とっておきの日常
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コーヒーが熱帯雨林を劇的に蘇らせる。

実験を進めるうちに、例えば雨で流れたコーヒーパルプが河川に流れ込んで水質に影響を与えるなどの弊害も見つかるかもしれない。けれど、なんとかそれらも克服して、ソリューションとなって欲しい。

多種多様な樹木が豪快に生い茂り、多種多様な動物が繁栄する、熱帯雨林の再生。人間の地道な努力だけではその再生はかなり難しいので。

以下、記事引用。

“コーヒーの生産過程で取り除かれるコーヒーパルプが、コスタリカの熱帯雨林をよみがえらせるのに役立つことが実験で明らかになった。”

“2つの区画はともに、コーヒー栽培や牧牛に長く利用された後に放棄された土地で、外来種の牧草が生い茂っていた。放牧されている動物が食べ続けなければ、高さ5メートル近くまで成長する草で、もともとあった熱帯雨林の再生を妨げていた。

 実験開始から2年後、コーヒーの力を借りた区画で劇的な改善が見られた。区画の80%が若い木々に覆われ、すでに樹高4.5メートルに達している木もあった。もう一方は、区画の20%にしか木が生えていなかった。さらに、コーヒーで勢い付いた区画は樹高がもう一方の平均4倍に達し、土壌は栄養分に富み、外来の草も排除されていた。”

“コーヒー生産者にとって持続可能な廃棄物の処理方法となるだけでなく、破壊された森林を取り戻すスピードを速めることができる”

“「まさにウィンウィンの状況です」とコール氏は話す。「熱帯林の再生には何百年もかかります。わずか2年で(これほど)高い木ができるのは本当に驚くべきことです」”

“巨大なコーヒー産業で発生する廃棄物に注目したことがきっかけだ。余ったコーヒーパルプを何らかの形で有効活用できれば、コーヒー生産者、地主、環境保護団体など、すべての関係者に恩恵があるのではないかとザハウィ氏とコール氏は考えた。”

“「本来、処理コストがかかる大量の廃棄物ですが、無料で提供してもらっています」とコール氏は話す。廃棄物を堆肥化して保管する代わりに、研究チームはダンプカーのレンタル料金だけを支払い、パルプを輸送した。 

まず、牧草地にコーヒーパルプを約50センチの厚さで敷き詰める。すると外来の牧草が窒息し、分解される。「基本的には、草の根と地下茎をすべて殺します」とザハウィ氏は説明する。

 ザハウィ氏とコール氏は、分解した草が栄養豊富なコーヒーの層と混ざり、肥えた土壌になることを発見した。肥えた土壌に虫が集まり、その虫に鳥が引き寄せられ、風とともに、鳥が区画内に種を落とす。

 そして、森が再生する。

「最初の2~3年は汚らしく見えますが、その後、新しい植物が爆発的に生えてきます」とザハウィ氏は話す。「土壌の養分が非常に豊富なため、植物は急激に成長します」

 土地をビニールシートで覆う方法でも、草を殺すことはできる。しかし、「今度はプラスチック廃棄物が出ます」とザハウィ氏は話す。しかも、新しい植物が育つためには、肥えた土壌を運んでくる必要がある。

「うまくいくかどうか半信半疑でした。牧草がさらに生い茂るだけかもしれないとも思っていました」。代わりに、新しい熱帯雨林が生まれつつある。”


「障害」は個人ではなく社会の側に立ち上がってくるもの。

“「メガネが開発されるまでは、目の悪い人は障害者だった。今やメガネは個性。たったひとりのニーズが、新しいデザインと『美』を生み出しました。これはいわゆる社会貢献ではなく、新しいビジネスの第一歩。その結果として、世の中の役に立てばいい」。”

ユナイテッドアローズとのこの取り組みカッコいいですね。

障害者の「障害」は「個人の側」にあるのではなく、その個人と社会との接点において、「社会の側」に立ち上がってくるもの、という学びが、私の基本的な原動力です。

障害=バリア=難しさを、社会の側が解消させてしまえば、少なくともその点においてはその人が感じていた「障害」も解消する。

だから、障害の「害」という字が個人の尊厳を毀損するから「障がい」と呼びましょう、という近年の風潮は「難しさの解消の必要性」の視野を歪めてしまうという点から私は個人的に賛同できないのです。

そもそも障害は社会の側に存在するのだから、それをしっかり見据えて、言葉の表記だけ変えるんじゃなくて、社会のデザインを変えていきましょうよ、と言いたい。

RPAという開発領域で、これまで視覚障害のエンジニアが操作できなかったUI(ユーザーインターフェース)を構築し直して、操作できるようにして、その「UI側に立ち上がっている障害」を解消してしまおう、という取り組みにチームの重要ミッションとして優先的に挑んできたのも、個人としてはそういう考え方の具現化のひとつなのです。



【人間理解の深化と価値観の更新】

ある方が失言を元に辞任されて、その後任の方が正式な就任前に記者に話されたことがまた物議を醸し、2021213日現在の情報では一転して「発言の責任をとって」辞退宣言をされたとのこと。その際のご発言も「もう口を開くと問題になるから何も話さない」というような主旨で残念でしたが、私は個人的にはこの組織そのものについては強い関心はないので、そこは置いておいて。


普通当たり前と思うことも、今はセクハラ、パワハラという時代だから。それが十分理解されないまま、ここまできている。そういうことへの問題提起は、今度のことでは大きかった。そういうことがきっかけで、日本の女性差別が大きく変化していける。」


という談話がありました。一生懸命、言葉を選んでお話しされてるのはわかるけれど、やはり根本的なところが理解できていない人たちの集団の中にいらっしゃるから、どうしても問題の中心からそれた発言になってしまう、という気がしました。


これは「年齢的」な問題とも(脳の思考の硬直化という点ではその要素もあるけれど)言い切れなくて、日本社会の「構造的」な問題なのだな、と思います。


本質的には「人間理解の深化」と「それに伴う価値観の更新」の問題、それをできる構造に、自らをとりまく社会や環境がなっているか、という問題、と感じるのです。


ご高齢でも自らアンテナを張って、お互いに知見を共有しあって、自分より若い人や社会的マイノリティの人たちにも積極的に教えを乞うて、自分の価値観を更新していく人は沢山います。それは社会構造というよりその人個人の姿勢、意識に依拠している。


一方で、40代、50代であっても、(私の経験上の最年少では30代)、一定の地位にあるとすでに自らの学びと更新を放棄して「私は昭和の(もしくは古いタイプの)人間ですから」と言って憚りなく、開き直ってふんぞり返っている人も山ほどいる。


経験からの判断の方に自分のアイデンティティの軸足が強くあり、自分は本当は正しくて、社会の人間理解の深化によって更新された価値観のほうが本当はおかしい、とどこかで思っている。


そういう構造の方が、日本社会ではまだ支配的だと感じます。


例えば、視覚障害者の同僚の前で平気で「メラ判」(確認せずに判子を押すこと)などと言ってしまい、指摘されると「うるさい世の中だな」と思ってしまうような支配階層が許される社会構造。


は当たり前と思ってしまっていたことも、社会の人間理解が進み、価値観が更新されていくにしたがってセクハラ、パワハラであったのだということが分かった。人間は何歳になっても自らその姿勢を放棄しなければ学び続けることができるのだから、率先して学び、教えを受け、価値観を更新して周囲の規範となりたい。日本の差別意識を変えていくことに貢献したい」


くらいのことをお話しいただければ、良かっなあ。

【プロフェッショナルを謳う人】

一年前にFacebookに載せていた記事で、一年ぶりに読み返してみると、自省の意味でもそれなりに重要中ことが書いてあるように感じましたので、この場所にも記録しておきます。

おじさんを一人論破し続けたら、相手を貧血にさせてしまった話。

まず、世の中には、取引先にはやたらと柔和なのに、自分の部下には無意味にキツく当たる人がいる。それが取引先の前でもである。

仕事の取引ではなくても、例えば、駅前にすごく美味しいケーキ屋さんがあり、来店客にもとても親切なのに、奥の厨房(?)に入った途端、スタッフに罵声を浴びせるオーナーがいた。偶然一度だけだと思ったら、二度三度と同じ場面を目にしたので、私はそのお店に二度と行かなくなった。

そういう表裏のある人を軽蔑してしまう。

また、無意味に歯の浮くような大袈裟な(心の入ってない)お世辞を連発する人もいる。こちらがクライアントである場合。そういう人には、私は即座に「そういう情報は今後1ミリも必要ないので、控えてください」と言ってしまう。無駄だし、心地よいどころか不快感でいっぱいになるからだ。

心で感じたことを、1.5倍くらいに膨らませて伝える「お世辞」は不快ではない。そこに心があるから。私も、特に自分の部下(上司ではなく)に対しては、「イイね」と思ったことは、気持ち1.8倍くらいで伝えるようにしている。そこに本当に感じた心があれば、伝え方は自分のちょうどいいよりも1.8倍くらい、大袈裟かな、と思うくらいはっきりと伝えるくらいで、相手には「ちょうどよく嬉しい」くらいに伝わる。

その流れでいうと、私は上記のケーキ屋のオーナーとは逆で、自分の部下に対しては、ミスに対する指摘と改善要求はしても、その人を責めることはしないように心がけている。「何でこんなことしたの?」という過去に対する言及は全く不毛だと思う。むしろ、「どうすれば次繰り返さないと思う?」とその人の未来に自分で仮説を立ててもらい、それを実行してもらう。うまく行かなければもう一度自分で工夫を仮説立て、という方がよほど効果を生むし、お互い健全に仕事を運べる。

部下が対外的にミスをしたときには、部下のせいにはせずに、全て自分のせいであると取引先に真っ直ぐに謝罪する。「私からの部下への指導不足が…」などと言って、遠回しに部下の至らなさに原因を帰結させるのは嫌いで、「私の指示と判断が不適切であったためこのようなことが起きました」と全て自分の責任であると明言する。

逆に言えば、上司が部下のために出来ることといえば、たかだかそれくらいである。のびのび挑戦して失敗しても責められない、というムードがチーム内に広がれば、チームは活気付き、結局、全体のパフォーマンスと成果が上がる。割とシンプルなことだけれど、それをしない人が多い。

先日も「私の部下が至りませんで、しっかり申し付けて指導しておきますので」と言われた。いやいや、お前だろ、何部下のせいにしてんの、と私は思う。

あと、こちら側がお金を払って発注している取引先でも、相手の担当者がまだその業務に未熟で不慣れでありそうな場合は、ミスがあってもなるべく手助けして、一緒に解決する。一見余計なお世話だけれど、そのように関わると、相手の担当者が成長してくれ、モチベーションもアップして、結果として自分が受け取るアウトプットの質が高まるので、これはお人好しではなく、ビジネス上の実利の話だと思う。

クライアントだからと言って、立場の強さにものを言わせてそういう担当者をむやみに怒鳴る人も嫌いである。

さて、本題。

取引先で、ベテランで「自分はプロフェッショナルである」という自負にまみれた人がいる。とくに50代以上のシニア。もしくは、ITや外資系のバリバリの若手・中堅。

こちらが素人だと思うのか「教えて差し上げましょう」的なマウントポジションでくる。

そして、とくに付加価値的要素をもたない、その辺のネットにいくらでも転がっているような「一般情報」を得意げに、上から目線で語ってくる。

今年に入って、かれこれ一年近く、そういう人と商談をかさねてきた。(もろもろ事情があって担当者交代は依頼できなかった)

私は、最初はソフトに、傷つけないように、相手の話の論点の揺らぎやロジックの乱れ、要点を得ない解説、無駄な情報の多さ、段取りの悪さなどを短い言葉で指摘して、笑顔で改善をうながす。

しかし、大抵「プロフェッショナル」を自負している人は、その程度では微塵も心揺らがず、変わらぬアプローチで接してくる。

何フェーズか言葉選びのギアをあげて指摘しても、多くの場合は改善されない。

その場合、申し訳ないけれど、その担当の方の上司に同席してもらい、こちらの「困りごと」を、率直に、責めるわけでもなく伝える。有能な上司の方はすぐに察知して、適切な改善対策をとってくれる。

ほとんどのケースでは、ここで改善されて、結局は双方にうまく関係が築け、その後の仕事もうまく運ぶ。

しかし、ごく稀に、その事態に逆上して、むしろマウントポジションを強化しようと、マシンガンのように半ば攻撃的に言葉を連発してくる人がいる。

さらには、勢い余って、こちらを馬鹿にしたような、傷つけるような、物言いをしてしまう人もいる。

そういう人に対して、私は、突然、態度を変えることにしている。

相手のマシンガン的な発言を全て記憶して、分類整理して項目に分け、「今お話しされた内容を分類すると大きく10個に整理できます。まずひとつ目は」と、端から順に、完膚なきまでに論破していく。

語気は荒げない。しかし、容赦はしない。淡々と、一つずつロジックのほつれを仕留めていく。

実はつい昨日、そういうことがあった。

こちらとしては、今年2月以来の改善申し立ての挙句の相手からの「説教的語り口(まだ、お若いから分からないでしょうけれど的な)」であった。

相手は50代後半であった。その人は、部下にはやたら厳しいし、ミスがあれば部下のせいにするし、歯の浮く心ないお世辞は多いし、おまけに説教がましくて話が遠回りでやたら長く、致命的にプライドが高くて、相手を馬鹿にしたような態度が鼻についてしまう。

つまり、フルスペックである。

私がスナイパーのように、トーンを変えずに一つずつ、10分程度にわたって、対面で相手の論理破綻を端から痛烈に指摘し続けていたら、途中で貧血を起こしてしまった。

でも、私は後悔はしていない。こちらのほぼ一年で累積したフラストレーションの3割も解消できていない。

つまり私は
●客には柔和で部下に無意味に厳しい人嫌い
●ミスを部下のせいにする人嫌い
●プライドと実力の乖離が大きい人嫌い
●説教がましくマウントしてくる人嫌い
●話が偉そうなのに要点を捉えてない人嫌い

そのくせプロフェッショナルとしての自負がある人が、嫌いなのである。

●部下のミスはかぶり、部下に対して寛容で
●謙虚であるのに実力がかいま見えて
●見えないところで細かな問題を先読み解決してくれ
●顧客に対して低姿勢だが、顧客はついつい頼りたくなり
●話が要点を捉えて端的でわかりやすい

人を、私は目指したい。

それがプロフェッショナルであると、思う。

それにしても、久々に炸裂させてしまった。
論戦スナイパー。我慢の限界だった。

貧血になったあのおっさん、体調戻ったかな。

【書籍紹介】新しい時代の共生のカタチー地域の寄り合い所 また明日

年末から読みたいと思っていたこの本をようやく読むことができました。

ひとこと、素晴らしい。

「リスク回避至上主義」「縦割分断管轄徹底主義」の日本において、こんな場所が本当に存在してくれるなら、まだまだ、希望が持てる、と強く感じました。

わたしは前職でヨーロッパの子ども文化に関わる仕事をしていたので、ヨーロッパにはいくつか、少し似通った施設が実現されていることを知っていました。

しかし、この本の舞台となる「また明日」は、もっともっと素晴らしい。しかも、いたって日本的に、本来あるべき姿を具現化されています。

保育所、認知症デイホーム、地域の寄り合い所3つの機能を合わせ持つ施設、「また明日」。具体的にどんな場所で、どんなことが日々起きているかについては、私が借りてきた言葉でいくら語ってもウサン臭くなってしまうので、ぜひ読んでいただきたいです。

日本の「福祉」という言葉から立ち上がる、どこかウェットなニュアンスと異なる、カラッとしてるのに柔らかく暖かい世界がそこにあります。考えさせられます。

こんな場所に、自分が子どもの頃、出会いたかった。もしくは、うちの子の住む街にあればいいのに。

          ✳︎

著者の太田さんは、学術集会などで何回かご挨拶やお話をさせていただいてましたが、昨年の夏くらいに、明星大学の星山先生に「会わせたい人がいる」とお引き合わせいただき、会食の場を設けていただき、本気で話し込んだのが深く話した最初でした。

しかし、その「最初」が非常に深い話に展開する場で、終電を逃しそうなほど話し込み、わたしはすっかり、太田さんの考え方に共感してしまいました。

ですのでこのご著書も迷いなく発売前に予約して購入していたのですが、なかなかバタバタしていて読めなかったのです。(その他の様々なルポや記事はメールで共有していただいたりして、沢山読みました)

太田さんのこの本での表現は、いたって平易。しかし「平易」に書くことはすなわち「容易」ではなく、かえって繊細な言葉選びが必要で、執筆されるの大変だったろうな、と想像します。

そしてわたしは「また明日」で日々起きる本の内容だけでなく、太田さんの文章表現にもすっかり感銘を受けてしまいました。時々、ピリリと本質を端的につく。

“安心・安全を理由に、私たちは人を分けてきた。知らない人は怖い人になった。人を分ける一番の理由は管理をしやすいから。効率を求めて私たちは分けられてきた。そして全ては自己責任と言われるようになった。みんな、自分のことだけしかしなくなった。社会に歪みが生まれている。
 
偏った「安心・安全」と引き換えに、私たちは何を犠牲にしてきたのだろうか。「全ての人がよりよく生きること」を犠牲にしてきたことにそろそろ気づくべき時だ。”

この作品の主役である、眞希さん和道さんの言葉も、太田さんの文章を通して、生き生きと語られます。

道路と敷地の境に確固たる壁や門はなく、誰でも自由に出入りできる。散歩の途中のお年寄りがふらりと立ち寄って、お茶を飲みながらおしゃべりを楽しむこともできるし、目の前の公園で遊んでいる小学生がトイレを借りにくることもある。そんな、現代風(施設を閉ざす)とは正反対の、あまりにもオープンに誰でも出入りできる施設のセキュリティについて

“閉じれば閉じるほど、なんとかして入ってこようとする人がいるんじゃないかな。うちは、どこから入ればいいかわからないくらい開いてますし、こちらから声もかける。悪いことをしようと企んでいる人はかえって入りづらいのかもしれませんね”

「昔は良かった」と簡単に片付けられる懐古主義について

“昔は良かったと言われることもよくありますが、私たちが子どものころが今より良かったかというと、そうではないところがたくさんあります。受動喫煙は当たり前、性犯罪被害者やLGBTへの理解もなかった。障がいがある人への差別だって多かった。それに比べれば今は随分多様な人が生きやすい時代になったと思います。外国からもたくさんの人がやってくるようになった。この時代にお互いの違いを認め合いながらもう一度つながり直すことで、より住みやすい社会ができるはずです。”

と、どこをとっても素晴らしいのです。

          ✳︎

私が個人的に注目したのは、第二章のタイトル、これはこの本を通底して流れる音楽のような言葉、「分けないことで分かること」でした。

この言葉のもつ本質と、そして面白み。

「分ける」と「分かる」は、もとは由来を同じくする言葉です。辞書的には「混沌とした物事がきちんと分け離されると、明確になることから。」

例えば、漠然と「花」として眺めていたものが、言葉によって「おしべ、めしべ、子房、花弁、がく、茎、葉、根」などに「分けられる」ことにより、漠然としていたものがくっきり「分かる」

私は進化多様性生物学の研究をしていた頃に人体解剖も学んだのですが、解剖とはまさに「切り分けて、名付けて、分かる」を追及する世界。科学の、というか人間活動の、原初的な、しかし本質的な探求です。

「LGBTQ」という言葉も、それ以前の、もっと原始的で野蛮な言葉が定義していた曖昧な世界から、もっと確かな、我々が「取り扱える」具体的な概念を「切り分けて」くれたため、我々の人間理解(分かること)も進みました。

しかし、「分けること」は確かに必要であり、人間活動の本質であるとも言えますが、現代社会はそれが進みすぎて、むしろ、分断や差別、もしくは無関心を増殖させているのかもしれません。

私の息子は発達障害を持っており、いくつかの診断名がつけられています。診断名の定義と診断は「理解の第一歩」ではありますが、同時に「そうでない子」と「そうである子」を分けることでもあり、一面では「単なるラベリングによる差別の助長」という恐怖的な側面も持っています。

例えば我が子が療育に通うときに乗るバスには大きなウサギの絵が描かれており、子どもたちには「ウサギさんバス」と呼ばれています。しかし、地域の大人たちにはそれが「普通の子とは異なる特殊な子が乗る」バスとして認知されています。

妻はあるとき、自分たちがバスに乗り込もうと列を待っていたときに、通りがかりの親子のお子さんが「あ!ウサギさんの可愛いバスだ!」と声に出したとき、とっさにその親が「よしなさい、あれはキ○ガイの子の乗るバスだから近づくのやめなさい」と注意しているのを聞いて、それはそれは立ち上がれないほどの大変なショックを受けたそうです。

このように、単なる言葉の定義による「ラベリング」は、差別を助長する側面があります。

かと言って、私たちが日々「良かれと思ってかけられる」親切な言葉、「子どもなんてみんな一緒だよ」「心配しすぎだよ」「他の子と変わらないじゃん」という声がけは、これはこれである種、リテラシーの低さ、人間理解の浅さがもつ野蛮さ、残酷さを孕んでいます。

「分けない(名付けない、理解しない)」ことそのものが良いのではない、とわたしは思います。

しっかり分けて、理解と配慮を深め、その上で、「分けない(存在として同価値のものと位置付け分断しない)」ことをしていく。その統合の過程において、さらに、「分かること(人間理解)」が深まる。

これらのことは、私が本来考えていたことでもあり、本作品全編に描かれていることとも通じている、と勝手ながら感じました。

ついつい長くなりました。「また明日」は、いつか、ぜひ、訪問させていただきたい場所です。

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