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RaiN worldのryoです。

先日、『陰陽師0』の映画を観まして、今回はそのことについて書こうかなと。


そのときのことはすでにこのブログで記事にしてありますが、この記事に書いてある感想を書きだしたのがだいぶ後になってしまったので、別の記事という形にしました。




前の『陰陽師0』についての記事にも書きましたが、あの映画についてはnaoといっしょにラジオで感想をしゃべっています。

そこで、わたしの口から出た言葉のうちに、映画の中で安倍晴明が「事実と真実とを分ける」ことを大切にしていた、というものがありまして。そこを入口にして、自分なりに感じたことを書いてみようと思います。


まず最初に結論を言うと、わたしの感じでは、『陰陽師0』の映画は安倍晴明(というキャラクターを超えて、映画鑑賞者自身にとって)の「自分なりの真実を定めることへの意志」を感じさせてくれる映画でした。


映画のなかで、晴明が相棒である源博雅に事実と真実のちがいを伝える場面があります。

真実は主観的なことで、事実は客観的なことである。直感的にもそれはそうですね。そのうえで、晴明は自分はつねに事実を見ていたい、と宣言してみせます。

このとき言われている事実とは、いわば「ほんとうのこと」です。そして事実が本当であるというとき、真実は誰かにとっての正しさ──「ただしいこと」である、といったニュアンスが味わわれます。


ところで、晴明にはトラウマがありました。幼い頃に何者かに家族を殺された、そのことが。晴明は犯人の顔を見ているはずでしたが、何度となく夢のなかで反復される殺人者の顔はわからないまま。無意識に犯人を知ることを怖れているためでした。映画のストーリーは、晴明のこのトラウマとの決着を巡って進行していくのですが、わたしはここに、くだんの「真実/事実」のテーマを見つけるのです。


公平に事実を直視したい晴明。ですが、家族を殺害した犯人の顔を直視できないでいる自分がいる。自己防衛によるものなのか、なんであれ、無意識による自分の意に沿わないかたち──事実を直視できていないでいるブロックがある。別の言い方をすれば、事実を見たいと思う晴明もまた、ひとつの真実(=正しさ、あるいは信念)によって凝り固まっているのでした。


ここで違和感。


第1に、なんとなく、晴明が「事実を見ろ」と言っているので、事実のほうが真実よりもすばらしいもののように思ってしまいそうですが、本当にそうなのでしょうか。どうなんだ? そんなことはないんじゃないか?

たとえ主観的なものであり、そこになんらかの偏見があったとしても、特定の誰かにとって信じ・生きられている真実は誰にとってもそうであると見てとれる事実とおなじ度合いの重要さがあるはずです。それがわたしたち一人一人が生きている「現実」というものなのではないでしょうか。


第2に、わたしたちはつねに特定の誰かとして生きています。そしてそこでしか現実を体験していず、自分が自分としてありながら他の誰かとして生きることはできません。生きるを体験する身として、主観的に生きており、客観的にも生きているとはいえ、迫るこの現実の “この” 以外を生きることはできない。だから、事実を見たとしてその事実を繰り込んだ現実は、どうしたって主観的な真実として機能するという面を含んでしまうはず。


こういうふうに2点違和感を挙げてみて思うのは、「真実/事実」の区別は、晴明にとっては「自分が自分として生きられるほんとうの道を探す営み」へと還元させたいはずよな、ということ。

つまるところ、それは晴明が直視しあぐねいている事実は、自分の〈ほんとう〉を定めるうえでの「判断材料」になるべきなんじゃないか。ここで〈ほんとう〉と表現したい事柄は、いわゆる「真実」といった形で表現すべき事柄なんじゃないか。

ここでいう〈べき〉の表現は「そうしなければならない」といった義務のことを指すのではありません。「どのようにあることがそれを生きる人の理想にとって相応しいのか」を指す、ある種の論理的なチャートに則った合理性を表すものです。『陰陽師0』の映画でいえば、主人公・安倍晴明が「自己の問題に自分なりの解答を得る=真実への到達」をするうえで順当なありかたをしているのかどうかに係ります。

そう、結局のところ、晴明にとっても真実は獲得したいものとしてあるのです。映画を観ていると「事実を見ようとする」晴明の姿を見ることになりますが、

その姿から窺えるのは、正確には、

誰にとってもそうだという〈事実〉はあくまでも(何かを思考し、判断するうえで使う材料である)データとしてあり、

肝心なのはそのデータを編集し、自分なりの真理を、さながら自分のスタイルを確立するかのようにして、(作品を作るように)制作し、それを受容することにある

──これなんじゃないかなと。


安倍晴明にとって、真実は誤った情報によって真実視できないことがわかっていました。だからこそ客観的な事実を見ることに徹しようと努めていた。主観的なものと距離を置こうとしていたのは、そうした、不審な真実に瞳を曇らされている自分自身を知っていたからでした。この意味で、晴明にとって、真実は真実として機能していなかった(真実視できなかった)と言えます。出来事によって汚染された真実を浄化するために、晴明はより客観的な事実を知った上で事態を把握する必要があったのです。

たしかに、映画のなかで晴明は、自分が自分であるための、自分がそうありたい自分としてあるための真実へと到達します。歪められた真実を振り払い、真に真実たりえる真実を定める。これが晴明のやったこと。


と、いった感想を抱いたのですが、劇中に登場する「呪」、これは「しゅ syu」と読むのですけれど、これについても強く印象に残っていて、それはいわゆる「言の葉の力」を示す概念で、わたしたちは言葉に縛られた存在であるといったニュアンスを物語る言葉だったりするのですが、安倍晴明が「真実」や「事実」やと思っているとき、それを真実視し、事実視する際にも〈呪〉は働いているんだろうなと考えると、不思議な感じがしてきます。というのも、何をもって主観的であるとするのだとか客観的であるとするのだとかってことにも、〈呪〉はあって、〈呪〉があるからこそわたしたちは信じたり疑ったりといった営み(=真実視・事実視の営み)ができるのでしょうから。

映画を見ていると陰陽師の存在は、〈呪〉を人に掛けたり解いたりといった力能があるようでした。〈呪〉は「お約束」と言ってもいいかもしれないもので、劇中で「ほんものの」陰陽師である安倍晴明は幾つもの “ありえない” を現実化してみせ、言うなれば、「お約束を破って」みせる存在です。現に映画のラストでは観客の現実へも、映画の登場人物が観客のいる現実に言及しないというお約束を破るようなシーンもあるくらいですから。そのことから、映画『陰陽師0』が晴明の学生時代を描き、まだ過去に囚われた尻の青さの残る若造が、わたしたちのよく知る天才陰陽師として覚醒する話であることを思うにつけ、こんな感想も浮かんできます。すなわち、この映画は「呪を操る陰陽師がかかる呪」を窺うことのできる映画なんじゃないか、と。安倍晴明で言ったら幼少期のトラウマがそうですし、陰陽寮の人々で言ったら陰陽師として出世すれば幸せになるだとか、陰陽師ができるのはこういうことであるといった思い込みもそうです。いずれもみな、呪にかかっている。

〈呪〉あるいはお約束のことに注意を向けると、それは映画の中の安倍晴明の事情を超えて、映画を観た人へと打ち寄せてくるように思います。そこで打ち寄せてくる想いとはつまり、「自分にはどんな呪がかかっているのだろう?」「自分はどんなお約束を守っているのだろう?」そんな疑問も浮かんできそうです。──ここで述べた「きそうです」という想いさえ、わたしの掛かっている呪によって導き出されたことだと思うと、安倍晴明がおこなったような汚染された真実を事実によって浄化し「ほんとうの真実」を定めることは、改めて重要なことのように思われます。言うなればそれは、自分がかかる呪を知り、検分し、必要とあらば解除・呪縛の手続きを行い、つまりは編集しようとすること。つまり「真理の編集者」であらんとする。この意味で、呪の使い手としての陰陽師であることは、わたしたち誰しもに開かれた門扉だと思うのです。






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