さて

生きてロンドン塔を出た2人の王子達


足取りもかなり具体的です


弟王子 ヨーク公リチャード(左)

詳しい経緯を書き残していました。


さらに「消えた王子プロジェクト」チームは、

関係者の記録や家計簿などまで詳しく調べてていろいろなことがわかりました。


今回は先に動き出した兄王子(エドワード5世)行きます指差し

(右)


(PHOTOGRAPH BY ROYAL HOLLOWAY, UNIVERSITY OF LONDON, BRIDGEMAN IMAGES)



父王の死去からロンドン塔に行くまで

1483年 4/3 父王であるエドワード4世死去

  遺言で王位は息子に、摂政にリチャード3世を指名

  エドワード5世(お兄ちゃんに王位が引き継がれた)

1483年 5/8に戴冠式を行うことになり(予定)

        お兄ちゃんがロンドンへ。


しかし!!!

同年4/30 2人のお母さん エリザベス・ウッドウィルがリチャード3世に対して武装蜂起!(ええお父さんが摂政に指名したのに?!ガーンガーンガーン)

で 失敗😅ウェストミンスター寺院へ逃げる。

 ↓

戴冠式は6/22に延期なった。


👑兄エドワード5世 

5/19に戴冠式のためにロンドン塔へ

6/16 👑 弟ヨーク公リチャードが兄の戴冠式のため

   ウェストミンスター寺院を出てロンドン塔へ

   (市民に目撃されてる)

しかし!!

戴冠式は11月に延期ガーンガーン


6/22 学者により 父王がすでに結婚していたために、子供達は私生児であっての王位の正当性がないと訴えられる!(イギリスでは私生児は王位をもらえない)

司教ロバートがエドワード4世とエレノア(エリザベスより前のエドワードの恋人)を結婚させたと告白

※これまでの歴史の認識と違い この王子達は実は私生児というのは 当時かなり広く受け入れられていた。

 ↓

王子達に継承権はない

「リチャード3世が正当な王」とする根拠は正しい。

※この主張はこれまで考えられていたより 多くの人がそう考えていた。(逆にそうならないように 王子の母エリザベスが 王子の戴冠式を急いだとも言われる)

 ↓

これまで考えられていたような 

リチャードが王子を殺す必要なし!


そうなると 王子達は陰謀に利用されるなど 危険が多く ロンドン等で保護したという見方も。


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王子達がロンドン塔で目撃されている

ロンドン塔で2人の王子が遊んでいるのが目撃される

(フランス関係者の記事より) 2人が誘拐されそうになった事件発生 →王子2人はもっと ロンドン塔の中心部に移動された(多くの人からは見えにくい場所)


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7/22ごろ

海を知り尽くしたリチャード3世の側近2人が呼ばれる。

ノーフォーク公 ジョン・ハワード(リチャード3世の側近):ロンドンに呼ばれて、提督に任命される

ブランプトン(航海士):6億円以上を支給された。


そして

[ノーフォーク公の家の家計簿より] 

粗末な子供用の服 2人分が購入

→ これを着せて2人の王子を逃した。

※弟王子 (ヨーク公リチャード)の記載にも、女装させられたなどの詳しい記載あり。


側近2人がそれぞれに王子を乗せて イングランドを出港(王子を逃す)

1483年8/11ごろ

ブランクトンーーーー👑エドワード五世(兄王子)

ノーフォーク公ーーー👑ヨーク公リチャード(弟王子)

王子達は別れることになった



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👑エドワード5世(兄)

チャンネル諸島のジャージー島へ。

1484年12月6日リチャード3世の発行した通行状に「エドワード五世」の名前がある。

1485年3月9日 (エドワード14歳)

王の印章局の記録

私生児公にシャツや帽子等を渡すように

※他の衣服の記載では「エドワード公」と記載

 他にも「エドワード私生児」などで リチャード3世の時の記録にたびたび名前や支援が記載されている。


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1485年 

「ロンドン塔でリチャードが王子を殺した」という話をヘンリー7世が拡散



「リチャード3世は殺人を犯した」「暴君だ」と書簡を送ったていた!(フランスから)


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1485年8月 

ボズワースの戦い

ヘンリーチューダーがリチャード3世を倒した。

ノーフォーク公も死亡

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ヘンリー7世イングランド王になる(チューダー朝開始)


※しかし彼は傍流、、、

 ↓

そこで王子2人の姉 エリザベスオブヨーク と結婚

(王位の正当性を強化)

しかし、エリザベスが私生児では正当性が得られない!

1486年 ヘンリー7世が

エドワード4世(父王)の子は私生児ではなく正当な子供であるとした。


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しかし 問題が、、、

もし子供達が私生児ではないなら 

王になるべきなのはエドワード5世👑(ヘンリーよりもはるかに正当性が強い!

           ↓

ヘンリー7世は王子達の存在を認めるわけにはいかない


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エドワード5世(兄) 

チャンネル諸島からヨークシャーに渡り8月までアイルランドに亡命(アイルランドの年代記に記載されている)


勅許状発行(現存している) 1486年8月


この年を自身の初めの治世としている。(嫡子の立場に戻ったから)

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反乱軍を編成(エドワードを王位に!)

マーガレット(兄弟王子の叔母)

1487年春 反乱の準備を整えていた

真の王 エドワード5世を王位につけようと!!!


神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世

(ハプスブルグ家)も協力

マクシミリアン1世が、長槍400本を支援した領収書発見。「ブルゴーニュ公妃マーガレットの甥、エドワード王の息子へ、、、」と書かれている

↑宮廷の重要人物複数名によって作成されており、信ぴょう性が高い。


反乱軍

5/15 イングランドへ向けてミデルブルグを出発!

5/27   アイルランドのダブリンにある

クライストチャーチ大聖堂で

青年がイングランドおよびアイルランドの王として即位(戴冠)


反乱軍や民衆は彼(ダブリン王)を

「エドワード王」と読んでいた!

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その頃のイングランド、、、

※この頃 ロンドンでは、、、

エリザベス ウッドウィルの財産が没収された。
特に理由は見つかっていない。
※息子であるエドワード5世を財政支援しないためか?


11月ごろよりエドワード王の噂が広がる

(エドワードは詐欺師と否定)


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ストーク・フィールドの戦い

(1486年6月16日)

ヘンリー7世の国王軍✖️エドワード5世のヨーク派

 ↓

しかし ヘンリー7世の勝利


(ヨーク派のリンカーン伯が、シムネルという少年を ウォリック伯エドワードの名を語らせ 担ぎ上げたとされている。

しかし、、、シムネルは 捕まった後 投獄されることもなく その後宮中の厨房で働いた。

シムネルがエドワード5世ならそんなことはしないし なぜ処分されなかったのか? →シムネルはエドワード5世の存在を隠すために利用されたのでは?


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エドワード5世の足跡はここで消える

(ここで死亡したとも言われる。)

※ヘンリー7世はアイルランドのエドワード5世の記録を抹消させた。チームが一部残った資料を今回の調査で発見。


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(この先は真偽はわからないが)

イングランドで南西部デヴォン州の教会に

エドワード5世のステンドグラスや全身像がある。


反転すると その教会を建てた人の像には反転した字で 「KING」と書かれている。

この人が エドワード5世だったのではないかという話も、、、(彼は口が聞けないように傷つけられていた)





とりあえず 王子達は生きてロンドン塔でたみたいでよかったですね。お兄さんは戦いで死んでしまったのか、、、それとも地方で生き延びたのか、、、願わくば 幸せを得てて欲しいですね。それにしても日にちとかまで含め かなり具体的でびっくりですよね!

重要な人物の記録も多くて、、、意外でした。

(弟の足跡はもっとより有名人支援やの示す根拠が大きいです)


続きます

(次は より記録を残してる弟王子)