朝から仕事前にスタバ中です。イギリスでも7時過ぎにスタバ開いてるの知らなかった。いい場所見つけました😊




さて、前回お兄さんのこと書きましたが

今回は弟のこと。


👑 ヨーク公リチャード

(ロンドン塔当時9歳)



実は弟は本を書いていて 今回それが発見されたので お兄さんよりさらに細部まですっごい詳しいです!


気になる方は 咲熊さんの動画をどうぞ!本当に 立体的にこのヨーク公リチャードが見えますよ!

https://youtu.be/vDXnDzc_CjU?si=E6PXuR3B1VwHWhRD


そんなわけで

ちょっと他の資料も含め 簡単にまとめます。

それにしても 年号やコメントや、、、地名や全てはっきりくっきりって感じでわかってます。びっくりびっくりびっくり


というか 有名人による記録も多くて、、、

どうやって今までこんなの隠せたか?見つからなかったかな?って方が不思議という感じです指差し


じゃ 行きます 長いからささっと読んでください。(もしくは動画の方が楽しいです)


ロンドン塔へ行く(1483年6/16)

兄の戴冠式を見るためにロンドンとうへきた。

ロンドン塔で色々な大人の手に引き渡される

ブラッケンベリーやバッキンガム公などなど。

ホワイトタワーへ移る。兄弟別々に

(ライオンなどの動物がいた塔へ移動)

大人達(ノーフォーク公など)に励まされる!!


ロンドン塔をノーフォーク公とともに脱出

貧相なスカートを着せられるなど変装して船で脱失。

(ノーフォーク公の家計簿にも調達した記録が載っている)

セントキャサリン(ロンドン塔近くの波止場)から小さな船で海へ脱出。陰謀に利用されないように身を隠す。


🇫🇷フランスへ行き国内を転々とする

ブルーニュ・シュルメール(フランスの巡礼地)→パリ

→ シャルトル などなど (パリでイングランド人に見つかるまでは過ごした)


フランスからベルギーやオランダへ移動

ベルヘン オプ ゾーム はヨーク派が集まっていた。ベルギーでは音楽好きなために聖歌隊にも入っていた。


⭐️1485年リチャード3世がヘンリーチューダー(7世)に敗れる。その直前に ヘンリーが王子達は殺されたとデマを拡散していた。

チューダー朝開始!

この王子達がこそされた説は、チューダー朝が栄えている間は 誰も検証しなかったそう。


ヨーク公リチャード含む子供達が皆 嫡子(王位継承権あり)の立場に戻される

1486年 ヘンリー7世が王子達の姉のエリザベスと結婚する際に


リスボンへ行きポルトガル宮廷に迎えられる 1487年春(まもなく14歳!)

音楽好きのヨーク公リチャードがクラヴィコード(中世のピアノみたいな楽器)を引くことがヨーロッパで知られていた。ポルトガル宮廷の人たちも知っていた。


⭐️ストークフィールドの戦い

兄のエドワード5世が負ける。

(ヨーク公はこれをポルトガル宮殿で知った)


イングランドの母(エリザベス)に、自分が生きていることを伝える



(ノーフォーク公を送って)


H⭐️ ヘンリー7世:


1488-1491年 ベルギーを注視

(複数の大使を送る) 

ヘンリーはヨーク公の存在を知っていたのでは?!


リチャードはアイルランドへ移動

(ハプスブルグ家マクシミリアンの記録に残る)

※兄もアイルランドで即位を宣言していた。


リチャードはそこで何者であるかを認められ 王位継承者として歓迎される。

そしてそのように(王様として)扱われた!


フランス王シャルル8世がヘンリー7世と条約を結んでしまう!!


ブルゴーニュ侯爵夫人マーガレット(叔母)の元へ向い彼女に迎えられる

マーガレットが他の人への手紙で、ヨーク公リチャードが生きて会いに来てくれたことを喜ぶことが記されている。支援することを約束!1493年8月25日

[本人確認]
ちなみに母親も この叔母も リチャードの特別な体の特徴を伝えられていて それを確認して本人と断定した!(色々な傷跡)


ブルゴーニュ宮廷に滞在

フィリップ美公と一緒に過ごした。叔母の家にもよく行く。彼の部屋もあった。


この時にリチャードが本を書いた(記録させた)!📗

著者は👑「エドワード王の四番目の息子 継承者 ヨーク公リチャード」

文末「まもなく 生まれながらに与えられた権利を手に入れることができるだろう」

この本の写本が、「今回の王子追跡プロジェクト」で発見された!


ハプスブルグーブルゴーニュ王朝の指示と承認を受け


👑イングランドの王位継承者として名乗りを挙げた!


イングランドのヘンリー7世は「あれは偽物」とした。

(ちなみに当時はハプスブルグなどと比べるとまだまだイギリスは弱い田舎の国という感じ)

ヘンリー7世は 自分の息子をヨーク公にした!(後のヘンリー8世!)


リチャードはヘンリー7世を倒すべき軍備を整える

(マクシミリアン1世の記録)イングランド王の息子が

強力な艦隊を編成した!とされる。

(ブルゴーニュの年代記作家の記録では) 友人達の助けを借りて彼は 舟、人員、食料を得た。

支持者はオランダ総督など(金銭支援した記録あり)

別の歴史作家も1495年のヨーク公のオランダ滞在を記録している。


ヨーク公の艦隊がオランダに集結

ヘンリーのスパイ網で情報収集し、イングランド船を派遣した!


艦隊はゼーランドを出発(4月) オランダにて再編を行う

(オランダ会計帳簿に ヨーク公が船やその他のものを調達していた記録あり)

5月 叔母のマーガレットがヨーク公のために食料を準備した記録も


オランダ州知事や議会から、ヨーク公リチャードへの手紙も発見された。


⭐️ マクシミリアン1世: 息子のフィリップにヨーク公に大砲を送るように手紙も送っている。

⭐️叔母マーガレットやマクシミリアン、ローマ教皇にもリチャードの身分を明確にするように依頼の手紙を送っている。

⭐️マクシミリアンがヨーク公の正当性を訴える


ヨーク公イングランド上陸 (7月)

 →しかし敗北 しかしヨーク公逃げ伸びるぐすん


ヨーク公はスコットランド王(ジェームス4世)の支援を受けて軍備を立て直す

さらにその近親者と結婚


スコットランドで、エドワードの息子でありイングランド王「リチャード4世だ!と宣言!


スコットランド王とともにイングランドに侵攻!

→失敗!(また逃げ延びた)ぐすんぐすん


立て直し再度スコットランドからイングランドへ!(1947年7月3日) 9/7イングランド到着

リチャード4世南西から

スコットランド王北から

ヘンリー7世と対決!  → 敗北ぐすんぐすんぐすん


リチャード4世が捕えられ(10/5)

ロンドン塔に囚われ、処刑された。(11/23)  26歳だった。えーんえーんえーんえーんえーん


    

​英国では偽物の「パーキングウォーベックだった」とされているが、スペイン大使などが彼がリチャード本人だったことを認めている。リチャード7世に仕えた詩人も、彼がリチャードだけが知るようなことも全てを知っていたことを記録している、、、

😱こんなん本人じゃん!


ヘンリー7世が リチャード4世の王位継承に関するすべての書類を処分!!!(しかし王位継承書が一部残っていたのが見つかった!)


ちなみに この死刑の頃にヘンリー7世の息子アーサーが スペイン王女キャサリンと結婚予定となった。(当時のスペインは、イギリスとは比べ物にならないほどの強い国だった)




それにしても 記録がそれもものすごい有名人とか、、、、、。どうやってこれが明らかにならなかったのか不思議になります。


​チューダー朝の力 勝者が描く歴史

でも やっぱりヘンリー7世の始めたチューダー朝は

エリザベス1世まで排出し力が強く 当時は調べることや疑問は言えなかったようです。

チューダー朝が悪者になる真実は彼らには都合が悪いですからね。勝者に都合のいい歴史になるということかもしれません


他にも色々要因上がっていて これも面白い!あと ヘンリー8世の子孫に関する執念もなんか納得できた気がするので

次にこれを挙げます!


次で最後 続きます😊