人は極めてつらい出来事に襲われると

 

そのショックで前後の出来事を覚えられなくなったり

 

あるいはそのことにとらわれるあまり

 

ある程度の期間他の物事を考えることもできず

 

いつもの自分の習慣も行えなくなってしまいます

 

こうなると今現在の自分と過去の自分との間に断絶が生まれ

 

知らず知らずのうちに昔の記憶の一部を心の奥底に忘れてしまったり

 

あるいは意図的に目をそむけるようになることがあります

 

これはとても悲しいことです

 

人を人として成立させている要素は

 

その人間にとっての基本的思考回路と

 

これまでの記憶がほとんどだからです

 

そのため、記憶を失ってしまうということは

 

人がまさに自分自身の一部を失うことと大差ありません

 

手足をもがれるのと同じことです

 

ですが、それらの記憶は

 

その記憶に関連する大切な人や物を目にした際

 

ふと蘇ることがあります

 

自分の記憶を、自分の外にある何かがよみがえらせてくれるのです

 

そのような人や物は

 

ゆえにその人にとって

 

自分の一部にも等しい存在なのです

過去数ヶ月でも

 

数年でもいいですが

 

過去のある程度の時間

 

自分なりに努力したにもかかわらず

 

何の結果も出すことができなかったとき

 

人は

 

自分の過去に意味はなかった

 

自分は時間を無駄にしてしまった

 

と考えることがあります

 

ですが、この考え方は根本的に無意味です

 

時間の価値は

 

その時間をすごしたということのみにあるのです

 

例え過去の努力が

 

今の自分の幸福につながっていなくても

 

それは今の自分が幸福ではない、あるいは幸福を感じていないだけであって

 

過去の自分は、過去という時間の中にしかいないのです

 

逆に、過去の努力に意味があった

 

過去の自分をほめてあげたいと感じるときであっても

 

やはり過去の自分は過去という時間の中にしかいません

 

自分の時間に真に価値を与えるには

 

今まさに生きているこの瞬間を

 

映像や日記などの形で残すことでしか保存できません

 

この行為さえできてしまえば

 

たとえ過去の自分の努力が今の自分の幸福につながっていなくても

 

過去という時間を無駄にしたと

 

人は気に病む必要はないのです

人間社会には貧富の差があり

 

いろいろな人がこれを是正しようと活動を続けていますが

 

今のところ解消されきるには至っていません

 

富ではなく時間なら平等という人もいますが

 

貧しければ

 

より多くの時間を労働に費やさねばならず

 

その人間にとって自由である

 

真の時間は少なくなりますので

 

やはりここでも格差は生じます

 

ですが、人生の中で心に刻んだ記憶だけは

 

すべての人間において平等なのです

 

記憶は

 

その材料になる時間が多ければ多く大きくなるわけではありません

 

裕福で毎日自由に暮らせる人の記憶よりも

 

一日数時間しか自由がない人の記憶が少ないというわけではないのです

 

仮に一日数時間しか自由がなくとも

 

その中で

 

自分の時間に価値を持たせるための習慣を欠かさず続けたり

 

日記をつけて瞬間瞬間の感情を記録していけば

 

その人間の記憶は数十倍に豊かなものとなっていきます

ある人が

 

youtubeに動画をアップロードし

 

自分の情報を残したとします

 

この情報は

 

誰か別の人が目で見ることにより

 

情報以上の意味合いを有します

 

映像という情報自体は

 

生物学でいうところのDNAにすぎず

 

そのDNAが情報以上の機能を発揮するためには

 

これを収める細胞という場が必要です

 

通用の生き物は

 

DNAと細胞とを常にセットで持っていますので

 

DNAがむき出しで放置された場合これが再利用されるかどうかを

 

気にやむ必要はありません

 

そういう意味では映像とは

 

ウィルスに近いです

 

ウィルスはDNAが簡単な殻に閉じ込められた存在であり

 

今のところ生き物ではないと考えられています

 

ですがウィルスは他の生物の細胞に侵入すると

 

その細胞が持っている機能と物質とを使って

 

自分のコピーを作らせます

 

このときウィルスのDNA情報は

 

物的世界と相互作用しますので

 

情報以上の機能を有しています

 

ですがウィルスの目的は何でしょうか

 

自分のコピーを残すことです

 

なぜコピーを残す必要があるのでしょうか

 

自分たちの分身の全滅を防ぐためです

 

ならば動画は

 

絶対に消えてなくならないとほぼ断言できる

 

例えばyoutubeのようなサイトのサーバーに保存されてしまえば

 

仮に人に見られ

 

物的世界と相互作用することがなかろうと

 

その目的は達しているわけです

 

よって再生数0の動画にも

 

保存されている時点で価値はあります

 

地球上の生物が

 

どうやら子孫を残すことのためだけに生き

 

生きさせられている様だと言う考え方が

 

生物学にはあります

 

もし自分の人生が

 

子供を生み育てるためだけにあるのだといわれれば

 

多くの人はそれだけではないと考えることでしょう

 

人は生きていれば幸せを感じることもありますが

 

苦痛を覚えることもあります

 

生きて体を有していると

 

その体と命を守るためのシグナルとして

 

痛みや苦しみは発動されるわけですが

 

それを感じさせられる側としては

 

そのようなことは知ったことではありません

 

子供を生み育てるためのマシーンとしてこの世に放り出され

 

命があるからと生きている限り苦痛に苛まれていては

 

生きとし生けるものはあまりにもかわいそうなわけです

 

ここで生物学には同時に

 

生き物というものは

 

時間と戦う存在であるという考え方があります

 

時間がたてばあらゆる物体は劣化し、崩壊に至ります

 

生き物にも寿命があり、その体は朽ち果ててしまいます

 

ですが遺伝子という情報を媒介として

 

子孫を新たに作れば

 

時間による劣化の影響を回避しながら

 

オリジナルの面影(情報)を残していけるというわけです

 

しかし、ここで人間は、文字という情報、そして映像という情報を手に入れました

 

ここで、この武器を使わない手立てはないわけです

 

人は、文字、そして映像という

 

せっかく手にしたこの道具を用いて

 

自分の情報を正確に記録していくべきでしょう

 

そしてそれは、数億年単位での安定性が約束された

 

データーベースに保管されるべきでしょう

 

これにより生き物は時間という怪物から

 

最終的な勝利を手に入れることができるようになるのです

野生動物のドキュメンタリー番組を見ていて

 

よく出てくることなのですが

 

生き物というのは結局

 

自分の子孫を残すためだけに存在しているという考え方があります

 

これはある意味正しく

 

もし生き物が

 

自分の子孫を残すことにまったく興味がないものばかりであれば

 

生き物などとっくの昔に滅びているわけです

 

野性の世界の厳しさを考えればわかるとおり

 

生き物というのは

 

生きていること自体が難しく

 

まして子孫を残すとなるともっと難しいわけですから

 

これはもうその目的だけに全エネルギーを注ぎ込むような性質を持ったものだけが

 

今日まで生き残ってきたわけです

 

そのため

 

人の幸せとは?と考えたときに

 

お金だとか

 

幸せな家庭だとかを

 

あげる人が多いわけですが

 

それも結局のところは

 

より確実に自分の子孫を残せるかどうかということにつながっているわけです

 

しかし

 

最近は家庭も子供も持ちたくないという人間も増えています

 

その場合その人間にとっての幸せとは何でしょうか

 

また

 

そもそも自分の子供を残すこと自体

 

冷静に考えれば

 

一人一人の人間にとってなぜ幸せであると断言できるのでしょうか

 

仮に子供を残しても

 

その子供が次世代で子供を残さなければ

 

結局のところ何も残らないのです

 

ですが人は

 

遺伝子ではなく

 

自分自身の思考や精神を

 

情報の形で残すことができます

 

電子の形に変換した自分の情報は

 

今後何万年後にも何億年後にも残っていく余地があります

 

人は遺伝子を残さなければならないという自然界から課せられた呪縛を逃れて

 

情報を通じて

 

より自由で幸せな存在になりかわっていくことができるのです

人間の精神も遺伝します

 

というと、ある親から生まれた子は

 

親の精神を受け継ぐ打とか

 

そういうことかと思われるかもしれませんが

 

そうではありません

 

確かに親子は性格が似ていることもありますが

 

間逆ということもありえます

 

では、人の精神が遺伝するとはどういうことなのでしょうか

 

遺伝とは、遺し伝えるという意味です

 

長年続いているアニメのキャラクターについて考えてみましょう

 

サザエさんやルパン三世の声優は途中で変わり

 

新しい声優が役を勤めています

 

ですが新しい声優は

 

できる限り努力して

 

元の声優が行っていた演技に近い声を出そうとします

 

そのとき新しい声優は、自分の中に担当するキャラクターの精神

 

あるいは元の声優が演技を行っていたときの精神を宿らせようとします

 

そうすることでようやく近い演技はできるのです

 

このようにして、人の精神も遺伝します

ニコニコ生放送をしている人間はyoutuberより損をします

 

配信を行う人間は

 

自分の時間を切り裂いてその行為に当てますが

 

それは生放送が行われている時間しか機能を有しません

 

ですが、同じ内容を録画して

 

youtubeにアップロードするとどうでしょう

 

その動画が存在する限り

 

見られる可能性

 

その再生回数

 

再生される時期

 

それらは無限大となります

 

ある人間が切り売りした自らの時間が

 

今後数十年単位で機能していく可能性があるのです

 

そのとき動画を撮影した瞬間のyoutuberは

 

無限の時を生きる己の分身を獲得することとなります

最近は

 

ツイキャスなどでストリーミング配信を行う人が増えてきていますが

 

そのなかで

 

コラボ配信と呼ばれるものがあります

 

二人以上の配信者が

 

それぞれ自分のカメラを持ちつつ

 

ともにいるところを

 

それぞれ撮影しあう行為です

 

このとき

 

その二つ以上の配信を同時に見ていると

 

お互いまったく同じ現象を撮影しているにもかかわらず

 

カメラの画質だったり

 

とっているアングルだったりの違いにより

 

その現象が

 

少し違って見えることがあります

 

視点が違えば世界も違うのです

 

二人の配信者はまったく違う世界に生きています

 

ただ同じ時間と同じ場所に存在しているために

 

コミュニケーションという行為が可能であり

 

あるいは可能であると錯覚しているだけなのです

 

では逆に

 

ある二人の人間が

 

ビデオレターを使って

 

時間を越えて会話できたとします

 

その二人の人間は

 

お互いのことをよく理解できているので

 

自分が何を言えば

 

相手は何を言い返してくると完全に予想できるとします

 

そのため

 

10年前にある人が残したビデオレターを相手に

 

もう片方は会話をすることができたとします

 

そしてもうひとつのケース

 

ある同じ時間と場所に

 

二人の人間がおり

 

この人間はお互いまったく異なる思考と価値観を持ち

 

相手のことをお互いさして好んでも折らず

 

そのため無視しあい

 

まったくコミュニケーションをとらなかったとします

 

この場合

 

どちらのほうが同じ世界に存在しているといえるのでしょうか

アメリカのドキュメンタリー専門チャンネルには

 

骨董店の店主の商売だったり

 

古物の修理業を営む経営者だったり

 

金の採掘に明け暮れる挑戦者だったりの

 

仕事や

 

人生そのものをドキュメンタリー化して

 

放映しているところがあります

 

本人としては

 

なにげない日常だったり

 

思い返したくもない苦労の連続であるかもしれませんが

 

見ている側には

 

それは作品に感じられます

 

作品である時点で

 

仮にそれが本人にとって苦渋に満ち溢れていたり

 

あるいは無意味に感じられるものであっても

 

価値を与えることができるのです

 

自分の人生に意義を見出せない人間は

 

スマホのカメラで

 

自分の一日や

 

人生をドキュメンタリー化してみましょう

 

そしてそれをyoutubeで公開したり

 

親類縁者と見せ合うことで

 

その人生はこれまでよりずっと輝きを増していきます