沈黙ーサイレンスー
という映画を見ました。
師匠が見て、
お話されていた、
その内容に釘づけになったのです。
ここで、
私の前世で、
幾度も繰り返していた大きなカルマが、
解き放たれようとしているので、
そのことについて書いていこうと思います。
私の前世には、
キリスト教や神道の、
聖教者だったことが、
何度も何度もあり、
大抵の場合、
命を神に捧げて殉教しているのです。
愛する人のため、
命を捧げて死んでいたのです。
なぜか、踏み絵をみるのも、
言葉を聞くだけでも、
ものすごく怖い。
理由の分からない、
尋常ではない恐怖を感じます。
いつの人生でも、
神を信じ、
大きな勇気を信仰にすべてを注ぎ、
すべての判断を、
神の教えに委ねて生きていました。
神は誰一人とも見捨てない。
どんなに罪を犯した人でも。
どんなに弱いとされる人でも、
裏切る人も、
悪魔でさえ。
それは、真実だと、
毎度毎度、思い知らされ、
ひどい裏切りにあい、
痛切な思いをしても、
神の視野から見た自分の小ささに、
辟易するのです。
弱く未熟な私が、
神に見捨てられないように強くあろうとしたり、
一人でも多くの人を救うために、
私のすべてのエネルギーを使って、
教えを説き、
祈っていました。
神は、どのように判断するだろうか。
この苦しみから救われるには、
目の前の人を、
苦しみから救うには、
どのようにしたらよいのか。
いつもいつも、
祈りを捧げ、
神の導きを信じていました。
苦しい時に、
神はなんという言葉をかけてくれるのか。
その言葉が欲しくて欲しくて、
祈り続け、
神に問いかけるも、
ひたすらに耳をすますけれども、
聞こえない。
いつも、いつも、
聞こえないのです。
沈黙。
祭司ロドリコの心中や価値観が、
分かりすぎて、
分かりすぎて、
痛いです。
静かなんです。
神は本当にいるのか。
神は本当に導いてくれるのか。
神の愛とは何なのか。
苦しみもがき、
慟哭するたびに、
何度、問うたか分からない。
その問いとともに、
死んでいく人生。
今世で、
私は、本屋さんでふと見た文字に、
釘付けになったことがある。
内在神。
正しい解釈とは違うかもしれないけれど、
これだ。
と思って。
そう。
神は、十字架のシンボルや、
キリストの絵画や、
ロザリオに向けて、
自分の外の方向に、
神を外に求めて祈るのではなく、
自分の内なる神の存在に、
祈るのだと。
自分の内なる神の声を信じ、
生きるのだと。
キリストの教えや、
宗教の教えは、
人やその時の状況によって、
解釈が大きく変わってします。
その解釈で、
人は苦しみを生み、
その苦しみのために罪を犯したり、
弱きものとされてしまう。
違うんだ。
神は、外にはいない。
罪はもともとないんだ。
救いが必要な人はいない。
皆、完璧な神の子だからだ。
自分の内なる神の声を無視した時、
現実は苦しみにまみれる。
自分の内なる声とは何なのか。
それは、本音。
神の声は、
私の本音。
神の導きは、
私の本音。
神の愛は、
私の本音。
私が本音を生き、
自分の本音を生きれば生きるほど、
神の愛に還っていく。
神の愛に抱かれて、
安らかな生を感じる。
沈黙な静寂の時にしか、
本音は、
愛は、
響かないらしい。
だから、
沈黙が与えられる。
景色や現象、感情などから、
何かのイメージから、
言葉にならない、
内にあるものが溢れて、
メッセージとなって、
降りてくる。
深くて高い。
そこが、
本音。
神の愛。
内なる神の愛を、
それが何なのかを、
私が伝えていくことが、
過去世の私を救い、
その時に救えなかった人を救い、
自由に生きることを、
至福な楽しい人生を、
思いっきり生きる人が
増えるのだと思うのです。
だから、
私はこれを仕事にしていきます。
前世から考えても考えても、
分からなかった、
人が本当に救われる生き方を。
一人残らず。
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