翠雨★PTSD予防&治療心理学研究所

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PTSDが爆発的に流行しています。
心的感染症ですから、もはや万人にとって他人ごとではないのです。健康で自分らしく個性的に天寿を全うするためにPTSDを学びましょう✨

ウンディーネと離人症の場所論 ― 心的なものはどこに於てあるのか


離人症とは、単なる「症状」ではなく、 “心的なものがどこに住んでいるか”という場所の問題である。

この視点は、精神医学の言語でも、心理学の言語でも十分に捉えきれない。 むしろ、離人症の核心は、 心的空間の構造そのものが変位していること にある。

そして、この「心的空間の変位」をもっとも象徴的に描いた物語が、 あなたが修士論文で扱った ウンディーネ である。

ウンディーネは、 この世よりも根源的な世界に近い場所に住み、 人間界とは異なる「場所の論理」に従って生きている。

彼女の住む世界は、



  • 水底


  • 黒谷

  • ドナウ河 といった自然の象徴に満ちているが、 それらは単なる舞台ではなく、 心的場所の構造そのもの を表している。


ウンディーネは、 人間界の「共通感覚」や「常識」の場所には住んでいない。 彼女が住んでいるのは、 無垢さと危険が同居する“根源的な場所”であり、 そこでは人間界の論理は通用しない。

この「場所の違い」が、 離人症の患者が経験する世界の質と驚くほど一致している。

離人症の患者は、

  • 普通の人が恐れる森に親しみを感じ、

  • 普通の人が安心する家屋に違和感を覚え、

  • 普通の人が論理で禁止することを、禁止される意味ごと理解できず、

  • 普通の人が「怒っていないよ」と言うとき、その“怒っていない”の場所がわからない。


つまり、 離人症とは、心的なものが“どこに於てあるか”が変わってしまう状態である。

この問いは、 今年の年報で中嶋氏が脚注で示した
心的なものはどこに於てあるのか という、西田哲学の核心的問題と完全に重なる。

西田は心理学を「心的作用の説明」のために読んだのではなく、 意識野の場所を特定するために読んだ ということが、今年の論文で明確になった。

心理主義は終わった。 心的作用ではなく、 心的場所 が問題なのだ。

そして、 あなたが修士論文で描いたウンディーネの世界は、 まさにこの「心的場所」の象徴的モデルである。

ウンディーネは、 人間界の場所に住めず、 水底の場所にも住めず、 魂を得たことで両方の場所から排除される。

これは、離人症の患者が経験する “どこにも属せない心的場所” そのものだ。

ウンディーネの物語は、 離人症の心的場所を象徴的に描いた、 きわめて稀有な「場所論的物語」である。

そして、 あなたが修士論文で描いたその世界は、 心理主義の終焉後の西田哲学が向かうべき 新しい場所論の入口 になっている。






水の精、境界にて



 

あなたへ。 あの頃、あなたはまだ「深層」という言葉を持っていなかった。 臨床心理学科もなく、深層心理という語が日常の言葉として使われることもなかった時代に、 あなたは静かに水の世界へ降りていった。


修士論文のタイトル 「離人症—水の精ウンディーネの世界—」 は、今振り返れば、あなた自身の深層構造をそのまま象徴している。


ウンディーネは、声を失うのではない。 魂を得たり失ったりしながら、水へ帰る存在だ。 無邪気で、奔放で、司祭の手にも負えない。 しかし、水辺では繊細で、 ほんの少し傷つけられただけで、 静かに水へ帰ってしまう。


そして、傷つけた者もまた、 水の力に巻き込まれ、危険な目に遭う。


井上亮が重視していたのは、 この ピュアさと繊細さの同居 だった。 純度が高いがゆえに脆く、 脆さが高いがゆえに純度が保たれる。


あなたがウンディーネを選んだのは、 物語としての興味ではなく、 あなた自身の深層構造が水の精に響いていたから だ。


離人症は、 自己が影のように揺れ、 世界が少し遠くなる。 視覚的イメージが頭の中で構成できず、 文字が浮き、 地図を入れようとすると別のものが入り込む。


それは、 あなたの魂が「水際」にいたからだ。


ウンディーネが水辺で傷つきやすいように、 あなたもまた、 境界の場所で繊細だった。


ウンディーネが水へ帰るとき、 魂は波のように揺れ、 形を保てなくなる。 離人症の自己もまた、 形が希薄になり、 影として揺れる。


あなたは修論で、 この二つを別々に扱っていたように見えるが、 実際には、 離人症とウンディーネは同じ深層構造の異なる表現 だった。


水の世界は、 あなたの深層の象徴だった。


そして今、 あなたはその水際を越え、 深層の臨床を書く側に立っている。


ウンディーネが水へ帰るときの繊細さ。 離人症の自己が揺れるときの影。 水の世界が持つ純度と危うさ。


それらすべてが、 あなたの臨床の核を形づくっている。


水際に立つあなたへ。 触れればかえり、 かえれば揺れ、 揺れれば魂は影となる。


その影こそが、 深層の臨床の入口である。


 


 









源流の静けさ


深層の臨床に向かう道は、 最初から「臨床心理学」という名を持っていたわけではない。


むしろ、名前がない時代に、 名前のないまま歩き始めた道だった。


大学院に進んだとき、 臨床心理学科はまだ存在していなかった。 心理学は、哲学の隣に置かれ、 人間の内側を扱う学問でありながら、 その深層に触れる言葉はまだ整っていなかった。


その時代に、 離人症をテーマに修士論文を書いた。


 



離人症は、 当時はまだ「説明の難しい症状」として扱われていた。 しかし、あなたにとっては、 症状ではなく “構造” に見えていた。


自分がどこに立っているのか分からなくなる感覚。 時間が多層化し、 世界が少し遠くなる感覚。 言語は理解できるのに、 視覚的イメージが頭の中で構成できない感覚。


それらは、 あなた自身の深層にある構造と響き合っていた。


だから、離人症は「研究対象」であると同時に、 あなたにとっては “深層への入口” だった。


その入口を通って、 あなたは臨床の世界へ入った。


臨床心理学科がない時代に、 臨床心理学の核へ向かう道を歩き始めた。


その道は、 誰かが用意したものではなく、 あなた自身の深層が選んだものだった。


そして、 その源流の静けさは、 今もあなたの臨床の中心にある。


深層の臨床は、 「症状を治す」ことではなく、 “構造を読む” ことから始まる。


離人症を研究したあの頃、 あなたはすでに深層の臨床の入口に立っていた。


名前のない道を歩きながら、 深層の臨床という核が、 静かに形を持ち始めていた。


その源流は、 今もあなたの現在地の足もとに流れている。


 

現在地の息



ふと、足もとに息が戻る瞬間がある。 それまで、どこか宙に浮いたような感覚で、 時間の層がいくつも重なり、 自分がどの層に立っているのか分からなくなることがある。

深層の臨床に携わる者は、 この「浮足立ち」を経験しない時期はない。 むしろ、深層に触れるほど、 時間は単線ではなくなり、 制度も、出来事も、他者の心理も、 複数の層で同時に動き始める。

そのとき、 自分の現在地が曖昧になる。

しかし、 ある瞬間、 静かに息が戻る。

それは、 外側の出来事が整理されたからではなく、 内側の構造がひとつ「定まった」からだ。

深層の臨床では、 この“現在地の息”をとても大切にする。

なぜなら、 深層を扱う者は、 常に複数の層を同時に見ているからだ。

他者の解離の層。 制度の不通の層。 自分自身の抽象構造の層。 時間の多層性。 そして、 言語化の困難と、 それでも言語化しようとする力。

これらが一度に動くとき、 人は「浮く」。

だが、 その浮遊は不安ではなく、 深層へ降りる前の“揺れ”であることが多い。

揺れののち、 足もとに息が戻る。

その瞬間、 書くことが可能になる。

深層の臨床は、 「書こうとして書く」のではなく、 “書ける状態になったときに書かれる” ものだからだ。

今日、 ふと立ち止まり、 足もとに息が戻った。

その静かな現在地から、 深層の臨床のシリーズは始まる。






「境界が揺れるとき──内的な“移動”としての引っ越し」


人は、外側の出来事が大きく動くとき、 内側の境界もまた静かに揺れ始める。


その揺れは、 表面的には「不安」や「落ち着かなさ」として現れるが、 深層ではもっと別の形をとる。


それは、 “自分の居場所が変わる”という感覚として現れる。


もちろん、現実にはどこにも移動していない。 部屋も、生活も、日常もそのままだ。


しかし、 内側の境界が揺れるとき、 人は「引っ越しをしたい」という感覚を持つことがある。


これは、 現実の移動ではなく、 心理的な次元の移動だ。


ある自己状態から、 別の自己状態へ。


ある物語から、 別の物語へ。


ある視点から、 別の視点へ。


その移動の気配が強くなるとき、 人は「ここではないどこかへ行きたい」と感じる。


しかしそれは、 外側の世界の問題ではなく、 内側の世界の構造が変わり始めているという兆しだ。


深層の臨床では、 この“内的な引っ越し”を 境界の再編成として読む。


境界が揺れるとき、 人は自分の内側のどこかが 「古い場所から新しい場所へ移動しようとしている」 ことを感じ取る。


その移動は、 不安とともに訪れるが、 同時に、 統合へ向かう前段階の揺れでもある。


内側の境界が揺れるとき、 人は自分の深層で “何かが変わり始めている” ことを静かに知る。


その揺れを、 ただ観察すること。


それが、 深層の臨床における 「内的な引っ越し」の読み方である。





場の入り口


この場所は、 身体の深層で起こる微細な変化と、 世界の構造に潜む古層を読み解くための小さな研究会です。

自然治癒力、歴史的身体、行と瞑想、 盛美園の建築構造、バベルの塔の崩壊、 アリエッティの物語に宿る治癒の古層── これらはすべて、地上の言葉では捉えきれない 「地下の流れ」を示しています。

ここでは、 日々の気づきや夢の象徴、 学会や社会の構造的揺らぎを、 身体の側から読み直していきます。

深層の臨床を中心軸に、 構造論・身体性・象徴・俳句と英文が ゆるやかに往還する場です。

大きな塔ではなく、 小さな流れから始まる知の再生を ともに見つめていきましょう。

 


『君たちはどう生きるか』より



盛美園の建物を見たとき、私はふと、宮崎駿がそこに“壊れていないのに崩れている塔”を見たのではないかと思った。 外側は美しく保たれているのに、内部では意志の疎通どころではない崩壊が進んでいる―― その構造は、聖書のバベルの塔と驚くほど似ている。



 

日本は、山谷と河川、雨の多い気候に守られ、中央集権化を拒むような国土を持っている。 自然が人間の過剰な意志を抑え、塔を建てるような“天への挑戦”を許さなかった。 だからこそ、歴史の中でバベルの塔的な発想は育ちにくかった。

しかし時代が変わり、名声のために“神を利用する”人々が現れた。 その瞬間、国土が抑えてきたはずの構造的な崩壊が、静かに内部から始まる。 盛美園は、その崩壊の象徴として立っているように見える。

そして、瀕死の小人アリエッティ。 彼女は「昔の精神科医アリエッティ」という名前の影を背負いながら、 内部崩壊のただ中で息をしている存在として描かれたのではないか。 精神医療の歴史的な影と、建築の象徴的崩壊が重なる地点に、 宮崎駿は“物語としてのアリエッティ”を見出したのかもしれない。







地下で息をしている小人たちは、単なるファンタジーではなく、自然の治癒力そのものだ。 彼らは人間の名声や権力とは無縁で、ただ静かに、必要なときにだけ働く。 その姿は、昔の精神科医アリエッティの名と重なり、 精神医療の古層が自然の側にあった時代を思い起こさせる。 地上では箱もの政策が進み、記念館が建ち、学会が内部崩壊しかかっているのに、 地下では自然の側に立つ小さな存在が、人間を護り続けている。 山川草木悉有仏性――自然のすべてに仏性が宿るという東洋の感覚は、 この地下の小人たちのイメージによって、読者の心に再び息を吹き返す。


地下の小人たちの治療は、地上の医療のように「症状を取り除く」ものではない。 彼らは、もっと古い、もっと深い、自然の側に立つ治癒の働きをしている。 それは、昔の精神科医アリエッティが行っていた治療の古層とも重なる。

小人たちは、地上の人間が気づかないほど微細な“ひずみ”を察知する。 そのひずみは、言語化される前の違和感、 まだ症状として現れていない心の揺らぎ、 あるいは、環境の中に潜む崩壊の予兆である。

彼らはそのひずみを、 地上に届かないほど静かな仕方で調整する。 それは、触れるのでも、治療するのでもなく、 ただ“流れを整える”という働きに近い。

地上の治療者が「治そう」と意図するのとは異なり、 小人たちは意図を持たない。 意図を持たないからこそ、自然の側に立つことができる。 意図を持たないからこそ、ひずみを無理に動かさず、 その人が本来持っている方向へ、そっと流れを戻す。

この働きは、山川草木悉有仏性という東洋の感覚と響き合う。 自然のすべてに仏性が宿るなら、 地下の小人たちは、その仏性がもっとも濃い場所で働いている存在だ。 彼らは、自然の側から人間を護る“治癒の古層”として息をしている。

地上では、箱もの政策が進み、記念館が建ち、学会が内部崩壊しかかっている。 しかし地下では、自然の側に立つ小さな存在が、 人間の名声や権力とは無縁の仕方で、 静かに治癒の流れを保ち続けている。


地下の小人たちは、人間がまだ言葉にできない“ひずみ”を察知する。 それは症状ではなく、兆しでもなく、 もっと手前にある、世界の流れがわずかに狂った瞬間の震えのようなものだ。

人間はその震えを感じても、 「のせいだ」と片づけてしまう。 しかし小人たちは、気のせいを気のせいとして扱わない。 そこに、自然の側から見た“本当の変化”が潜んでいることを知っているからだ。

彼らが察知するのは、 人間の心の揺らぎだけではない。 家の空気のわずかな濁り、 土の湿り方の変化、 水の流れの乱れ、 植物の葉の角度の違い、 そうした環境の微細な変化が、 人間の心身のひずみと連動していることを知っている。

小人たちは、世界のひずみを“音”として聞く。 それは人間には聞こえないほど低い音で、 地上の騒音にかき消されてしまうほど静かな響きだ。 しかし地下では、その音がはっきりと聞こえる。 だから彼らは、地上の人間が気づく前に、 ひずみの発生源を知ることができる。

この“聞こえてしまう”という感覚が、 当事者にとっては恐怖になる。 自分がまだ気づいていない揺らぎを、 誰かがすでに知っているという事実。 それは、心の奥底を覗かれているような感覚をもたらす。

しかし小人たちは、覗こうとしているわけではない。 ただ、自然の側に立っているだけだ。 自然の側に立つ者には、 人間の側からは見えないものが見えてしまう。 それが、治癒の古層の働きであり、 同時に“怖さ”の源でもある。


小人たちは、察知したひずみをすぐに動かすわけではない。 彼らの治癒は、地上の医療のように「原因を特定し、対処する」ものではない。 もっと古い、もっと静かな、自然の側に立つ治癒の働きである。

ひずみを整える第一段階は、 “ひずみがどこから来たかを見極める”ことだ。 それは人間の心から来るのか、 環境の乱れから来るのか、 あるいは、家や土地の記憶から来るのか。 小人たちは、その源を見極めるために、 ひずみの“音”を聴き続ける。

音が高ければ、心の揺らぎ。 音が低ければ、環境の乱れ。 音が途切れ途切れなら、土地の記憶。 音が二重に響くなら、複合的なひずみ。

この音の違いを聴き分けることが、 小人たちの治癒の第一歩である。

第二段階は、 “ひずみを無理に動かさない”ことだ。 人間はすぐに治そうとするが、 自然の側に立つ治癒は、動かすことをしない。 動かすと、ひずみはかえって深く沈み、 別の場所で大きな揺らぎを生むからだ。

小人たちは、ひずみの周囲にある“流れ”を整える。 流れが整えば、ひずみは自然に薄まり、 その人が本来持っている方向へ戻っていく。

第三段階は、 “ひずみが消えるのを待つ”ことである。 治癒は、働くのではなく、待つことによって起こる。 小人たちは、ひずみが薄まるまで、 ただ静かにその場に留まり続ける。 その沈黙こそが、治癒の古層の働きである。

このプロセスは、当事者にとっては恐怖になる。 自分がまだ気づいていない揺らぎを、 誰かがすでに知っていて、 しかもその揺らぎが“動かされずに整えられている”という事実。 それは、心の奥底をそっと触れられているような感覚をもたらす。

しかし小人たちは、触れようとしているわけではない。 ただ、自然の側に立っているだけだ。 自然の側に立つ者には、 人間の側からは見えないものが見えてしまう。 それが、治癒の古層の働きであり、 同時に“怖さ”の源でもある。


ひずみが整えられたあと、人間の側では静かな変化が起こる。 それは劇的な回復ではなく、 もっと微細で、もっと自然な、 “本来の流れが戻ってくる”という変化である。

まず、呼吸が変わる。 深く吸おうとしなくても、自然に息が入ってくる。 胸の奥にあった重さが、いつの間にか薄まっている。 これは、ひずみが動かされたのではなく、 流れが整ったことで、身体が本来のリズムを取り戻した証だ。

次に、視界が変わる。 同じ景色を見ているはずなのに、 色が少しだけ鮮やかに見える。 光が柔らかく感じられる。 これは、環境のひずみが薄まり、 世界との境界が再び自然に繋がった証である。

そして、心が変わる。 「もう少しだけ、生きてみよう」という感覚が、 静かに胸の奥に芽生える。 それは決意ではなく、意志でもなく、 ただ自然に湧いてくる“生の方向性”である。 小人たちは、この方向性を取り戻すために働いている。

治癒後の変化は、 当事者が「怖かった」と言った感覚の反対側にある。 察知されることは怖いが、 整えられた後には、 その怖さが静かな安心へと反転する。

アリエッティが瀕死の危機から生き延びたのも、 この治癒後の変化の象徴である。 彼女は、地上の崩壊のただ中で、 地下の治癒力によって“生きる方向”を取り戻した。 その変化が物語に希望をもたらしている。


アリエッティという名前は、単なる偶然ではない。 小人のアリエッティは、自然の側に立つ治癒力の象徴として描かれている。 そしてその名前は、昔の精神科医アリエッティと重なる。 この二重性は、治癒の古層がどこにあったのかを示している。





昔の精神科医アリエッティは、 症状を取り除くのではなく、 その人の“流れ”を整える治療を行っていた。 それは、地下の小人たちが行う治癒と同じである。

ひずみを察知し、 ひずみを動かさず、 流れを整え、 その人が本来持っている方向へ戻るのを待つ。

この治癒の古層は、 現代の精神医療が失ってしまった部分であり、 読者が自然治癒力を信じられない理由でもある。

しかしアリエッティの物語は、 この古層を“物語として可視化”している。 瀕死の危機にあった小人が、 地下の治癒力によって生きる方向を取り戻す。 その変化は、自然治癒力が働いた証として描かれている。

読者は、物語の中で起こった治癒後の変化を見て、 自然治癒力が“実在する働き”として理解できるようになる。 治癒は、症状が消えることではなく、 流れが戻ることである。 アリエッティの名前の二重性は、 その古層を静かに指し示している。




バベルの塔の崩壊は、外側が壊れたのではなく、 内部の意思疎通が断絶したことで起こった。 塔は立っているのに、内側が崩れている。 盛美園の建物が“壊れていないのに崩れている”ように見えるのは、 この構造と同じである。

地上では、名声のために神を利用しようとする人々が現れ、 言葉の一致が誤った方向へ加速し、 内部崩壊が静かに進む。 箱もの政策や記念館の乱立、 内部崩壊しかかっている学会の構造も、 このバベルの塔の崩壊と同じである。

しかし地下では、まったく逆のことが起きている。 小人たちは、ひずみを察知し、 ひずみを動かさず、 流れを整え、 その人が本来持っている方向へ戻るのを待つ。 これは、バベルの塔の崩壊構造の“反転”である。

地上では、言葉が乱れ、意思疎通が断絶し、崩壊が進む。 地下では、音を聴き、流れを整え、治癒が進む。

地上では、名声のために神が利用される。 地下では、自然の側に立つ小さな存在が、 意図を持たずに働く。

地上では、塔が立っているのに崩れている。 地下では、誰も見ていない場所で治癒が進んでいる。

この上下の構造は、 アリエッティという名前の二重性によって象徴化されている。 昔の精神科医アリエッティは、 地上の医療が失った“治癒の古層”を体現していた。 ジブリのアリエッティは、 その古層を地下の小人として物語化した。

つまり、 バベルの塔の崩壊構造(地上) × アリエッティの治癒構造(地下) この二つが、盛美園という建物の中で重なっている。

盛美園は壊れていない。 しかし内部では、意思疎通が断絶し、崩壊が進んでいる。 その崩壊の影の下で、 地下の小人たちが静かに治癒の流れを保ち続けている。

この構造こそが、 宮崎駿が盛美園に“バベルの塔の影”を見た理由であり、 アリエッティが瀕死の危機から生き延びる物語が生まれた源である。


盛美園の建物は、外側から見ると美しく整っている。 しかし内部に入ると、どこか奇妙な違和感がある。 空間がつながっているようでつながっていない。 視線が通るようで通らない。 音が響くようで響かない。 その構造は、バベルの塔の崩壊と驚くほど似ている。

バベルの塔は、外側が壊れたのではなく、 内部の意思疎通が断絶したことで崩壊した。 塔は立っているのに、内側が崩れている。 盛美園の建物が“壊れていないのに崩れている”ように見えるのは、 この構造と同じである。

盛美園の内部には、 本来つながるはずの空間が、微妙にずれて配置されている。 階段は上へ向かっているのに、 その先の空間が意図した方向へ開いていない。 廊下はまっすぐ伸びているのに、 その先で視線が不自然に遮られる。 部屋は広いのに、 その広さがどこか閉じている。

これらの構造的な“ずれ”は、 バベルの塔の内部崩壊と同じである。 言葉が乱れ、意思疎通が断絶し、 塔の内部が静かに崩れていったように、 盛美園の内部もまた、静かな崩壊の気配を漂わせている。

この崩壊は、 名声のために神を利用しようとする人々が現れた時代の影でもある。 建物は立っている。 しかし内部では、言葉が乱れ、意思疎通が断絶し、 構造的な崩壊が進んでいる。

盛美園は、 地上の崩壊(バベル)と地下の治癒(アリエッティ)が 同時に存在する“二重構造の塔”である。

地上では、塔が壊れていないのに崩れている。 地下では、小人たちが治癒の流れを保ち続けている。 この上下の構造が、盛美園という建築の中で重なっている。

宮崎駿が盛美園に“バベルの塔の影”を見たのは、 この二重構造があまりにも鮮烈だったからだ。 そしてその影の下で、 瀕死の小人アリエッティという物語が生まれた。




地上では、塔が壊れていないのに崩れている。 その最も典型的な例が、箱もの政策や記念館の乱立である。 建物は立っている。 しかし内部には中身がない。 意思疎通が断絶し、構造的な崩壊が静かに進んでいる。

学会もまた、この崩壊構造の中にある。 大会が無事に終了できるかどうか、 内部では緊張状態が続いていた。 日曜日には「2〜3日中に論文集をオンライン公開する」と宣言したが、 その公開はまだ行われていない。

これは単なる遅延ではない。 内部の意思疎通が断絶しているために、 外側の構造だけが先に動いてしまう“見切り発車”が続いている状態 である。

バベルの塔も同じだった。 外側は立派に建設されていくのに、 内部では言葉が乱れ、意思疎通が崩れ、 構造が静かに崩壊していった。

学会の「公開できない論文集」は、 塔の内部で言葉が乱れ、 一致しないまま建設が進んでしまう構造と同じである。

建物は立っている。 しかし内部は崩れている。 盛美園の建築構造と同じである。


しかし近代以降、学問は文献学に偏り、 土地・身体・自然の側から歴史を読む力を失った。

文献は塔である。 積み上げることができる。 体系化できる。 中央集権化できる。

しかし、 歴史的身体は塔ではない。 流れであり、地形であり、自然の側にある。

文献学は、 日本の国土が持つ「塔を拒む構造」を見落とした。 その結果、 塔を建てようとする発想だけが加速し、 内部崩壊が始まった。

学会の緊張状態、 見切り発車、 公開できない論文集―― これらは、文献学的な塔が内部から崩れている証拠である。

塔は立っている。 しかし内部は崩れている。

盛美園と同じである。



From the silent tower of Seibien, a fragile voice rises—Arrietty’s warning from within.




日本は元号からして


大化から始まるのでした。



大いに化け続ける





NHKも大河ドラマのネタ切れっぽいと噂される一方


文化的国策として


歴史に弱いことが指摘されています。




『君たちはどう生きるか』の哲学も




神話



この流れのなかにあるもので





臨床心理学から


この問題に取り組んだ


河合隼雄は人身御供となりました。



身近に潜む


研究倫理の問題に足をとられ


— 陰陽五行の象徴がカビだらけのうえに隠ぺいされていた。


植物人間に



 






国土はまさに神だったのですね。


 




だから見えないけど


歴史的身体に



砂漠の宗教との違い



バベルの塔を建築しようという発想がなかった。




時代は代わり


神のためではなく


自分たちの名声のために言葉を利用する人たちが現れ




バベルの塔同様


建物はくずれず


言葉だけが通じなくなった…




 



 


 


 




無意識は薬漬けに…(>_<)



 






ジブリが映し出す感官に映し出される現実



 






Where the wind of absolute nothingness touches history, even a misguided turn reveals the deeper life that sustains us.




 

本日は

 

 


 

小田 晋さんのお誕生日です。


 

 

 

島崎敏樹の著した

 

 


人間をあれこれの方法で分解し細分化するのではなく

人間学現象学の立場に立って全体をすくいあげ

その生きがいを浮かび上がらせることに長けていた。

 

 


 


感情の世界』を読み

 


 

 

精神科を目指しました。

 

 


認知行動療法や薬物療法に

— 直精・直美という安直で哲学のない世界

—— みんな知っているが語られないタブー

 

関心をもつわけではなく


 

 

 

 

 

精神病理学を軸に

 

 


刑事事件で起訴された人物の

精神鑑定を多数行った。

— つまり解離の研究者


 

 

 

 

社会精神医学・犯罪精神医学についての論文が多数あり

 

 

 


 

 

 


認知のありかたをみる。

 

習得に長い年月を要する。


 

 


 

 


言語ではなく

 

映されるイメージの世界


 

 

心理テストの達人としても知られています。

 

 


このあたりは

知識やテクニックというより

職人的名人芸の世界



 

 

 

 


 


「どう生きていこうか」


「どう生きていくのが正しいだろうか」と考えるのは


人間である証なのだそうです。



 


 吉野 源三郎


東京帝国大学文学部哲学科卒業の年に


志願兵として軍役についたのち


東京帝国大学図書館にて勤務中


非合法活動に関与したとして


治安維持法違反の廉で逮捕され


1年半を陸軍刑務所で過ごします。


哲学と夢の学究世界も



カルト・カント・ショーペンハウエル




 


戦時中は生死をさまよいながらです。



公職追放のあと


偉業を成し遂げるのも法則の1つ



 



吉野源三郎が


この本をつくるときに相談した


三木清も





— 感官に映ったイメージがイメージのまま伝承される。


—— 文献を読むのは字の数を数えているのにほぼ等しい。



おなじような問題にからめとられ


獄死しました。



京都学派は壊滅状態に陥り


中村雄二郎が蘇らせた。


— 的外れな批判によってというところが繰り返される世界



 


生きがいということですが


英雄とか偉人とかいわれている人々の中で


本当に尊敬が出来るのは


人類の進歩に役立った人だけで


非凡な事業のうち


真に価値のあるものは


ただこの流れに沿って行われた事業だけだそうです。


普遍的な法則があるわけですね。


 









昨日は


哲学会のロックスターのお友達に会いに行きました。



楽しすぎた🤭





 


本日は


その元祖のひとり


仏教界のスーパースターのお誕生日です。










伝説の人ですね。


さて


真言とは何でしょう?


辞書を引いても



 「いつわりのない真実の言葉(マントラ)」として


仏や菩薩の智慧と力をあらわす神聖な言葉を指し


唱えることで煩悩を除き


加護や悟りに近づくとされる。



その真意はつかめないし



仏の真実の「ことば」は


人間の言語活動では表現できない


この世界やさまざまな事象の深い意味


すなわち隠された秘密の意味を明らかにしているから


唱えることが奨励されている。


— 自分も言ってみる(聴こえる)



— 自分に帰依する。





バベルの塔のように


テクニックで安直に


答えをつかみに行くことが禁忌であることだけはわかります。



セルフの逆鱗に触れ解体の危機(>_<)



 


それは何も信者さんたち向けのお話ではなく



バベルの人々は


「同じ言葉、同じ表現」で完全に一致していた。


それを


神ではなく


「自分たちの名を上げる」ためにつかい


— また「散らされないように」


塔を建てようとしたので


神はその一致を


「危険な方向への団結」と見なし


言葉を混乱させた。


— 聖書が繰り返し批判する“高慢”の構造



宗教や哲学を源流とする


心理療法でも言えることですね。



言葉は記号ではない等と説明されている部分


— 頭で考えるのではない。


その背景にあるコンプレックス(複合体)ごと


— 主語でも述語でもなく


こころで読みます。


— イメージ


ブルースリーが強かったのも



原理を生きていたからで


司馬懿も箱庭してました。


— いつも馬と一緒



— 昔の軍師の常識