会っても会わなくても | 不幸を書こうか幸福を書こうか、それが問題だ

通話記録を見返してみた。


 母から電話が最後に来たのは6月18日深夜に眠れない、と留守電があった。


 私とは電話は繋がらず 母は救急車を呼んだ。


 緊急入院になり、せん妄がひどくなった。


 それは、入院してたった一日しかたっていないのに。



 何もかもわからなくなり点滴の管を抜き歩き回りとうとうベッドに縛り付けられた。


 そうなっていたのは、父から聞いた。


 私は、本当は、母は普段行っているリハビリをただしているだけなのではないかと思っていた。


 それなら、なお、可哀想だ。 


 寝たきりを心配してたまに立ち上がったり座って足の運動をしたり母はいつも、それをしていた。 


 ただ、それをしているだけなのに縛り付けられて動けないならどんなにか苦しいだろう。 


 そう思って面会の日を迎えた。 


 そこには、家族の事を全く理解できない母がいた。



 その後に今の病院に転院。 

 何があったか、知らないが母のせん妄は、消えていて正気の母が前のようにあそこが痛いだ眠れないだと愚痴をこぼす。 


 何もかもわからなくなっている状態が果たして、悪い状態なのか、わからなくなった。 


 わけがわからなければ苦痛はない。 


 わかるから、苦痛がある。 


 絶食が続き力のない声で愚痴をこぼす姿を見るとただ、ただ、痛々しい。 


 そんな状態でも今日は80メートル、歩く練習をしたらしい。 


 これは、父親情報。 


 父も母も変わった人だが長女の私には親なので、これが普通に見えていた。 


 母には私が子どもというより、兄弟や友達みたいな感じなのだろう。 


 私が小さい頃から 


 「子供なんて産まなければ良かった 」


「 しあわせ、だなんて一回も思ったことがない 」


と、 いつも、そう言っていた。


 弟には言わないがなぜか、私にだけ言う。 


 私は、少しでも母に幸せに感じてもらいたくて褒められるであろう、全てをこなした。 


 ひたすら良い子になろうとした。 


 でも、母には、それすら憎らしいらしく


「 優しくすれば調子にのりやがって!」   と、ツバをかけられることもあった。 


 ただ、ひたすら、泣いていた過去もあるが大人になってわかる。 


 母は私に、良い子になってもらいたいわけでなく


「 いい子ね~」って誰かに 


おそらくは母のお母さんに

母本人が褒められたかったんだ。


 いつだって、見てもらいたくてかまってもらいたくてでも、それが、叶わないからきっと、病気が身体にでたんだ。 


 弟が病気を知ってから、私に言った。 


「 母は、見てもらいたい病。その夢が今叶ってる。」



 そうだな、と思った。 


 そんな母だから笑って免疫力上げよう、なんて話は一切通じない。 


 ネガティブは、病気を招くから気持ちは負けないよういよう、なんて、逆効果だ。 



 それでも、わたしは、少しでもいい。


 母に笑ってもらいたい。 


 生まれてきて良かったと、言ってもらいたい。


 そのために、私は、この人を母として選んで生まれてきた。 


 会えない時間も、会っていても心配と不安は尽きない。 


 でも、会えなくても会っていても母に笑ってもらいたいそうずっと思っている。