年末から読みたいと思っていたこの本をようやく読むことができました。
ひとこと、素晴らしい。
「リスク回避至上主義」「縦割分断管轄徹底主義」の日本において、こんな場所が本当に存在してくれるなら、まだまだ、希望が持てる、と強く感じました。
わたしは前職でヨーロッパの子ども文化に関わる仕事をしていたので、ヨーロッパにはいくつか、少し似通った施設が実現されていることを知っていました。
しかし、この本の舞台となる「また明日」は、もっともっと素晴らしい。しかも、いたって日本的に、本来あるべき姿を具現化されています。
保育所、認知症デイホーム、地域の寄り合い所3つの機能を合わせ持つ施設、「また明日」。具体的にどんな場所で、どんなことが日々起きているかについては、私が借りてきた言葉でいくら語ってもウサン臭くなってしまうので、ぜひ読んでいただきたいです。
日本の「福祉」という言葉から立ち上がる、どこかウェットなニュアンスと異なる、カラッとしてるのに柔らかく暖かい世界がそこにあります。考えさせられます。
こんな場所に、自分が子どもの頃、出会いたかった。もしくは、うちの子の住む街にあればいいのに。
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著者の太田さんは、学術集会などで何回かご挨拶やお話をさせていただいてましたが、昨年の夏くらいに、明星大学の星山先生に「会わせたい人がいる」とお引き合わせいただき、会食の場を設けていただき、本気で話し込んだのが深く話した最初でした。
しかし、その「最初」が非常に深い話に展開する場で、終電を逃しそうなほど話し込み、わたしはすっかり、太田さんの考え方に共感してしまいました。
ですのでこのご著書も迷いなく発売前に予約して購入していたのですが、なかなかバタバタしていて読めなかったのです。(その他の様々なルポや記事はメールで共有していただいたりして、沢山読みました)
太田さんのこの本での表現は、いたって平易。しかし「平易」に書くことはすなわち「容易」ではなく、かえって繊細な言葉選びが必要で、執筆されるの大変だったろうな、と想像します。
そしてわたしは「また明日」で日々起きる本の内容だけでなく、太田さんの文章表現にもすっかり感銘を受けてしまいました。時々、ピリリと本質を端的につく。
“安心・安全を理由に、私たちは人を分けてきた。知らない人は怖い人になった。人を分ける一番の理由は管理をしやすいから。効率を求めて私たちは分けられてきた。そして全ては自己責任と言われるようになった。みんな、自分のことだけしかしなくなった。社会に歪みが生まれている。
偏った「安心・安全」と引き換えに、私たちは何を犠牲にしてきたのだろうか。「全ての人がよりよく生きること」を犠牲にしてきたことにそろそろ気づくべき時だ。”
この作品の主役である、眞希さん和道さんの言葉も、太田さんの文章を通して、生き生きと語られます。
道路と敷地の境に確固たる壁や門はなく、誰でも自由に出入りできる。散歩の途中のお年寄りがふらりと立ち寄って、お茶を飲みながらおしゃべりを楽しむこともできるし、目の前の公園で遊んでいる小学生がトイレを借りにくることもある。そんな、現代風(施設を閉ざす)とは正反対の、あまりにもオープンに誰でも出入りできる施設のセキュリティについて
“閉じれば閉じるほど、なんとかして入ってこようとする人がいるんじゃないかな。うちは、どこから入ればいいかわからないくらい開いてますし、こちらから声もかける。悪いことをしようと企んでいる人はかえって入りづらいのかもしれませんね”
「昔は良かった」と簡単に片付けられる懐古主義について
“昔は良かったと言われることもよくありますが、私たちが子どものころが今より良かったかというと、そうではないところがたくさんあります。受動喫煙は当たり前、性犯罪被害者やLGBTへの理解もなかった。障がいがある人への差別だって多かった。それに比べれば今は随分多様な人が生きやすい時代になったと思います。外国からもたくさんの人がやってくるようになった。この時代にお互いの違いを認め合いながらもう一度つながり直すことで、より住みやすい社会ができるはずです。”
と、どこをとっても素晴らしいのです。
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私が個人的に注目したのは、第二章のタイトル、これはこの本を通底して流れる音楽のような言葉、「分けないことで分かること」でした。
この言葉のもつ本質と、そして面白み。
「分ける」と「分かる」は、もとは由来を同じくする言葉です。辞書的には「混沌とした物事がきちんと分け離されると、明確になることから。」
例えば、漠然と「花」として眺めていたものが、言葉によって「おしべ、めしべ、子房、花弁、がく、茎、葉、根」などに「分けられる」ことにより、漠然としていたものがくっきり「分かる」
私は進化多様性生物学の研究をしていた頃に人体解剖も学んだのですが、解剖とはまさに「切り分けて、名付けて、分かる」を追及する世界。科学の、というか人間活動の、原初的な、しかし本質的な探求です。
「LGBTQ」という言葉も、それ以前の、もっと原始的で野蛮な言葉が定義していた曖昧な世界から、もっと確かな、我々が「取り扱える」具体的な概念を「切り分けて」くれたため、我々の人間理解(分かること)も進みました。
しかし、「分けること」は確かに必要であり、人間活動の本質であるとも言えますが、現代社会はそれが進みすぎて、むしろ、分断や差別、もしくは無関心を増殖させているのかもしれません。
私の息子は発達障害を持っており、いくつかの診断名がつけられています。診断名の定義と診断は「理解の第一歩」ではありますが、同時に「そうでない子」と「そうである子」を分けることでもあり、一面では「単なるラベリングによる差別の助長」という恐怖的な側面も持っています。
例えば我が子が療育に通うときに乗るバスには大きなウサギの絵が描かれており、子どもたちには「ウサギさんバス」と呼ばれています。しかし、地域の大人たちにはそれが「普通の子とは異なる特殊な子が乗る」バスとして認知されています。
妻はあるとき、自分たちがバスに乗り込もうと列を待っていたときに、通りがかりの親子のお子さんが「あ!ウサギさんの可愛いバスだ!」と声に出したとき、とっさにその親が「よしなさい、あれはキ○ガイの子の乗るバスだから近づくのやめなさい」と注意しているのを聞いて、それはそれは立ち上がれないほどの大変なショックを受けたそうです。
このように、単なる言葉の定義による「ラベリング」は、差別を助長する側面があります。
かと言って、私たちが日々「良かれと思ってかけられる」親切な言葉、「子どもなんてみんな一緒だよ」「心配しすぎだよ」「他の子と変わらないじゃん」という声がけは、これはこれである種、リテラシーの低さ、人間理解の浅さがもつ野蛮さ、残酷さを孕んでいます。
「分けない(名付けない、理解しない)」ことそのものが良いのではない、とわたしは思います。
しっかり分けて、理解と配慮を深め、その上で、「分けない(存在として同価値のものと位置付け分断しない)」ことをしていく。その統合の過程において、さらに、「分かること(人間理解)」が深まる。
これらのことは、私が本来考えていたことでもあり、本作品全編に描かれていることとも通じている、と勝手ながら感じました。
ついつい長くなりました。「また明日」は、いつか、ぜひ、訪問させていただきたい場所です。