日本の内閣総理大臣、なぜやめていった? | 【らくーん別邸】蓬莱山チャンネル~1カ月で体調がグイグイ回復

日本の内閣総理大臣、なぜやめていった?

まずは、歴代(初代~20代まで)総理大臣

 ※暫定除く

①1885年12月22日~ 伊藤博文(第1次)

②1888年4月20日~ 黒田清隆(第1次)

③1889年12月24日~ 山県有朋(第1次)

④1891年5月6日~ 松方正義(第1次)

⑤1892年8月8日~ 伊藤博文(第2次)

⑥1896年9月18日~ 松方正義(第2次)

⑦1898年1月12日~ 伊藤博文(第3次)

⑧1898年6月30日~ 大隈重信(第1次)

⑨1898年11月8日~ 山県有朋(第2次)

⑩1900年10月19日~ 伊藤博文(第4次)

⑪1901年6月2日~ 桂太郎(第1次)

⑫1906年1月7日~ 西園寺公望(第1次)

⑬1908年7月14日~ 桂太郎(第2次)

⑭1911年8月30日~ 西園寺公望(第2次)

⑮1912年12月21日~ 桂太郎(第3次)

⑯1913年2月20日~ 山本権兵衛(第1次)

⑰1914年4月16日~ 大隈重信(第2次)

⑱1916年10月9日~ 寺内正毅

⑲1918年9月29日~ 原敬

⑳1921年11月13日~ 高橋是清

 

<つづき>

21代 1922年6月12日~ 加藤友三郎

22代 1923年9月2日~ 山本権兵衛 第2次

23代 1924年1月7日~ 清浦圭吾

24代 1924年6月11日~ 加藤高明

25代 1926年1月30日~ 若槻礼次郎

26代 1927年4月20日~ 田中義一

27代 1929年7月2日~ 濱口雄幸

28代 1931年4月14日~ 若槻礼次郎 第2次

29代 1931年12月13日~ 犬養毅

30代 1932年5月26日~ 斎藤実

31代 1934年7月8日~ 岡田啓介

・・・・・・

 

内閣総理大臣の交代の裏には

何があったのか?

ポイントだけまとめます。

 

1.伊藤博文(長州)※初代

  大日本帝国憲法を審議する枢密院の議長になるため辞職

 

2.黒田清隆(薩摩)

  北海道裏金事件の当事者

  大隈重信が不平等条約改正時テロ発生→混乱もあり解散

 

3.山県有朋(長州)

  軍事費増やしたい 朝鮮出兵もしたい。

  民党議員へ裏金渡して予算を無理やり通したことがばれる

  第一議会 民党勢力の反発強く、内閣は総辞職

 

4.松方正義(薩摩)

  不況→兌換紙幣発行、銀本位制

  民党と対立→民党が優勢

  第二議会 選挙時に民党への妨害がありその選挙干渉責任をとって総辞職

 

5.伊藤博文(長州)

  民党と争うのではなく仲間に取り入れた

  板垣と後藤を引き抜いた

  日清戦争緊迫→軍事費増

  日清戦争勝利で賠償金ゲット

  しかし敵を味方の仲間に引き入れたことへの内部からの批判

  人事で対立が発生(板垣VS大隈)

  山県も民党に反発し、人事がぐちゃぐちゃになり辞職

 

6.松方正義(薩摩)

  政党と協力関係築く

  貨幣法 5円金貨 金本位制

  地租増額(=増税)を行い→内閣不信任案により倒される

 

7.伊藤博文(長州)

  増税行う

  板垣と大隈が組んで伊藤博文政権の打倒を目論む

  板垣と大隈は自由民権憲政党をつくり本当に倒した(政党政治へ)

 

8.大隈重信(肥前)

  初めて政党から総理大臣に(憲政党)

  尾崎行雄が失言で文部大臣辞職→後候補の人事でもめる

  旧自由党と旧進歩党で分裂し政党は結局解散

 

9.山県有朋(長州)

  増税 軍備拡張へ(←軍事関連企業関係者が支援)

  新たな選挙支持層獲得へ

  政党嫌いなので弾圧→排除がきつすぎて逆に反発くらう

 

10. 伊藤博文(長州)

  政党と敵対するのではなく協力

  政権与党をつくる 立憲政友会

  敵対勢力と組んだことに内部からの反発

  貴族院からも人事で批判→退陣

 

11. 桂太郎(長州の山県系)※「桂園時代」へ

  陸軍 

  政党嫌い 日韓協約締結 

  後釜に西園寺公望を指名して一旦退く

 

12. 西園寺公望(長州の伊藤系)

  人事バランスを考慮した政党内閣

  藩閥(薩長)勢力と協力し、軍隊とも協力した

  →結局”政党政治ではない”と批判される

  貧富の差が拡大し社会主義的考えが台頭

  伊藤博文が暗殺される→韓国併合へ

  不況と増税により国民の不満増

  さらに軍隊からも軍事費増をつつかれ板挟み→総辞職

 

13. 桂太郎(長州の山県系)

  社会主義に対し厳しく対応

  日本の世界的立場はこの時期上昇

  後釜に西園寺公望を指名

 

14. 西園寺公望(長州の伊藤系)

  明治天皇が亡くなる

  陸軍軍隊から軍事費増要求つきあげ

  陸軍大臣がやめてポスト不在→内閣成立せず結局総辞職

 

15. 桂太郎(長州の山県系)

  陸軍重視

  国民は「藩閥・軍閥」に反対(第一次護憲運動)

  「大正政変」で内閣を総辞職に追い込み倒した

  大正デモクラシーへ発展

 

16. 山本権兵衛 ※「桂園時代」終わり

  海軍大将

  政党を利用

  武官制改革

  最初人気あったが「ジーメンス事件」(ドイツから賄賂)

  →責任とって総辞職

 

17. 大隈重信

  第一次世界大戦によって日本は好景気

  元老の山県有朋が軍備増強を大隈に約束させて総理大臣に推薦

  政党とはギスギスの関係

  「大浦事件」(賄賂)発覚し退陣

 

18. 寺内正毅

  山県が天皇へ推薦

  中国へ無担保金貸す投資(反日感情緩和)

  藩閥 軍閥大勢いる「超然内閣」

  ロシアで革命起こる→シベリア出兵

  ※目的達成したにもかかわらず撤兵しなかったのは問題

  →米価上昇→米不足で全国で米騒動→混乱で総辞職

  

19. 原敬 (新聞記者出身)政党内閣

  第一次世界大戦が続き好景気つづく

  立憲政友会(人気を得た)

  新しい金持ち成金をとりこみ成長(金持ち優遇)

  積極政策(教育・インフラ・貿易・軍隊)

  公共事業

  普通選挙運動盛り上がる→参政権で納税額ハードル残す

  →金持ち優遇に国民不満

  第一世界大戦終結で戦勝国側になるも、戦後日本のモノが

  売れなくなる→戦後不況へ

  日英同盟破棄へ(米国の裏工作があった)

  東京駅で刺殺される

 

20. 高橋是清

  急遽、大蔵大臣だった高橋是清が総理大臣に。

  積極政策を見直し→節約を提案するも

  内閣がバラバラで意見がまとまらず総辞職へ

 

21. 加藤友三郎

  海軍大臣

  ガンで亡くなる

  関東大震災起こる

 

22. 山本権兵衛 第2次

  大震災後、暴動やテロ多発 カオス状態

  後の昭和天皇の狙撃事件「虎ノ門事件」

  混乱の中総辞職

 

23、 清浦圭吾 元貴族院

   超然内閣

   第二次護憲運動始まる

   (護憲三派=立憲政友会と憲政会と革新倶楽部)

   納税ハードルをなくそうとする憲政会が選挙で圧勝

   →超然内閣を倒す

 

24. 加藤高明 憲政会

   「護憲三派連合」内閣

   普通選挙法(総人口の2割、25歳以上すべての男子)

   治安維持法(反政府運動取締強化)

   のちに→連合した立憲政友会と憲政会が喧嘩

 

   加藤高明 憲政会単独内閣へ移行

   任期中に肺炎で亡くなる

 

25. 若槻礼次郎 憲政会

   総理大臣臨時代理

   立憲政友会と立憲民政党(一般市民)の2大政党制

   「憲政の常道」の原則により交互に担当 

   ※弊害:選挙で勝たないと主導権握れない

    選挙で勝つことが目的化し賄賂や大企業のパトロン確保へ

   大正天皇亡くなり昭和天皇即位

   「金融恐慌」 片岡失言発端 深刻化

 

26. 田中義一 立憲政友会 元伊藤の長州閥 陸軍出身

   金持ちは支持

   モラトリアム(支払猶予令)取り付け騒ぎを鎮めお金を大量に刷る

   強硬外交 積極大陸進出 ←お金持ち層と軍隊がバックで支持

   「産業立国論」 枢密院も賛同

   北伐が終わるまでに満州利権を得るため中国進出すべしとの見解

   張作霖爆破事件→田中義一内閣は当事者へ軽い処分→昭和天皇が不信任

   

27. 濱口雄幸 憲政会→立憲民政党 軍縮派

   日本は恐慌が続き金本位制を停止していた

   →金輸出解禁へ

   日本の流通紙幣を減らす→日本の給料減る

   企業の自立を望む厳しい対応(結果、無理だった)

   日本円の価値低下

   金本位制の復活で海外の日本製品値上り

   →売れ行き悪くなる→国内のお金の流通減る 物価下がる想定だった

   そこに世界恐慌発生 世界中でモノが売れなくなる 

   世界の物価下がる→日本の金は世界へ流出

   日本は海外から買いまくって(輸入増で)さらに景気悪化

   昭和恐慌 生糸も米も安く 

   外交でも海軍の同意ないまま勝手に軍縮条約を締結→反発起こる

   →東京駅で狙撃され亡くなる

 

28. 若槻礼次郎 第2次

   満州の扱いが問題視

   協調外交目指す→が、軟弱外交と非難 「満蒙の危機」

   このままでは多くの犠牲を払った日本の権益(満州)がとられてしまう

   →満州陸軍が「柳条湖事件」起こす

   若槻内閣はこれ以上軍事行動は広げない方針だったが

   関東軍の独断で戦線拡大→満州全域

   国内では満州権益を守る行動に賛同者増え、

   内閣内でも意見が割れ、総辞職へ

 

29. 犬養毅 立憲政友会

   政党を転々

   恐慌対策→金輸出再禁止 紙幣バンバン発行し流す

        日本円の価値暴落へ(価値は半分になる)

        日本の輸出は回復

        世界では日本のことを「ソーシャルダンピング」

        →日本にお金が流通し経済は元気になった

   満州対策→満州を傀儡国家(溥儀を皇帝へ)とすることに反対 

        実際に占領するのではなく経済的に利用し支配下に置こうとした

        借金してでも軍事費をひねり出していた(陸軍との関係は悪くなかった)

   が、折り合いついていなかった海軍に暗殺される(1932年「5.15事件」)

  ※政党内閣の負の部分(政治より選挙に勝つことだけが目的化、

   選挙に勝つためには大きな票をどんな手段でも集めればいい)

   →腐って使い物にならない政党政治を倒そうとする動き

   →軍中心内閣へ 「国家改造運動」テロ発生の土壌

 

30. 齋藤実 海軍大将 ※憲政の常道 政党内閣は終わり

   西園寺公望が推薦

   挙国一致内閣(立憲民政党・立憲政友会・陸海軍・貴族院・官僚)

   軍が次第に力をもつ

   満州国を国として承認するか否か→リットン調査団により非承認

   →松岡外相 国際連盟脱退宣言

   帝人事件で斎藤内閣総辞職

 

31. 岡田啓介 齋藤実推薦 海軍

   引き続き「挙国一致内閣」目指すが軍隊の力が強くなっていた(軍国化が進む)

   天皇機関説 天皇の主権は絶対だ!→機関説を排除「国体明徴声明」

   軍隊の内部抗争(国家改造の皇道派と統制派)

   2.26事件(皇道派陸軍)→齋藤実・高橋是清を殺害→統制派(陸軍)が鎮圧

   →岡田内閣は総辞職 陸軍の存在感増す

 

32. 広田弘毅 外務大臣だった

   軍部の圧力増す→軍部大臣現役武官制復活

  (いつでも軍が気に入らなければ内閣を壊せる)

    軍による政治介入強まる

   日独防共協定

   立憲民政党と立憲政友会の両政党が合同で軍部に対抗

   軍部と政党の板挟みにあい総辞職

   宇垣一成 陸軍 を立てようとするが

   過去軍縮サイドだったことに軍部が反対し降ろされた

 

33. 林銑十郎 陸軍

   軍隊と政党の板挟みにあい総辞職

 

34. 近衛文麿 イケメン 藤原氏貴族の血 

   汚職ない国民から人気 軍の評価も高かった

   1937年盧溝橋事件→日中戦争へ

   一時戦線不拡大方針をとったが、大山事件→戦争継続を認める方針へ

   北支事変 →上海まで戦線が伸びた シナ事変

   一致団結して戦争へ向かう

   南京陥落→中国へ脅し威圧発言→さらに抵抗強まる

   ファシズム(国民は国家のためにある)

   国家総動員法

   「東亜新秩序形成」(戦争の正当性主張)

    欧米支配からのアジア開放 日本を中心とする世界新秩序作る

   日中戦争の泥沼化で先が見えないまま退陣

 

35. 平沼騏一郎 近衛文麿が指名 枢密院議長

   日独防共協定→軍事同盟へ進化 陸軍は賛成するが海軍は反対

   ノモンハン事件 

   ドイツは「独ソ不可侵条約」締結→ 仲間が敵と組む?

   →「欧州情勢複雑怪奇」と発言し退陣

 

36. 安倍信之 陸軍

   ドイツは、ポーランドをソ連と半分ずつ占領することで密約

   ドイツのポーランド侵攻開始→第二次世界大戦

   日本はこれ以上アメリカ・イギリスと仲悪くならないように

   ヨーロッパの戦争には参加しない方針→しかし陸軍は反発 海軍は賛成

   日中戦争長引く 価格等統制令→物価下がる

   陸軍と海軍の意見がわれたまま混乱→総辞職

 

37. 米内光政 昭和天皇が任命 海軍出身 親英派

   陸軍は「日独伊三国同盟」締結願うが→米内は却下

   →陸軍は反発し大臣を出さない(軍部大臣現役武官制発動)→内閣壊す

 

38. 近衛文麿 第2次

   ドイツがイケイケ→ヨーロッパで快進撃だった

   日本は北部仏印進駐(ベトナム進出)→日独伊三国同盟締結

   アメリカは日本の東南アジア進出に反発→輸出規制・禁止へ

   「一国一党」 新体制運動 国を1つに ナチスの影響あり

   政党は次々解散

   「大政翼賛会」 初代近衛

   アメリカに脅しをかけようとした松岡洋右が足手まとい

   →一旦内閣解散

 

39. 近衛文麿 第3次

   松岡洋右を内閣から外した

   日本は1941年インドシナへ進出

   本音ではアメリカとは戦争したくなかった(理由:石油提供してくれていた)

   アメリカと交渉するも進展なく何もできず総辞職

 

40. 東条英機

   イケイケで開戦したがる陸軍をおさえる役目を期待される

   昭和天皇もアメリカとの開戦は消極的

   開戦をさけるためアメリカと交渉続けるも

   「ハルノート」叩きつけられ→日本はこれを受け入れられず開戦へ

   ABCD包囲陣によりほとんど石油が買えない状況

   交渉長引いてもどっちにせよ無理

   →米英との戦争を決意 真珠湾攻撃(そのように誘導された)

   選挙 「翼賛選挙」→翼賛政治会(議会を支配するチーム)

   最初、国力を超え占領地域広すぎ

   ミッドウェー海戦で敗戦 戦況悪化

   絶対国防圏も失う

   1944年東条英機内閣は責任とって総辞職

   

41. 小磯国昭 陸軍大将

   アメリカと講和条約結んで終戦する派と

   一撃加えて少しでもましな条件で終戦 徹底抗戦派

   ヤルタ会談

   秘密協定 ソ連の対日参戦

   アメリカの沖縄上陸 →成す術なく総辞職

 

42. 鈴木貫太郎 海軍

   イタリア降伏につづきドイツも無条件降伏

   ポツダム宣言による無条件降伏をもちかけられる

   →一旦無視→原爆投下

   最終的に昭和天皇の判断でポツダム宣言受諾

   終戦敗戦宣言の後、総辞職

 

43. 東久邇宮稔彦 戦後処理内閣

   皇族 現役陸軍人

   皇族内閣

   GHQの指令に従った

   天皇の親族 日本人の気持ちを緩和する

   人権指令(共産主義者逮捕者も釈放)を受け容れられず総辞職

 

以上、初代~戦後処理まで

 

 

電球ここで失敗した!ターニングポイント

   下矢印

★明治42年、文治派の伊藤博文が韓国で安重根に暗殺され

 武断派(山県有朋グループ)が勢いを増す

 →もっと警戒すべきだった 油断があった

 

★出兵目的達成後も、兵を駐留させることで諸外国に警戒され

 結果敵に回すこととなった

 →まわりの警戒心をとくため一旦は引くべきだった

 

★出る杭が目立ちすぎ調子に乗ると周りから睨まれつぶされる

(包囲され結局孤立させられる→ボコボコへ)

 →目立ちすぎると周囲から叩かれるので謙虚さが必要

 

★1932年日英同盟の破棄により日本は地位確保の後ろ盾を失う

 →後ろ盾は確保しておく

 

★仮想敵国の想定誤り

 →本当の敵を見誤ってはいけない

 

★敵国の巧妙な挑発行為に簡単に乗るな

 →感情で突発的に行動するな

  相手の行動の裏・真意を読む

 ※『兵法』が教える通り

 

★「軍部大臣現役武官制」の成立を阻止できなかった

 →その次、先を想定して

  死守するところはなんとしても守り切る

 

★国内の2極対立構造をうまくまとめられなかった

 (派閥争い等、本当の意味で「挙国一致」できなかった)

 →本当の敵に対して内部で結束は必須

 

★多くの国民は国の情報統制や

 マスコミの情報操作もあり真実を見誤った

 →情報操作にひっかかるな

  判断に必要な真の情報を見抜く

  情報不足だと失敗する

 ※「失敗の3原則」の通り  

 

★外交的に戦略的な同盟関係を構築できなかった

(戦略的駆け引きに疎かった)

 →世界動向をきちんと把握した上で

  関係性を構築すべし

 

★長期戦略がなかった(共有理解を徹底できなかった)

 →目の前の戦いに勝つことだけでなく

  戦略に基いた目標をみなで共有すべし

 ※戦術と戦略を使い分ける

 

★トップの重要な決断・判断が遅かった

 →勝負所での押し、そして引き際

  ここぞという時の判断を迅速に

 

 

 

<過去記事>

📝古代の歴史からの学び

📝歴史的教訓からの学び

📝日本史&世界史通史からの学び