2019年12月3日、出張中の出先で通りすがりに押さえた、砂押川に架かる橋をご紹介。
まずはこれ。
橋に正対…してるんだが、そうは見えない?よーく見てタモレ。現在地こちら。
かなり紆余曲折あったような景だが、これが上の写真でいう右側の親柱。
そのお名前は、「松竹第五号橋」。これを見てなんとなくピンとくるワードが脳裏に浮かび上がってきたが、とりあえず観察を続けよう。
サイドアングル。
こうして見ると、しっかりと「橋」。アーチを描く高欄のデザインもいい感じ。そしてなかなかに古そうだ。
で、左側の親柱にはお誕生日。
「昭和拾年四月架」。おお、そんなにも古いのか。「アレ」がそんな時代からあったとは。
「アレ」…つまり橋名を見て脳裏にモヤモヤ~と浮かんできたワード、それがすなわち「大船撮影所」。
ここ大船に大きな撮影所があったことは、なんとなくの一般知識として記憶していた。もう無くなってたとは知らなかったレベルとはいえだ。で、それが東映なのか松竹なのか日活なのか、それも知らなかったんだが、撮影所とくれば映画会社、ってわけで、松竹ときたら大船撮影所がらみの橋かな?と思った次第だ。それにしても昭和十年なんていう昔から撮影所があったとは。
後に改めて調べてみたら、興味深いことがわかった。
Wiki先生によれば、撮影所が蒲田撮影所からの移転でここ大船に開所したのは、昭和11年1月ということだから、なんと松竹第五号橋はそれに7ヶ月も先んじて架橋されたわけである。ただ、移転先が大船に決定して昭和9年には地鎮祭が行われたということだから、撮影所の建設と並行してこの橋が(…というか、これが第五号だからこの近辺の橋たちが)架けられていったのだろう。いや~面白いな。
下流側に見えているのが、何を隠そう「第六号橋」。
実は先にあちらを見てから来たので、カウントアップの法則にも気づいたのだった。あちらもいつか記事にするかも?しないかも?
上流側を見た景。「橋」感乏しい。
今昔マップで見てみたら、この橋が撮影所へのアプローチだった…わけではなく、渡った先は基本的に芝浦製作所の敷地だったように見える。
ただ、現在も渡った先には細長い土地に住宅などが並んでいる(余談だが、渡った先は横浜市栄区)のを見るに、もしかしたらかつては撮影所関連の社宅とかなんとか、そんなものが建っていた可能性はあるかも。
ちなみに撮影所があった場所はここからもっと東、現在は鎌倉女子大学や同短期大学があるところのようだ。
ここからかつては、
どんな景が見えていたんだろう。
2000年6月に撮影所は閉所したとのことで、
今やここ大船の地で、「松竹」の名を残すものはほんのわずかなようだ。
大船撮影所の忘れ形見。それはひっそりと目立たず街角に残っていた。
以上。