「障害」は個人ではなく社会の側に立ち上がってくるもの。
“「メガネが開発されるまでは、目の悪い人は障害者だった。今やメガネは個性。たったひとりのニーズが、新しいデザインと『美』を生み出しました。これはいわゆる社会貢献ではなく、新しいビジネスの第一歩。その結果として、世の中の役に立てばいい」。”
ユナイテッドアローズとのこの取り組みカッコいいですね。
障害者の「障害」は「個人の側」にあるのではなく、その個人と社会との接点において、「社会の側」に立ち上がってくるもの、という学びが、私の基本的な原動力です。
障害=バリア=難しさを、社会の側が解消させてしまえば、少なくともその点においてはその人が感じていた「障害」も解消する。
だから、障害の「害」という字が個人の尊厳を毀損するから「障がい」と呼びましょう、という近年の風潮は「難しさの解消の必要性」の視野を歪めてしまうという点から私は個人的に賛同できないのです。
そもそも障害は社会の側に存在するのだから、それをしっかり見据えて、言葉の表記だけ変えるんじゃなくて、社会のデザインを変えていきましょうよ、と言いたい。
RPAという開発領域で、これまで視覚障害のエンジニアが操作できなかったUI(ユーザーインターフェース)を構築し直して、操作できるようにして、その「UI側に立ち上がっている障害」を解消してしまおう、という取り組みにチームの重要ミッションとして優先的に挑んできたのも、個人としてはそういう考え方の具現化のひとつなのです。