【1】より続く。
左手路傍にあったもの、
それはお地蔵様ではなかった。
お墓かとも思ったが、それにしてはこんなにポツンと…っていうのも不自然。薄暗くて文字が判読できないので、いつものように垂直に光をあててみれば、きれいに文字が浮かび上がった。で、これは…戒名!?
右側列には「~禅定門」、左側列には「~信女」とあるので、男女それぞれの戒名が刻まれているのだと思われる。いわば石製の位牌的な…ってか、これ墓誌か?
なんなんだろういったい。墓誌ならお墓とセットで存在しなくてはいけないと思うのだが、ポツンと一基だけ。客観的に見ればちょっと怖い状況かもしれないが、怖さは感じなかった。純粋に不思議で。
左側面には
「天明二寅五月十六日」。江戸期かよ!
実は先人の記事によれば、目指す物件は明治年間ごろの完成ではないかということなのだが、ここで江戸期の石ものが登場したということに意味があるのかないのか?とはいえここはまだ山に入って数十mの、集落と山のキワという場所なので、年代が違ったとしても矛盾はないんだが。
ちなみに天明二(1782)年といえば、天明の大飢饉が始まった年らしい。
右側面には、
「享和三亥極月●六日」。
12月を師走でなく「極月」と呼ぶことがあるというのは初めて知った。●は丗に見えるのだが、「六」と続くからには違うだろうし、「廿」なら文字幅がおかしいし。…じゃあ「十」か(笑)。
そんなことより、今度は享和三(1803)年だ。21年の開きがあるふたつの日付、そして刻まれた男女の戒名。これはどちらかに先立たれた夫婦、それぞれの戒名を刻んだ位牌代わりの石碑…体裁的にはやっぱ墓誌よなあこれ?
裏面には何も刻まれてなく、また周囲にも何もなかったと思うので、これ以上のことはわからないし、おそらくは今回の目的地とも関係はないのだろうが、ロケーション含め心に残ったので、ちょっと写真を費やしてご紹介した。
さて、道に戻って進軍再開。
最初の左コーナーに、半ば倒れたアンテナ的なものが。これなに?
そこから右手の谷を見下ろすと、
あんな絶壁の途中に建物が!?
…とか煽りたいとこだが、あれは前回4枚目写真の「人気の感じられない家屋」を上から見下ろしているのだと思う。そんなことよりも、のっけから意外なほどに深い谷に驚かされた。どうやらこの下に滝があるようなのだが、これ今回のキーワードだ。そう、「滝」。
そしてこの道なんだが、
立派だ。
オーバーハングした岩を見るだけで、
大規模な土工であったことは一目瞭然。
先ほどの墓誌?に刻まれていた江戸期の年号がこの道と関係があるのかないのか、気になるね…。
どうでしょう、この道幅!
この道幅でグッと左へ曲がっていて、
そこを立ち上がったところは、
高い切り通し!すご!
そして間髪入れずの
この景!
写真はないが、路肩は石積みで固められていた。
そして振り返れば、
見事な切り通し。ここまでの道程だけで、安普請な道でないことはじゅうぶんにわかった。この道の出自って…?
新たなプチ切り通し。
これを越えると、ちょっとした見ものがあった。
それがこちら、
どうでしょうか、この立派なこの石垣!
実際のところ、これそこまで古そうには見えない。てことは裏を返せば、比較的近代までこんなに力を入れて整備されてきた道…ってことになるのでは?
いや~、これは…
事前の期待を上回ってきてるぞ。
【3】に続く。