおん目見(まみ)に
ながめあこがれ生き死なんかも
ながめたい あこがれる 生きて 死ぬ
歌人・川田順(1882~1966)
それほど強烈な印象を残したのが
さりげなく左に傾けた顔はたしかに美女であり
大胆にくねらせた腰や手の指ののびやかさが
魅力を増幅する
秋 篠 寺
(宗派:単立) (山号:なし) 秋 篠 寺
創建 : 奈良時代末期 宝亀11年(780)
開基 : (伝)善珠大徳 (光仁天皇発願)
本尊 : 薬師如来像(重文)
文化財 : 本堂(国宝) 伎芸天立像・薬師三尊像ほか(重要文化財)
南 門
法相宗(南都六宗の1つ)興福寺の僧・善珠大徳が創建したとされ
地元の豪族秋篠氏の氏寺とも言われているが
創建の具体的な時期や事情については 不詳
宝亀11年(780)光仁天皇が秋篠寺に食封(じきふ)一百戸を施入(続日本紀)
(食封:一定地域の戸(世帯)から上がる租庸調を
給与や寺院の維持費等として支給するもの)
光仁天皇から桓武天皇に渡り 秋篠寺の造営は続けられ
延暦13年(794)平安遷都の頃 伽藍が完成
東西二つの塔を持ち 金堂など数多くの建物を持つ大きな寺だった
大同元年(806)桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行われた(日本後紀)
天皇家とも関連の深い寺院であった
平安時代後期から 寺領を増大させ 南に位置する西大寺との間には
たびたび寺領をめぐる争論があった(西大寺側に残る史料)
保延元年(1135)火災により 講堂以外の主要伽藍を焼失
現存する本堂(国宝)は 旧講堂の位置に建つが
創建当時のものではなく 鎌倉時代の再建
宗旨 : かつては 法相宗と真言宗を 兼学し
明治時代以降 浄土宗に属した時期もあるが 現在は単立
境 内
駐車場やバス停の関係から 拝観入口は東門になっているが
本来の正門は 南門
南門と本堂の間には 雑木林の中に 金堂 東西両塔の跡があり
それぞれ 礎石が残っている
本 堂 (国宝)
鎌倉時代の建立 当時の和様仏堂の代表作の1つ
平屋建て 桁行(正面)5間 梁間(側面)4間 屋根は寄棟造 本瓦葺き
桁行き:17.45m 梁間:12.12m 軒高:3.78m 軒の出:2.29m
正面の柱間5間は 中央3間を格子戸 左右両端の間を連子窓
柱間は端部が狭く 中央が広くなっており 建物を大きく見せる効果
堂の周囲には縁などを設けず 内部は床を張らずに土間
全体に 保守的で簡素な構成
鎌倉時代の再建でありながら 奈良時代建築を思わせる様式を示す建物
堂 内
本尊:薬師三尊像(重文)を中心に
十二神将像 地蔵菩薩立像(重文)帝釈天立像(〃)伎芸天立像(〃)など安置
仏像との間に 柵などという垣根がなく 間近で見ることができる
堂内には ベンチが ゆっくりと座って鑑賞できる優しい配慮
■ 本尊 : 木造 薬師三尊像
中尊の薬師如来が 素木仕上げであるのに対し
脇侍の日光・月光(がっこう)菩薩像は 彩色仕上げで
作風も異なり 本来の一具ではない
中尊薬師如来像は 蓮華座ではなく 古風な裳懸座に坐す
室町時代頃の 復古作とされる
両脇侍像は 平安時代後期の作とみられ
像容から もとは 梵天・帝釈天像として造られた可能性あり
■ 帝釈天立像 (重文 像高205.5cm)
頭部は奈良時代の脱活乾漆造 体部は鎌倉時代の木造
■ 伝・伎芸天立像 (重文 像高205.6cm)
本堂仏壇の向かって左端に立つ
瞑想的な表情と優雅な身のこなしで 多くの人を魅了
実はこの伎芸天 頭部のみが 奈良時代の脱活乾漆造
体部は 鎌倉時代の木造による制作時期が異なる補作
違和感を全く感じさせない一体感のある調和した像
[伎芸天]の彫像の古例は 日本では本像以外にほとんどなく
本来の尊名であるかどうかは 不明
頭部を奈良時代の脱活乾漆造 体部を鎌倉時代の木造とする像が
秋篠寺では 伎芸天像を含め4体ある
高く結い上げられた髪型
ふっくらとした顔立ちが 天平美人の典型的なスタイル
微かに唇を開き 歌を口ずさむよう
技芸天とは ヒンドゥー教の三神の一つシヴァ神が化生した女神
少し腰をひねり 優しい眼差しでにっこり微笑む伎芸天を
下から真近に見ると 写真で見るより 優しさが感じられ
優しい声をかけて頂いている感じがすると 人気度抜群
大元帥明王については 次々稿へ
東門より 本 堂
開 山 堂
十三層石塔
八所御霊神社 - 南門の外にあり、早良親王など八柱を祀る
ケータイの方 ごめんなさい 適正化していません